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石井隆の映画は救いがないという「誤読」を却けました。晴佐久神父との対談で話題に。

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新たな批評性が加えられ、石井隆ファンの選別が開始された
    • 旧約から新約へのシフトを告知した『甘い鞭』--
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【どこに再浮上する「バプテスマ=沈礼」なのか】

■石井隆とはバプテスマである。バプテスマは洗礼と訳されてきた。今日では誤訳だと知られている。敢えて似た形で翻訳すれば「沈礼」即ち深く水に沈めること。無論死の隠喩だ。深く沈んだ身体が再び浮上する。これが再生(正確には翻身=生まれかわり)の隠喩だ。
■バプテスマとは「死と再生(翻身)」の儀式。儀式自体が極めて明確に「離陸⇒混沌⇒着陸」というファン・ヘネップ的な通過儀礼の形式を含む。ヴィクター・ターナーはこの混沌をコミュニタスと捉えた。社会で云えば集合的沸騰。人格で云えば変性意識状態だ。
■因みに今日の正統教会が、「洗礼」の訳と、「沈めること」から遠く離れた儀礼的所作とを、維持するのは、カルトの匂いを払拭するためだ。宗教社会学的には、社会との両立可能性を歴史的に確証された宗教に対して、両立可能性を疑惑される宗教をカルトと呼ぶ。
■本来のバプテスマ(沈礼)は身体を長く深く沈める。多少なりとも危険を伴う事実を横に措いても、この所作は社会生活を送る人々の通常意識状態から隔った深い変性意識状態を伴わざるを得ないという事実が、社会との両立可能性に関わる疑惑を生みかねないのだ。
■因みに日本の映画で本来のバプテスマを描いたものは紀里谷和明監督『CASSHERN』(04)だけである。深く長く沈める所作に併せて「死と翻身的再生」という通過儀礼的な本義が保たれている。場面としては夜が選ばれていた。人は夜、それも明け方に変性意識に陷る。
■原始キリスト教の素養ある者はこれらを弁える。13世紀に教皇が全体性を体現するとしたトマス・アキナスに対し、君主より歴史的に新しい教皇による全体性の体現はあり得ぬと教皇に対抗したダンテは、『神曲(地獄篇・煉獄篇・天国篇)』でバプテスマを反復した。
■本作『甘い鞭』の直前に石井隆が監督した『フィギュアなあなた』(13)の冒頭、『神曲』の表紙絵として定番のギュスターヴ・ドレの絵画が示される。これはリテラルな「汚濁からの浄化」よりも、むしろ「深く沈んだ後に浮かぶ」バプテスマの本義と照応しよう。
■その証拠にどこに再浮上するかが問題化する。聖性に満ちた場所に浮かぶか、元の身体のまま再び汚濁地獄に浮かぶか、新たな力を獲得して再び汚濁地獄に浮かぶか。別角度から言えば、再び〈社会〉(人倫の世)に浮かぶのか、その外にある〈世界〉に浮かぶのか。
■石井作品には汚濁地獄に深く沈む男女が登場する。主人公の性別に関係なく視座は男で、「沈んだ男がそこで、先に沈んだ(より深く沈んだ)女を見出した上、女の『汚れても汚れない聖性』に憧れ、女を通じた救済を望むものの、果せず終る」という形式を反復する。
■バプテスマの本義に遡れば、深く沈んでもどこに浮かぶか保証されない。石井作品の場合、浮かぶことさえ定かではないと見える。だが石井隆が必ず男女を共に沈ませ、女による救済を男に希ませる事実に鑑みれば、この男の希求機会自体が「虚数的な救済」なのだ。
■原始キリスト教に遡ればイエスが告知した福音の核は「神は分け隔てしない」に尽きる。これに従えば、ユダヤ民族ならざる者にも「希む機会」が与えられたこと自体が救済なのだ。同じ意味で、「沈んだ男」に「希む機会」を与えるためにこそ「沈む女」が存在する。
■だが「果たせず終る」と述べた通り、人倫の世(〈社会〉)に於ては男が破滅する。だから「虚数的な救済」と述べた。とすれば、この「虚数的な救済」は、謂わば教義学的に思考した場合、どこに浮かんだことを意味するか。これが石井作品の最重要な問い掛けだ。

