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年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2013年版、宮台発言の一部を抜粋

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年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2013年版、今週金曜日『週刊読書人』に掲載されます。宮台発言の一部を抜粋します。


【宮台】『小室直樹の世界』(ミネルヴァ書房)の刊行に携わり、小室先生に代表されるオーソドックスな近代理解が今でもどれほど通用するのか真剣に考えました。その視座から見て、今年は震災や戦争が起こっていないものの散発的ながら重要な出来事がありました。アメリカの個人情報大量収集問題やオバマケアをめぐる騒動、日本のヘイトスピーチ問題や特定秘密保護法問題。
 技術・社会・文化・宗教など幾つかの切り口で語れますが、技術という括りが大切です。マックス・ウェーバーの議論を引けば、政治倫理は市民倫理とは別物。市民倫理は心情倫理で構わないが、政治倫理は責任倫理でなければいけない。つまり結果責任が問われる。法令順守に意味を与える社会自体が危うい場合、血祭り覚悟で法令の枠外に出る覚悟が政治家に要求される。
 むろん行き過ぎれば社会が危うくなって元も子もない。何がバランスを保たせるのかが問題です。政治家の個人的見識という答えでは話にならない。オーソドックスな答えはエートスつまり心の習慣とそれが支える政治文化です。ところが順法動機にせよ社会貢献動機にせよ血祭り覚悟で手を汚す行為動機にせよ、エートスよりも、技術を思考しなければいけなくなった。
 アメリカの盗聴法がわかりやすい。盗聴法に関わる最小化措置(誤用乱用悪用をチェックする措置)はローテクノロジーが前提です。電源を入れた瞬間から編集不可能な形ですべてが録音される装置。試し聞きができない。でも今はそうしたローテクノロジーを前提とした最小過措置では賄いきれないほど通信技術が高度化しました。
 ウィキリークスやスノーデンの背後に見え隠れする知識集団アノニマスが持つ技術水準は想像を絶し、NSA(国家安全保障局)が頑張っても、追いついたと思ったら相手が先に進んでいるイタチごっこ。このイタチごっこは僕たちが観察したり想像したりできる範囲をはるかに超えたアーキテクチャーを前提にします。従来の技術的な抑止措置は効きません。
 だからこそ統治権力は、悪意がなくてもあらゆる措置を取らざるを得ない。オバマがテロの脅威から社会を守ろうと思えば、法令を超えても最新技術を使った監視をする他ない。僕がオバマならそうする。かつてなら技術的に制約されたテロ行為が、制約を取り払われた以上、同じく技術的に制約された盗聴行為も、制約を取り払うしかありません。
 この「余儀なきイタチごっこ」を前提にすれば、統治権力が法令枠内に自らを抑制するなどあり得ません。かつて倫理的制約に服すると見えたものも、実際はローテクノロジーを前提にしていたということ。だからこそ、技術の進歩で、倫理に見えたものが崩れるのです。もう少し一般的に言います。
 丸山眞男的な思考、または彼が踏まえるトクヴィル主義に従えば、〈健全な民主制〉を〈自立的な個人〉が支え、〈自立的な個人〉を〈自立的な中間集団〉が支える。ところが日本には〈依存的な中間集団〉しかなく、〈依存的な個人〉が量産され、〈出鱈目な民主制〉になる。ちなみに〈健全な/出鱈目な民主「制」〉と表記するのは、民主的な制度の多くが機能しないからです。
 皮肉にも今、丸山が見本にしたアングロサクソンを含めた先進国が、問題先進国である日本を追いかけています。グローバル化=資本移動自由化で、中間層分解と共同体空洞化が進み、個人が不安と鬱屈に苛まれ、ポピュリストの活動余地が生まれます。ポピュリストが登場せずとも、些細なことから〈感情のフック〉に釣られて人々がモブ化する現象も起こります。
 丸山が全体主義的だと危惧した大衆社会現象が展開するのです。例えば日本。「特定秘密保護法問題」は「安倍ちゃん問題」つまり「ヒトラーを欠いたアイヒマン問題」です。「アイヒマン問題」はアーレントの言う「悪の凡庸さ問題」つまり「上から言われた仕事をしただけ問題」です。そして「上」とは「安倍ちゃん」。カリスマ総理どころか、昔の同級生たちが嘲笑する類。
 要は「巨大な空洞」です。ブッシュのアメリカもそう。このユニバーサルな現象の背景にも、情報技術による社会の過剰流動性を背景にした感情政治があります。またもや技術。〈健全な民主制〉を支えるのは宗教社会学的エートスだと考えられてきたけど、エートスがあろうが、技術のプラットフォームが変われば〈自立的な個人〉を支える〈自立的な中間集団〉が崩れます。
 図式としては戦間期前期(1920年代)と第二次大戦後(1950年代)に隆盛となった、マスコミ論と結合した大衆社会論に似ます。でも大学で教えられたのは1970年代まで。80年代以降は日本で言えば「大衆化ならざる分衆化」、世界でいえば「生活の個人化と多様化」という話になり、大衆社会論は忘却の淵に沈みました。それが再び「技術と不安とモブの時代」になりました。

