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昨年9月、晴佐久昌英神父(多摩教会主任司祭)と対談させていただきました

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 昨年9月に早稲田奉仕園で開催された「いのり☆フェスティバル」(略称=いのフェス)で、晴佐久昌英神父(多摩教会主任司祭)と対談させていただきました。そのごく一部を抜粋します。



――(会場からの質問で)「救われたいと思っていない私はどうしたらいいでしょうか?」

晴佐久 (略)
宮台 僕はかなり若いころから聖書を読み込むのが好きだったのですが、いわゆるユダヤ教のファリサイ派と言われる人々は、「なぜこんなに真面目に生きているのに救われないのでしょう」「なぜ神は働かれないのでしょう」と嘆いてきました。そこにイエスが出てきて、私を見れば神が働いていることがわかるというメッセージを伝えたわけです。奇跡という概念もイエスをとおして神の働きを知るためのものであって、「なぜ神が働かないのか」という問いは、イエスからするとナンセンスの極みなのです。むしろ神が見ていてくれるので、普通ならできないはずの利他的な自己犠牲的振る舞いができる。そこにすでに神が働いているというのが、イエスの大切なメッセージです。救いというのは、今ここで実現していると理解すべきものだと思います。
晴佐久 (略)
宮台 日本はヤンセニズムの影響で、プロテスタントが好きな学者さんが多いんですが、僕はあまり好きじゃない。プロテスタントはどうしても、カトリックにおける「私が〝皆を裏切らないように〟見ていてください」というところが見えにくいんです。だから救いの意味が天国入りのように御利益と解されがち。ところが第二バチカン公会議以降のカトリックは、見る神が、不可能なはずの自己犠牲を可能にすることに、救いを見ます。ただ、その自己犠牲が最終的に何をもたらすのか、原罪ゆえに人には見通せないので、「私はあなたのものです」と裁きを神に委ねる。宮沢賢治的な法華経理解と同じです。僕がカトリックを好む理由です。



