『怪奇大作戦』が明かす〈昭和性の本質〉
―我々から濃密さが失われた理由は何か―
──────────────────
【得体の知れないものとしての科学】
■『怪奇大作戦』シリーズには、あらゆる面で「昭和性」が鮮烈に刻印されている。むろん『怪奇大作戦』に先立つ『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』にも刻印されている。だが『怪奇大作戦』は、「昭和がどんな時代だったから、こうした作品群が作られたのか」を明かす〈メタポジション〉にあると私は考えている。
■〈メタポジション〉の最大モチーフは「科学の両義性」だ。とりわけ1964年の東京オリンピック以降、〈秩序の時代〉から〈未来の時代〉へと社会がシフトした。〈秩序の時代〉には、人間社会の秩序を侵犯する「マッド科学者」を理想に燃える少年がやっつけ、秩序が回復された。そこでは人間社会があくまで「善」だった。
■だが〈未来の時代〉になると人間社会が「未熟」「悪」として描かれ始める。嚆矢は手塚治虫の初期作品「SF三部作」だが、テレビアニメ『ジャングル大帝』第一シリーズが分かりやすい。私は東京オリンピックから石油ショック(73年)までを〈未来の時代〉と呼ぶ。人間社会の不完全さを科学が克服するだろうとのビジョンがシェアされた。
■科学は〈輝き〉だった。ウルトラマンもウルトラセブンも人類よりも学が進んだ文明から飛来した。未熟な人類も科学が発達した高度文明に近づけば問題を克服できるとの期待が投影されていた。ちなみに怪獣も宇宙人も絶対悪でなかった。怪獣は社会が生み出した負の帰結。宇宙人も、国教会の弾圧を逃れて新天地を求めた米国人と同様だった。
■この〈負の帰結=闇〉は未来の〈輝き〉であるはずの科学がもたらした。戦後の重化学工業化と平行して先進国を富ませた科学は、それがもたらす〈闇〉ゆえに〈得体の知れないもの〉と理解された。〈得体の知れない科学〉のビジョンは、1960年代前半の米国のSFテレビドラマシリーズ『ミステリーゾーン』『アウターリミッツ』にも刻印された。
■〈輝き〉であり〈闇〉でもある科学の〈得体の知れなさ〉。これを下敷きにしたのが『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』だが、この意味論自体を直接主題化したのが『怪奇大作戦』だ。この主題は「科学を用いた犯罪に、科学を用いて立ち向かう」というSRIの設定に刻印される。科学の両義性モチーフはシリーズ随所に顔を出した。
■ビキニ環礁水爆実験の翌1954年に公開された『ゴジラ』に登場する「白衣を着た科学者」は〈輝き〉の象徴だった。第13回「氷の死刑台」にも「白衣を着た科学者」が登場する。彼は人間の寿命を延ばす冷凍睡眠を研究する「マッド科学者」だが、ラストでSRI所長の的矢忠が「科学技術が人間を幸せにするのか」としみじみ述懐する。
■同じく死体の蘇生研究に勤しむ「マッド科学者」が第9回「散歩する首」にも登場する。「マッド科学者」はかつて世界征服や世界破滅を企む悪人でしかなかったが、ここでは研究目的自体は善に変わっている。『怪奇大作戦』における「マッド科学者」は、単なる悪人というよりも、いわば〈踏み迷った科学者〉なのである。
【人のための犯罪、公共のための犯罪】
■第5回「死神の子守歌」では、広島で被爆して白血病を罹患した妹のために、治療の決定打スペルトルG線の人体実験を繰り返す兄が、「科学者が何をした」と、思いを吐露する。原爆こそ核物理学の輝かしい成果が生み出したものだ。この人体実験の結果、妹が歌う子守歌通りに若い女性たちが殺される。これはいわば〈人のための犯罪〉である。
■「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯す。戦間期の講談本になかった『怪奇大作戦』固有のモチーフだ。親しい人のために殺人を犯すのは過剰な身贔屓で、実はエゴだ。だが〈愛こそが凶器〉ないし〈愛こそが狂気〉という意味論は〈普遍の善〉が信じられなくなった高度成長期末期の60年代末の〈こんなはずじゃなかった感〉を指し示す。
■妹への愛がスペクトルG線の人体実験を動機づけたのと同様、第3回「白い顔の男」では父の娘への愛がレーザーガン連続殺人を動機づける。第6回「吸血地獄」では、吸血鬼化した恋人女性への愛が吸血鬼殺人の教唆を動機づける。第8回「光る通り魔」でも、会社の同僚女性への愛(というより横恋慕)が動機として示唆される。
■こうした〈愛ゆえの犯罪〉と別に〈親しき者の恥辱を拭う犯罪〉も繰り返し描かれた。第10回「死を呼ぶ電波」では、会社幹部に謀殺された父親の恨みを晴らすことが電波殺人の動機だった。同じく第23回「呪いの壺」でも、偽物骨董壺の製作を名もなき存在として続けさせられた父の恥辱を拭うことが、放射性物質を用いた殺人の動機だった。
■〈人のための犯罪〉の変形で〈公共のための犯罪〉も描かれた。〈公共心こそ凶器〉ないし〈公共心こそ狂気〉のモチーフは〈普遍の善〉の不可能性を鮮やかに描き、米国のイラク攻撃を髣髴させる。第12回「霧の童話」では高速道建設で失われる村を守ることが動機だった。第25話「京都買います」では京都の街と仏像を守ることが動機だった。