【宮台】ただ、かつてと違って技術的合理性の帰結が見えません。ハーバーマスが『認識と関心』で、認識は知ること(知識)で、関心はコミットすることだとしました。知識だけでは社会は回らず、価値コミットメントが必要だとする、パーソンズの影響です。それを前提にしてハーバーマスは道徳あるいは価値コミットメントに関する二つの立場を分けます。
 道徳的主知主義と道徳的直感主義です。前者は、「良いことをすれば神が天国に導いて下さる」「良いことをすれば社会が良くなる」といった〈理由ある利他〉。これは帰結主義的な功利主義的とマッチしますが、ハーバーマスはギリシア的伝統に従い、主知主義では道徳を機能させられないとして、最終的に道徳的直感主義を推奨します。
 「善きサマリア人」の喩話でいえば、戒律を参照する〈理由ある利他〉でなく、思わず体が動く〈理由なき利他〉が良いとしたのです。〈理由ある利他〉は損得勘定に基づく〈自発性〉。〈理由なき利他〉は内から湧く力=virtue(徳)に基づく〈内発性〉。ギリシア研究で名高いアーレントの「労働/活動」の区別も同じです。
 思えば冷戦終焉後、技術の帰結も経済の帰結も見通し難くなり、功利主義が前提とする帰結主義的な行為制御が難しくなります。ゆえに内から湧く力を推奨する「共同体的徳論」(サンデル)や、契約の結び直しを考える「一般意志論」に力点が移ったのです。こうした反功利主義の気持ちは理解できます。でも「徳」も「一般意志」も社会の空洞化ゆえに自明じゃない。
 だからこそ、ハーバーマスの「認識から関心へ」にせよ、ギデンズの「感情の民主化」にせよ、僕自身の一連の議論にせよ、損得計算の〈自発性〉より内から湧く〈内発性〉を重視する「徳論」に加え、〈内発性〉を埋め込むパーソンズ流の「社会化論」に回帰するんです。古くは晩期ウェーバーの「非合理人」の推奨に遡る発想です。
 ラルフ・ワルド・エマソンの「内なる光」から、ジョン・デューイの「経験による教育」を経て、ローティの「感情教育」に到るプラグマティズムの流れも同じ。自明でなくなった「内なる光」つまり〈内発性〉を、新たに埋め込むための教育的実践を、パターナリスティックに推奨します。もちろん日本の大学がシフトしつつある実用教育とは関係ありません。