――「自分の性に自信が持てません。モテない私に価値はありますか? 性的なことをどう思いますか?」

宮台 僕はずっと売買春やクスリのフィールドワークをしてきました。この間、基本的に状況は変わりません。現在でも、東大生や医学部生で売春をしている女性が相当数います。彼女たちに理由を聞くと、「好奇心」が「親への恨み」と結びついているのです。「この親さえいなければ、私は別の人生を営めたのに」「この親さえいなければ、別の世界を知れたのに」というタイプの恨みです。
 僕はいわゆる「ナンパ地獄」に明け暮れた11年間という実体験を持っています。ここで初めて明かしますが、「親への恨み」が背景にありました。小四の頃、早生まれでいろんなことができなかった僕が、できるようになると、母親が突然教育ママに変じました。成績も上ってリレーの選手になり、親の目から見ると自慢の息子になっていきますが、僕は逆に、化けの皮が積み重る思いに苦しみました。思えば、性的なものへの傾倒も、親に奪われたものを回復するためのものだった。
 昨今は〈恨みベース〉のコミュニケーションが蔓延します。ヘイトスピーカーたちが新大久保を歩いていますが、イデオロギー問題より、彼らのたたずまいに〈恨みベース〉の実存を感じます。ひきこもりの子らの多くに、親を困らせるためという動機があります。「ナンパクラスタ」と言われるインターネットのナンパ系の連中にも恨みを強く感じます。社会学で「ミソジニー(女性憎悪)」と言いますが、女性を〈物格化〉してコントロールしたがる男たちです。彼らは母親にコントロールされてきた恨みを、母親のかわりに女性をコントロールして晴らします。
 こうした人々を量産されるがまま放置しておいて、制度を変えればいい社会になるとか、いい指導者がいればいい社会になるとか、無理です。それこそ初期ギリシャの人々が聞いてあきれる〈依存〉です。初期ギリシャは神頼みの〈依存〉を嫌い、〈自立〉を欲しました。そして共同体の存続には、損得勘定の〈自発性〉を超えた、内から湧き上がる善なる力(ヴァーチュ)である〈内発性〉が必要だと考えました。〈依存から自立へ〉〈自発性から内発性へ〉、〈恨みベースから希望ベースへ〉。大切な志向です。
 イエスも、犠牲を捧げれば救われるとか、罪を犯さなければ救われるという類の、救いのための取り引きを、瀆神行為として却け、善きサマリア人のごとき端的な〈内発性〉を激しく愛でます。初期ギリシャの思考によれば損得勘定を超えた〈内発性〉は周囲を感染させますが、現にイエスの〈内発性〉は周囲を感染させます。人々はそこに奇跡つまり神の働きを見出します。
 グローバル化は貧困と格差と共同体空洞化を今後も押し広げ、貧すれば鈍すの言葉通り〈感情の劣化〉を推し進めます。〈感情の劣化〉は民主制をデタラメに機能させます。たとえば〈感情の劣化〉〈恨みベース〉ゆえの排除として現れます。僕たちは浅ましさを克服し、包摂を取り戻さないと、社会は存続できません。
 たとえば、自国にも愛国者がいるように、他国にも愛国者がいます。自分に人格が宿るように、他者にも人格が宿ります。それを弁えられない者は、愛国者を自称して国を滅ぼし、あるいは、ナンパ名人を自称して女を傷つけます。こうした〈感情の劣化〉を放置すれば、従来当てにできた制度は大半が回らず、社会は目も当てられなくなります。
 僕はこれまで制度やシステムの問題について発言してきました。昨今の僕は〈感情の劣化〉〈教養の劣化〉を問題にします。インターネット化を背景に、従来なら資格がないと思われ、意欲がないと思われてきた人々が、摩擦係数の低いネットのコミュニケーションゆえに、周囲の人々から浅ましさを叱られることもなく、また無教養を指摘されることもないまま、政治生活や家族生活を送るようになり、ポピュリズムやネグレクト(育児放棄)が蔓延するようになりました。
 そこで、政治生活に関わる劣化を手当てするために、住民投票関連のワークショップをやり、家族生活に関わる劣化を手当てするために、ナンパ講座関連のワークショップをしています。いずれのワークショップも、損得勘定と自己防衛に右往左往する浅ましき構えを克服し、内から湧き上がる力を涵養するためのもの。つまり〈自発性から内発性へ〉あるいは〈損得勘定からヴァーチューへ〉のシフトをもたらすためのものです。。
晴佐久 (略)
宮台 風俗で働く女性たちを見て思うのですが、〈感情の劣化〉を被った親によるネグレクトの被害に遭うと、子どもにも〈感情の劣化〉が継承され、社会的に壊れがちです。キム・ギドク監督の映画『嘆きのピエタ』で描かれたように、僕らは誰にも見られていないからこそ下卑た存在になります。
 世の中には親のいる人もいない人も、師に恵まれた人も恵まれない人もいますが、「見る存在」がどれだけ大事かということ。長らく風俗や売春のフィールドワークをしてきた者にとって自明ですが、人は見られなければダメな存在です。自分の子どもだけじゃなく、近所の子どもなどいろんな子どもを見ることが大切です。
 日本では「みる」という言葉がケア(診る・看る)を含みます。日本人は言葉自体の中に普遍的な摂理を織り込んでいます。互いを見ない存在が、社会をダメにします。そして前教皇ベネディクト16世が言うように、全能の神は「見る神」です。



――「『自分の十字架を背負う』という言葉がよく出てきますが、それぞれにとってどういう意味を持っていますか?」
晴佐久 (略)
宮台 社会学者として話をすると、イエスの死と復活、あるいは十字架を負った者たちの振る舞いという発想は、バプテスマ(洗礼)自体に含まれます。マタイ伝第3章3節以降に記されたヨハネによる受洗の話などから伺えますが、元来は深く水に沈んでから浮かぶという危険を伴う儀式だったのです。
 それが死と復活のメタファー(喩)を構成しています。一度死にかけた人の振る舞いが変わるのも同じこと。これはもはや摂理というべきですが、自分の弱さや愚かさゆえに生じた酷いことは出来事として取り消せませんが、しかし深く沈むことによってしか見えないものが多くあるのも事実です。それが見える者だけが人を許すことができるし、利他的であることもできます。
 順風満帆で希望に満ちたご利益満杯の人生を願う者や、不幸を単なる不幸だと理解する者は、残念ながらこうした摂理を弁えません。十字架を負う者にしか奇跡の振る舞いはできません。そのことが摂理として、どれだけ腑に落ちるかということが重要だと思います。


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