【キム・ギドクの「マリア」は石井隆に不在】
■『嘆きのピエタ』(13)で旧教とりわけマリア信仰的なキリスト教モチーフを掘り下げた、私のマブダチでもあるキム・ギドクとの対比が、伏線になる。ギドクは「〈社会〉から遠く離れた〈世界〉」に着地し、石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」に着地する。
■あらゆる全体を〈世界〉、あらゆるコミニュケーションの全体を〈社会〉と呼ぶ。社会システム理論が明らかにする通り、原初的社会では〈世界〉は〈社会〉と重なるが、社会進化に従い〈世界〉は脱〈社会〉化する。つまり〈社会〉の外にも〈世界〉が拡がるのだ。
■古代バビロニアにおけるastrologyの展開が好例である。元々astrologyは星々に語りかけて帰結をもたらそうとする呪術だったが、古代バビロニアで初めて星々を動かせない(星はコミュニケーションしない)との観念が普及し、「占星術」の訳が適切な営みとなった。
■制作過程での事故と社会的批判の沸騰ゆえに、一旦は隠遁したギドクは、彼の『春夏秋冬、そして春』が描くモチーフ通り、山深く籠って自給自足生活を続けた挙げ句、『ピエタ』で戻ってきた。ギドクの救済はいつも、〈社会〉から遠く離れた〈世界〉にこそある。
■石井にはあり得ない。(男の)救済は少なくとも当初は「汚れても汚れない女」との一体化を措いてあり得ない。この表象が母と重ねられる場合、この救済願望を「子宮回帰願望」と呼び、元来た所に戻りたいとの観念を核とする意味論を「(狭義の)神秘主義」と呼ぶ。
■若松孝二は『犯された白衣』(67)に於て子守歌を媒介として「汚れても汚れない女」を母に重ねた。石井隆は本作『甘い鞭』において(監禁強姦犯にとっての)「汚れても汚れない女」を母に重ねる。その意味で、両者は「子宮回帰願望」モチーフを共有している。
■若松の場合「汚れても汚れない女」が裏切る。これを男女の政治闘争と回する向きもあるが的外れだ。『理由なき暴行』(69)が子宮表象を持ち出さず描く通り、〈ここではないどこか〉があり得ぬこと、〈どこかに行けそう〉で〈どこへも行けない〉ことの隠喩だ。
■石井の場合、男が結局救われないのが「汚れても汚れない女」の裏切りによる場合もあるが、『ヌードの夜』(94)『フィギュアなあなた』等の重要作品に見る通り必然的でない。むしろ『夜がまた来る』(95)が描く通り「女がもっと深く沈む」ゆえにこそ男を救えない。
■だが既に記した通り、石井の場合、男が現実に人倫の世(社会)で救われることが救済なのではない。『死んでもいい』(93)の如く男がそれを希む場合があるとはいえ、最終的には「もっと深く沈む女」に「希む機会」を与えられたこと自体が「沈む男」への福音なのである。
■先の物言いに擬えば、石井の男たちは若松の男たちよりも、ずっと深く沈む。だから〈どこかに行けそう〉(で〈どこにも行けない〉)とは、もはや念わない。〈どこかに行けそう〉などと能天気に思う男は、本作『甘い鞭』の監禁強姦犯の如く、馬鹿扱いされるのだ。
■《ギドクは「〈社会〉から遠く離れた〈世界〉」に着地し、石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」に着地する》と述べた。だが石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」が初めからあり得ないと断念している。その意味で、自覚的な「不可能性への希求」なのだ。
■だから「ギドクは絶望が深いが、若松は能天気(な部分がある)」と言えても、「ギドクは絶望が深いが、石井は能天気」とは言えない。むしろ人倫の世(〈社会〉)から遠く離れず踏み留まる(がゆえに汚濁地獄から逃げない)という意味では石井の方が絶望的だ。
■マリア信仰に擬える。マリアとは無条件の愛の表象。罪を犯そうが親を殺そうとしようが微動だにしない愛。子が惨殺される姿を見ても狂わず抱擁する愛。ギドクではマリアが〈世界〉に重ねられる。石井世界にはマリアを希む男はいてもマリアは決して存在しない。