【宮台】帰結の予測可能性が失われれば、「最大リスクの最小化」という古典的マクシミン戦略に従って、相手に先んじることが重要になります。国際法違反の先制攻撃を推奨するマイケル・ウェルツァー「“汚れた手”論」です。でも彼が見逃すのは「テロリストであれ、政府であれ、事情が全く同じであること」です。であれば抑制なき悪循環で深みにはまります。
 現に深みにはまった。これを制御できるのは古典的にはデモクラシーによる監視と制御だけ。でも困難です。SNS等インターネットを通じて、従来は政治に参加しなかった層が、感情的な表出ツールとして政治的コミュニケーションに乗り出すようになります。ブッシュ当選をもたらした共和党支持層者の変質や、安倍晋三がネット世論を背景に再登板したのが、典型です。
 するとチャーチルが「民主主義は最悪の政治制度」と言った最悪部分が前景化せざるを得ない。「資本主義は、資本主義によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を資本主義の作動が壊す」のと同様、「民主主義は、民主主義によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を民主主義の作動が壊す」事態が進行中です。共通の背景はグローバル化と高度IT化です。
 かくて経済学がいう「負の外部性」図式が各所で顕在化。システムは底が抜けた状態を露呈します。社会システム理論的には「元々底が抜けていたものが明らかになっただけ」で「ポストモダンはレイトモダンに過ぎない」のですが、横に置きます。問題は、負の自己強化的循環の、抑制を支える知識や情報が不透明になり、道徳的主知主義が働きにくくなった現実です。
 かといって、プラグマティックな実践を通じて〈内発性〉を埋め込む処方箋も、ローティのアメリカ---抽象的には共同体的徳論のいう共同体---を前提する以上、グローバル化と高度技術化で共同体が空洞化すればアンリアルになり、道徳的直観主義も自明性を失う。現にそうなっています。「認識」面でも「関心」面でもシステムは負の悪循環の制御装置を失いました。
 グローバル化が高度技術化を支え、高度技術化がグローバル化を支える。グローバル化は、資本移動自由化を通じて「社会はどうあれ、経済は回る」状態を生む。高度技術化は監視社会化を通じて「社会ばどうあれ、政治は回る」状態を生む。だから経済のパワーホルダーも政治のパワーホルダーも社会保全に関心を持たない。社会が荒廃して〈出鱈目な民主制〉になる。
 この〈出鱈目な民主制〉を通じて、社会の荒廃が与える不安や鬱屈という痛みにつけこんだポピュリストが登場する。かくして社会の荒廃を放置したままでの---むしろ社会の荒廃を利用した---感情政治が支配的になる。⋯⋯といった相互連関課程において、僕らが辛うじて手を付けられるのが「技術とデモクラシー」の関係です。でも自覚されない。象徴が「LINE問題」です。

【宮台】難しいのは、その際、速度が大切になることです。システムの作動クロックの問題です。日本の行政官僚からすれば、首相も政権も数年ごとに変わり、まして民意はコロコロ変わるので、最も安定した思考枠組を維持できるのは霞が関だけという思いを抱いて当然です。速いものよりも遅いものの方が全体性を理解できるという自信です。
 こうした自覚と自信が、行政官僚制の愚昧な無謬図式や、既得権益への依存図式を、正当化してします。政党であれ何であれ、アソシエーションが民主的主体たり得て現に民主主義を支えるという自信を持つには、周りよりも自分たちの速度が遅いのが重要です。要は右往左往しないこと。そうした遅さを政党が調達できるのかどうかが問題です。

【宮台】苅部さんは[速度が遅いのは天皇だと]笑わずにおっしゃった。多くの人がそれを実感しています。山本太郎参議院議員の園遊会事件を見ると国会議員やマスコミの神経質な対応が目立ちます。かつて将棋さしで都教育委員会にも名を連ねた米長邦雄名人が、イエスと答えてもノーと答えても政治的になるような問答に陛下を引き込む不敬を働きました。この悪行に比べれば参議院議員であれ大したことない。
 陛下は右往左往せずに、手紙を受け取ってすぐに侍従に手渡し、その場で問答しておられない。実に安定して洗練された作法。それだけで問題の輪郭がはっきりしました。「有象無象が浅ましく騒いでいるが、陛下は立派に安定しておられる」という図式。そうした安定を信頼され尊敬される存在が他にも多数いればよいが、今はどこにいるのか。

