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若松孝二監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

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若松孝二監督ご逝去の報に衝撃を受けています。中二のとき『理由なき暴行』を文芸地下劇場で観たのが最初の体験でした。後しばしば『アンダーグラウンドの蠍座』で若松特集を見ました。中高生時代の僕には監督の作品が心の支え。監督なくして今の僕はない。若松監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

若松監督は若き時代の僕の「神」でした。大学を卒業するまでに全作品を見ました。90年代半ばに若松監督に初めてお会いしました。ロフトプラスワンの若松監督トークイベント。客は僅か数十名。この場で僕は『ゆけゆけ二度目の処女』の挿入歌(中村義則氏の詩に秋山未痴汚氏が曲をつけた)を通しで暗唱しました。

ママ、僕出かける。もうママに観光バスが停まり、閑古鳥が鳴くだろう。No See you again。僕を裏切り差し入れしなかったパンサーのD。ジャンやミラーやノーマルメイラーはもう不景気さ。勃起した赤いネオンは前進色じゃなく熱くない。ナイフの側に集まってたのに今はおまわりの公園。おわまりの僕のコーヒー。おまわりの僕のリビングルーム……。

「おい、いったい君は何者だ」 これが若松監督の最初の御言葉でした。その場には中村義則氏の娘さんもいらっしゃっておられました。そのご縁で今でも中村義則氏からは年賀状や暑中見舞いをいただいております。若松監督とはそれが縁で何度もトークイベントをしてきました。名古屋の若松氏所有の映画館でもやりました。

若松監督の個人宅にも何度もおじゃまをしました。そのときに撮影していただいた若松監督との素晴らしいツーショット写真はいまも僕の宝です。『実録連合赤軍』のときには脚本に意見を具申させていただいただけでなく出演もさせていただきました。若松監督とは何度も握手をしました。そのときの感触を今も思い出しています。

この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本を読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった。

だから、僕が何をしたら良いのか分からなくなるたびに、僕の原体験を思い出すために、若松作品を観直していました。ここ数年の戦後大衆文化史の授業では『理由なき暴行』を素材として使ってきました。僕に近い人ならば、僕の感覚はいつも若松監督にむけて開かれていたことを御存知でしょう。

いちばん最近にお会いしたのは若松監督宅ででした。最近作の『海燕ホテルブルー』についてUstream中継しながら長くお話ししました。「歴史的事象を追いかけた最近の数作と違って、パソコン上でモノクローム化して観ると1960年代の若松作品みたいです。監督の原風景のようです」と申し上げました。

「ここではないどこかに行きたい」けれども「どこかに行けそうでどこにも行けない」。監督の原風景だったと思います。この原風景は60年代に「密室映画」と呼ばれました。でも松田政男さんが論じたように、舞台が屋外であろうが、結局は「どこにも行けない」という意味での密室が描かれていたので、やがて「風景映画」と呼ばれるようになりました。

「ここではないどこかに行きたい」 でも「どこかに行けそうでどこにも行けない」。僕はずっとずっとそう思ってきました。20歳代のときに海外にバックパッカーとして旅行したときもそれは変わりませんでした。30歳代を売買春フィールドワーカーとして全国巡礼して過ごしたときも変わりませんでした。そういう僕の全てを理解して下さっていた若松監督でした。




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