【石井隆による「頓馬な石井ファン」の排除】
■ここまで教義学的準備をして漸く『甘い鞭』を論じ得る。感覚的には単純だが言語化しようとすると途端に困難を来たす表現がある。石井作品が典型だ。言葉の道具を取り揃えないと、当たらずとも遠からず的に、似た印象を与える他の表現と一緒芥になってしまう。
■今年公開された『フィギュアなあなた』と『甘い鞭』には従来のモチーフを否定せずに追加された新たなモチーフがあると感じる。『フィギュア』の場合、男に「不可能な希求」を抱かせるのは、「(男より)深く沈んだ女」でなく、「人になれないマネキン」だ。
■マネキン役の佐々木心音と新宿ゴールデン街で手を繋ぎ、深く話し込んだが(無論仕事)、彼女はグラビアアイドルであることで〈物格化〉的に存在を縮小されたと感じる存在で、物格化/人格化というコードに相応しい。佐々木心音はマネキンとして疎外されている。
■だが〈物格化〉された存在であるがゆえにこそ、男の希求に依り代を提供する。佐々木心音がファンに提供する依り代と、マネキンが主人公の男に提供する依り代は同型だ。「沈んだ女」から「物格化されたマネキン」へのシフトで、奇しくも新たな批評性が加わった。
■このシフトで不可能性モチーフが失われる事態--フィギュアやグラビアアイドルの如きに救済される男たちが五萬といる--を塞ぐべく、イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』(99)に似て、主人公の男が轢死する瞬間に見たビジョンであることが示されている。
■似たシフトが、同時期に相次いで撮られた『甘い鞭』で反復される。17歳だった主人公奈緒子に「汚れても汚れない女」を見出して救済を希む機会を得た監禁強姦男は、彼女を監禁強姦で〈物格化〉し、なおかつ(汚れても汚れないにせよ)彼女を汚す張本人である。
■しかも本作では〈物格化〉の背後に〈母への恨み〉が示される。「あなたさえいなければ私はこうならなかった」という〈母への恨み〉が、一方で母への復讐としての監禁強姦を動機づけ、他方であり得たかもしれない母の回復としての主人公との合一を動機づける。
■私は最近、「男子素敵化計画」の一貫として男子相手のナンパ講座のシリーズを開始し、加えて、これを「男女素敵化計画」に拡張するために風俗方面のフィールドリサーチを始めたが、フィールドで出会うのも、〈母への恨み〉(親への恨み)のオンパレードである。
男子のナンパクラスタ周辺にはミソジニー(女性憎悪)を背景とした〈物格化〉の匂いが満ちている。彼らの大半がアンコントローラブルな年長女性を嫌い、自分が優位に立てる(と見える)年少女性をオモチャにしようとするが、明白に〈母への恨み〉を見出せる。
■他方、風俗女や売春女は経済的困窮者や「壞れた女」だとする、それ自体ミソジニーに満ちた無害化が溢れる昨今でも、現役医学生や現役東大生でも風俗や売春に関わる女性は少なくない。動機を尋ねると「好奇心」との答えが返ってくる。だが真に受けてはならぬ。
■深く尋ねれば〈親への恨み〉が浮上する。〈あなたさえいなければ私はこうならなかった〉。確かに彼女らは医学生や東大生として社会的承認に恵まれる。親は子育てに成功したと自負する。それでも「あなたさえ⋯」の恨みは変わらない。だから「好奇心」なのだ。
■この場合の好奇心とは〈あなたさえいなければ私が知ることができた世界〉へのそれであり、〈親への恨み〉のコロラリーである。振り返れば二十代半ばから十年以上数百人の女性をナンパした私自身まさに〈親への恨み〉のコロラリーとしての好奇心を生きていた。
■最近のフィールドリサーチから浮かび上がるのは、男子における〈恨み〉が、ナンパクラスタ的ミソジニーにおける女の〈物格化〉として現れる事態と、女子における〈恨み〉が、風俗や売春における男の〈物格化〉として現れる事態が、機能的に等価である事実だ。
■本作に於ても平行性が明瞭に描かれる。監禁強姦男は〈母への恨み〉から〈物格化〉に手を染め、主人公の女は〈母への恨み〉から挿入アリのM嬢売春に手を染める。M嬢にとってS主人は入替可能な器官で、見かけとは異なりMこそがSを〈物格化〉するのである。
■本作への批評で、〈母への恨み〉ゆえの性愛対象の際限なき〈物格化〉という「監禁強姦男と主人公奈緒子のパラレリズム」を見逃したものは、クズと同じだ。この平行性を厳格に保つためにこそ、原作で描かれたストックホルム症候群が本作では慎重に排除される。
■かかる構造的平行性に留意すれば、なぜ、(1)主人公奈緒子が「あのとき」に感じた「甘い味」が、M嬢売春で得られず、彼女自身による終盤のジェノサイドで得られたのか、(2)ラストシーンでナイフを振りかざす腕を押さえて彼女を抑えた手は何なのか、自明である。
■(1)M嬢売春は所詮はプレイ。〈物格化〉はごっこに留まる。ごっこで「甘い味」は再現できない。再現するにはごっこを超えねばならぬ。(2)問題の平行性は偶然ではなく〈恨みの連鎖〉だ。連鎖を止めねば、深淵に見えて所詮は自意識によるフェイクに塗れてしまう。
■石井隆がやろうとしていることは明白で、石井隆ファンの観客や批評家から、自意識の問題を〈社会〉や〈世界〉の問題と取り違える頓馬を排除しようとしている。実は、そうした作業を私自身が遂行しようと準備していた矢先なので、そのことがよく判るのである。
■イエスのパリサイ派(ユダヤ教主流)批判に似る。彼によればパリサイ派は、罪を犯さぬことで神から救いを引き出そうと、本来規定不能なトーラーを規定可能なミツヴァに置き換えるという、「神の偉大さの毀損=〈自己〉と〈世界〉の取違え」に淫しているのだった。

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