【宮台】そう。そして戦後はかわりに知識人がいた。自分たちは貧しいという国民的共通前提があった60年代までは。でも豊かになって共通前提が崩れると知識人が消え、「知識人」とされる連中こそ衆目の前で右往左往する浅ましさを曝すようになる。僕が『朝まで生テレビ』から降りた理由です。レベルの低い人たちのショーですからね。
 過剰な速度に抗える存在とは何か。それが社会解体に抗う「技術とデモクラシー」論の核心です。南アフリカの監督ニール・ブロムカンプがアメリカで撮った映画『エリジウム』が直感を描きます。資本移動自由化が進み、究極のゲーテッドコミュニティに暮らすスーパーリッチと、荒廃しきった都市と郊外でモブ化したピープルに、社会が分化して、空間も分化します。
 空間の分化を可能にするのがテクノロジー。スーパーリッチはスペースコロニーに、ピープルは汚濁した地球に居住。両者はテクノロジーで隔離されます。汚濁した地球の空にはいつも巨大なスペースコロニーが見える。このビジョン自体が「グローバル化と技術化による社会的荒廃」を象徴します。ならば処方箋も「グローバル化と技術化の民主的制御」です。
 グローバル化と技術化を制御しないエリアは、スーパッリッチ・ゾーンとモブ・ゾーンへと二極化します。それらとは違うサードエリアとして生き残るにはグローバル化と技術化の野放図に対するブロックが必要です。スローフード運動や再生可能エネルギー運動で〈食とエネルギーの共同体自治〉を進めてきた欧州の一部が見本だし、日本ではコミューン運動の一部が見本です。
 米国全体・欧州全体・日本全体をどうするという発想はもう無理です。グローバル化と技術化がもたらす巨大システムに依存せずとも自立できる〈共同体自治〉を樹立した場所だけがゾーンの二極化から距離をとれる。それには「〈便利・快適〉より〈尊厳と幸福〉が大切」「〈自発性〉より〈内発性〉が大切」という、認識よりも関心(コミットメント)の共有が不可欠です。

【宮台】そう。日本でも「〈便利・快適〉より〈尊厳と幸福〉」「〈自発性〉より〈内発性〉」という認識ならぬ関心を持つのは富裕層。ワクワクメールから依頼された25歳の女性を3層に分けたリサーチで確認しました。僕が世田谷区の行政に関わる中で実感したことでもある。認識よりも関心を目的とした「教育した上での包摂」「包摂した上での教育」が大切です。

【宮台】微妙です。厳密には保守主義の枠に入りません。むしろ主意主義的な右翼。まず端的な意志があり、意志の実現に向けて合理的方法を探る人です。探る過程で宗教的エートスが発見されます。確かに保守主義者もエートスを重視するので同じに見えるけど、小室先生の場合、エートスや共同体的徳が端的に大切というより、それがないとアメリカと戦争をして負けるのが問題です。
 微妙なのは、小室先生のそうした意志が、端的事実というより、共同体が育む徳だと解釈できる点です。先生は貧しい母子家庭で育ち、政治家の渡辺恒三氏をはじめ複数の家から経済支援を受けて会津高校に通い、京都大学からハーバードとMITに進みます。そのことに強い恩義を感じておられました。先生の愛国は恩義の気持ちと結合している。
 僕は三層で理解します。表層はウルトラ合理主義者。中層は主意主義的右翼。深層は共同体的徳に殉じる保守。先生自身は表層と中層を明確に表現していたけど、深層を語らなかった。右翼ならぬ保守の側面、あるいはコミュニタリアン的側面は、語られていない。それは『小室直樹の世界』でも述べました。でも論理的に深層があるはずだし、近くにいても深層を感じました。
 さて今回の話を違う方向から考えます。先ほどのクロック問題は、人間社会の問題というより、もっと形式的な問題ではないでしょうか。進化生物学のエドワード・ウィルソンの議論は、一時は物議をかもしましたが、今は感情を支える遺伝子が幾つも発見されて確からしくなってきました。そこで再び彼の議論を振り返ります。
 幾つかの本で書いたように、人は利他的存在のありそうもなさに感染し、利己的存在に感染しません。この傾きにはウィルソン的に言えば遺伝子的基盤があります。自然淘汰というと個体間の闘争を考えますが、実際にはどんな群のつくり方、どんな集団生活をするかが、集団単位の生き残り可能性を決めます。人の集団生活は社会生活で、社会生活は文化に支えられます。
 集団生活次第で集団単位の生き残り可能性が決まるとは、文化次第で生き残り可能性が決まること。「遺伝子が一定の文化を可能にし、文化が一定の社会生活スタイルを可能にし、社会生活スタイルが集団の生き残りを可能にし、集団の生き残りが一定の文化を可能にする遺伝子の生き残りを可能にする」という循環があります。
 それを踏まえて社会を見ると、優勝劣敗主義のリバタリアニズムの立場を僕が取ったにせよ、最後に生き残るのはゲーム理論でいう協力解を選択するコミュニタリアニズム的社会集団だと主張することがありうる。現にグローバル化競争に強いのは血縁主義的な協力解を選択し続けるユダヤ系と中国系です。
 リバタリニアリズムとコミュニタリアズムは社会思想として横並びでも、ウィルソン的には、コミュニタリアニズムはリバタリアニズムの帰結でありうる。ゲーム理論的意味で協力解を選択する集団の生存確率が高いのなら、それを意識できる集団が再帰的に協力解を推奨するコミュニタリアムズムを採用するのは合理的です。

【宮台】そう。社会システム理論では、社会の内部と見えるものも外部と見えるものもシステムの作動が生み出す内部表現です。ニクラス・ルーマンは「視神経は電気的に作動するが、山が見えるとき、山と電気的に繋がっているのでなく、電気的作動が内部表現を構成するに過ぎない」と言います。このビジョンが人口に膾炙してきました。
 大澤真幸氏の「アイロニカルな没入問題」がそう。アイロニーとは全体を部分に対応付けて脱臼させること。高尚なことを言う人がいても「彼は内在系ならぬ超越系だから」と梯子を外す。強硬外交を主張する首相がいても「幼少期からの劣等感を埋め合わせているだけ」と梯子を外す。外された側は「オマエモナ」と返し、誰もがアイロニカルな事実に居直る。
 この2ちゃん的コミュニケーションは少し前まで日本的と言えましたが、今はどの国にも蔓延し、発話の妥当性要求が頓挫しやすい状況が普遍化しました。だからこそ、遺伝子的基盤を含む循環や集団的淘汰のメカニズムなど、内容的ならぬ形式的問題を---文科系ならぬ理科系的問題を---持ち出したくなる。むろん内部表現上のシフトですが、より文脈自由になるからです。

【宮台】形式的理論への傾斜は、過剰流動性への抗いです。その点、形式的理論への傾斜とプラグマティズムへの傾斜が機能的に等価です。むろん実用主義の意味ではなく、エマソンからデューイを経てローティにつながる「内なる光」の流れです。では、なぜプラグマティズムが復権するのか。渡辺さんが出されたビックデータの話がヒントです。
 ビックデータを適切に処理して答えを見出す。それがアグリゲーターです。ビックデータとアグリゲーターが行動指針を出力する。この系列に主体は登場しません。ウェーバーによれば、近代化とは合理化で、合理化とは手続主義化による計算可能性の増大です。彼はこの合理化を肯定する反面、人が合理的になれば入替可能になって主体ではなくなると危惧しました。
 これはニーチェの影響を受けた晩期ウェーバーの議論で、日本で山之内靖氏が紹介しました。入替不能な主体であるには非合理人でなければならない。ウェーバー研究を学位論文としたパーソンズも、主意主義的な主体を、計算可能性を裏切るランダムネスだとします。これらの思考に従えば、ビックデータとアグリゲーターに従って行為を出力する人間とは一体何なのか。
 そんなものの先に人が社会を営むという意味での人倫はない。そこの先に開かれているのは別の何か---ウェーバーの言う「鉄の檻」---です。人倫のためにも人間が主体じゃなければ駄目。システム理論的に言い直せば、人間が主体だと互いに信じられなければいけない。そういう直感がピープルに拡がってきた。その表れがプラグマティズムの復権です。
 形式的理論への傾斜とプラグマティズムへの傾斜と並んで、過剰流動性への抗いを共有するのが、宗教への傾斜です。カルチャーセンターでは宗教的関心が高まってきました。かつてのニューアカと結合した仏教ブームと違い、ユダヤ教史やキリスト教史や古典的な宗教学への関心です。背景は、過剰流動性に巻き込まれたくないとの意識でしょう。

【宮台】宗教講義で若い人が食いつくポイントがあります。「善きサマリア人」と「マグダラのマリア」。「善きサマリア人」は、〈理由ある利他〉ならぬ〈理由なき利他〉を推奨しますが、古代ギリシャの影響が考えられ、プラグマティズムの「内なる光」に通じます。「マグダラのマリア」はそれに関連して、戒律を守れば救われるとする思考を否定します。
 ただし喩を用いて戒律からズレた内面を作り出した(吉本隆明・橋爪大三郎)のではない。所詮は人間が書いたに過ぎぬ矛盾に満ちたトーラーを、これぞ絶対神の意志だと相対者に過ぎない人間が解釈し、ミツヴァ(戒律集)として布告、破った者(マグダラのマリア)を糾弾する。このパリサイ派の営みが本来のヤハウェ信仰からの逸脱だとするイエスの批判です。
 イエスは一貫して〈理由ある利他〉を否定、〈内発性〉を推奨します。でも、我々が善かれと思って為したことの帰結は分からない。それが原罪です。神でもないのに善悪判断をするから必ず間違うとするのが原罪譚です。「マグダラのマリヤ」でのパリサイ派批判も原罪譚に関連する。そこで僕が持ち出すのが漫画です。
 手塚治虫の『鉄腕アトム』では、交通事故で瀕死の重傷を負った少年を天馬博士が助けたら、正義の味方になりました。浦沢直樹の『MONSTER』では、瀕死の重傷を負った少年を天馬博士が助けたら、ヨハンという絶対悪になりました。二人の天馬博士は「善きサマリア人」の如く振る舞いましたが、原罪譚が示すように帰結が人知を越えていた。キリスト教の本質はそこです。
 何かを為しても、何に繋がるのか分からない。ならば、縮んでいればいいか。違う。〈内発性〉に従って前に進め。それを奨励すべく「見る神」としての絶対神が存在する---「見る神」は最古の宗教的表象だと前教皇ベネディクト16世は言います。日本ではご先祖様。見られて人はシャンとする。それが遺伝子的基盤とも関連した〈内発性〉の重要なパラメータかもしれません。
 彼に従えばキリスト教の祈りには「主よ、皆を裏切らぬよう私を見ていてください」と「主よ、私はあなたのものです」の二本柱があります。前者が〈内発性〉に、後者が〈理由ある利他〉の否定に関連します。後者は、自分が救われたくて利他を為すのでない。為したことの意図せぬ帰結次第では地獄も覚悟するとの意味です。昨今こうした話が理解されるようになりました。

【宮台】プラグマティズムに戻ると、存在したはずの「内なる光」が失われがちです。ルドルフ・シュタイナーに遡れば「内なる光」は誰にでも潜在的にあります。でもこの潜在性がどれくらい発露するかは、ある期間までの育ち方で決まる。読み書き算盤は臨界年齢が高くて取り返しがつくが、感情の深さの育ちは臨界年齢が低くて取り返しがつかないとします。
 神秘主義者として片付けられるシュタイナーもプラグマティズムです。また、取り返しがつくものより、取り返しがつかないものから学ばせよとの構えは、パーソンズの「プライマリーな社会化/プライマリーでない社会化」にも繋がるパターナリズムで、「内なる光を“効果的に”埋め込め」というパターナリズムは、デューイを含め、20世紀前半のシステム複雑化と並行して上昇します。

【宮台】プラグマティックな実践を通じて〈内発性〉(徳)を埋め込む社会化の実践も、サンデルの共同体的徳論のいう共同体を前提します。共同体は事実性で、前提を理想的発話状況という仮想始源に遡って正当化する初期ハーバーマスの企図はルーマンとの論争後に撤回されます。どんな実践にも前提が必要で、前提として何を持ち出すのが有効かだけが問題です。
 エマソンにからローティに到るプラグマティストの流れは、実践の前提としてアメリカの社会習慣を持ち出します。前提を正当化できるか否かでなく、信頼できるか否かが問題だからこれでいい。苅部さんのおっしゃるように、日本で徳を埋め込む社会化実践を支えるどんな前提が信頼できるかが問題です。三島由紀夫の問題設定でもあるので天皇が出て来ます。

【宮台】それが竹内好の「一木一草の天皇制」です。

【宮台】過剰流動性に抗って、昨今は、内容不関与な形式的理論、内なる光を埋め込むプラグマティズム、利他の形式を論じる宗教が持ち出される。これは戦間期前期の一九二〇年代に似ます。それで一九三〇年にマグヌス・ヒルシュフェルトが書いた『戦争と性』を読み直してみると、何が何ゆえに反復するのかがよく分かります
 未曾有の最終戦争と、経験を超えた事態の数々。それでも戦場には勇猛果敢さを示す兵士がいて、銃後には博愛精神を示す看護婦がいた。これらを美談とするのは、社会に都合がいいものを似非道徳で正当化しただけ。実際は、性的抑圧が生み出した攻撃性と、性的抑圧が生み出した代償行為があるだけ。これをヒルシュフェルトはデータで立証します。同時代はワイマールのエログロです。
 経験を越えた事態を理解する際、従来の経験枠を前提にした道徳では無理だとの意識が高まり、一方で〈常識外れのエログロ〉が隆盛となり、他方で〈常識外のデータを分析する科学〉が隆盛になります。フランス革命後の混沌期も、第二次大戦後の1950年代もそう。得体の知れないものが立ち上がった後によく見られる〈反啓蒙的志向〉です。
 人倫についての人文科学的考察は、従来の経験枠を前提にした抽象化です。グローバル化と高度IT化を背景に噴き出す得体の知れない現象の数々に、これでは太刀打ちできないという直感が働く。それで、一方で、自然科学的な形式的理論に注目が集まり、他方で〈内発性〉の埋め込みという実践形式自体や利他形式自体に注目が集まるのでしょう。

【宮台】苅部さんがスメントを出されました。彼が言う崇高なる精神共同体や崇高なる全体性は存在するのか、存在しないなら作らねばならないのか。これは重大な問題です。シュミットは当初、カトリシズムに基づいて「存在する」としましたが、ナチ勃興と同時に「存在しないので、政治が作り出せ」と反転します。「存在する」のか「作り出す」のか。
 今日の僕らは後期シュミットのように考えるしかない。どんなに小さなユニットにも個人のスコープやスパンを超えた全体性が必要で、それをコミットするに値するものとして志向します。それが共同性です。そのこと自体は範域の大きさに関係なく、しかも今や保全というより作り出すしかなくなっています。大きさによる違いは「作り出す」との意識に基づく制御可能性です。
 そこに注目するのがキャス・サンスティーンの「二階の卓越主義」です。昨年も紹介したように、今日の状況では不安と鬱屈につけ込むポピュリストによる悪い全体主義的動員が、熟議を壊します。だから、これを完全情報化と分断克服によって排除した上、妥当な民主的決定をもたらし、結果として我々意識を醸成強化しようと。これもマイルドな全体主義です。
 無論「崇高なる全体性」は持ち出されません。分断ならぬ包摂を企図した穏やかな熟議を通じて「我々意識」を作り出す。でもそこにはスモールサイズであれ全体性への願望があります。全体主義アレルギーの時代なら怪しい企図だと考えられたはず。実際こうしたスモールユニットを活性化した上で束ねることでファシズムとナチズムが展開した。でもそこは譲るしかありません。

【宮台】実は賛成です。僕も制御可能性からスモールさが大切だと言いました。でも、どんな敵が現われるかは想定した方がいい。古市氏は恵まれた若者です。恵まれない若者はどんな種類であれ全体性に吸引されます。ならば「崇高なる精神共同体」と「熟議が作り出す我々」という全体性内部の区別を保持したほうが得策だし、関心=コミットメントを引き出せます。
 後期シュミットは評判が悪いが、実は高橋和巳『邪宗門』の発想です。左翼活動家で無神論者だった主人公・千葉潔が、無知な貧しき者たちを導くべく、ひのもと救霊会という教団の教祖に収まり、教団内部に全体主義的動員を仕掛ける。これはいけないのか。高橋自身は結論が出ない問題だとしますが、僕らもそう考えるべきではないか。
 僕はひのもと救霊会のモデルになった京都山科の一燈園というコミューンに子供時代に馴染んでいました。井上達夫氏がおっしゃったように、お前の責任で救わねばならぬ人々がここにもそこにもいるだろうと突きつけられたとき、千葉潔のロジックを否定するのはとても難しい。渡辺さんの懸念に賛成しつつ、それだけで本当に先に進めるのかと思うんです。


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