【〈理由なき悪〉は存在しない】
■円谷プロの『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に登場する怪獣や宇宙人は単なる悪ではなく、『怪奇大作戦』に登場する犯罪者も単なる悪ではない。共通するのは〈悪には理由がある〉との意味論だ。だがこの意味論は71年に始まる『仮面ライダー』をエポックとして廃れ、以降は単なる悪すなわち〈理由なき悪〉が専らになる。
■刑事モノと比較すると『怪奇大作戦』は特異だ。刑事モノと違って、〈犯人探し〉は主要モチーフでない。〈犯人探し〉よりも〈動機探し〉と〈メカ探し〉がずっと重要だ。これは、円谷プロの怪獣モノが、『仮面ライダー』以降に支配的になる〈悪者倒し〉(勧善懲悪)と違い、人類の横暴を警告する〈横暴探し〉が主要モチーフだったのに似る。
■回によっては〈メカ探し〉が省略され、〈動機探し〉だけになることもある。第7回「青い血の女」では子供に見捨てられた老人の恨みを汲んで人形が殺人代行するが、メカは不明だった。第20回「殺人回路」では立身出世競争という動機が明らかにされるが、CRTを用いたコンピュータ殺人のメカは、最後になっても明らかにされなかった。
■つまり『怪奇大作戦』では〈悪には理由がある〉。第22回「果てしなき暴走」では犯人も動機も不明で例外に見えるが、その場合も動機不可解な無差別殺人の社会背景に注意が向けられた。永山則夫事件を髣髴させる第16回「かまいたち」も同じだ。動機不明は動機軽視を意味せず、逆に〈動機不可解な犯罪〉にこそ社会的背景があるとされた。
【〈戦争の傷〉と円谷英二の遺伝子】
■〈動機探し〉で浮上するのが〈戦争の傷〉だ。第4回「恐怖の電話」では小笠原戦線の戦友たちの仲間割れが動機だ。第5回「死神の子守歌」では広島で被爆した妹の救済が動機だ。第12回「霧の童話」では戦時中に陸軍が開発した錯乱ガスが用いられた。第23回「呪いの壺」でも光に当たると放射能を放出する旧陸軍が開発した物質が登場する。
■第5回「24年目の復讐」ではそれぞれ72年と74年に帰還するまで終戦に気付かなかった横井庄一と小野田寛郎と同様な兵士が登場する。兵士は横須賀米軍基地周辺で長身化した垢抜けた日本の若者を米兵と誤認して殺す。横井庄一も帰還後の記者会見で、長身化して垢抜けた日本人記者が米国人に見えたと述べていた。驚きべき現実の先取りだ。
■〈戦争の傷〉のモチーフは円谷英二の遺伝子だ。経済白書の文言「もはや戦後ではない」が流行する56年の直前に公開された『ゴジラ』(54年)では、人々は怪獣の姿に南海に沈んだ英霊の化身を見た。戦争から立ち直ることは忘れることではない。忘れないことこそが復興の本義だ。エンドロール冒頭の「監修 円谷英二」のロゴが突き刺さる。
■他にも社会問題が描かれた。第5回「死神の子守歌」の兄の逮捕シーンでは国家権力の象徴警察の過剰暴力が描かれた。第7回「青い血の女」の老人を捨てる子供という設定は〈戦争の傷〉の忘却も含め当時の社会風潮への警鐘で、第8回「光る通り魔」の「平凡な男・山本」の設定は、第13回「氷の死刑台」の蒸発共々、大衆社会化への警鐘だった。
■第12回「霧の童話」では開発による土地買収とそれによる故郷喪失という社会問題が俎上に載せられた。第15回「24年目の復讐」では軍港から見える戦艦や米兵バーの光景を通して〈アメリカの影〉とでも言うべき昭和性が視る者に突きつけられた。これらはまさに私が小学生だった60年代後半にニュースやドキュメンタリーで繰返し見た主題だ。
■第18回「こうもり男」ではスモッグ都市東京が言及され、第25回「京都買います」では人々が自らが住む場所の〈場所性〉を忘れ入替可能な存在に堕する、昭和的問題が指摘された。『ウルトラセブン』に続いて登場した『怪奇大作戦』は、若干対象年齢を上げたにせよ、とても中高生を対象にした番組に見えない。それが円谷の子供番組だった。
【昭和的文物が指し示すエロス】
■昭和34年(1959年)生まれの私は小学四年生のときに『怪奇大作戦』を全て視た。30余年を経て初めて全編を見直した。各所に登場する文物の昭和性に触発されて記憶が溢れ出し、涙なしには視られなかった。全回を通して紫煙の昭和性が刻印され、第4回「恐怖の電話」では当時定番の「あちっ」という煙草ギャグを牧(岸田森)が演じている。
■第1回「壁抜け男」には初代引田天功ばりの奇術ショーの昭和性が描かれる。第2回「人食い蛾」には出世競争の昭和性が描かれる。第4回「恐怖の電話」にはクロスバー交換機の昭和性、マンホールの回りに集まる子らの昭和性、ナイトクラブの昭和性が描かれる。第5回「死神の子守歌」ではクーラーのない部屋で汗を拭う仕草の昭和性が描かれる。
■第6回「吸血地獄」では自転車に乗る交番巡査の昭和性、ネオンの都会的エロスの昭和性が描かれる。第10回「死を呼ぶ電波」ではゴールデンタイムのボクシング番組の昭和性が描かれる。第12回「霧の童話」では昨今のブータンを思わせる村の子供たちの昭和性が描かれる。第13回「氷の死刑台」ではラッシュアワーと蒸発の昭和性が描かれる。
■第15回「24年目の復讐」では水棲人間の昭和性が描かれる。楳図かずお『半魚人』(66年)や安部公房『第四間氷期』(59年)で当時の子供は水棲人間のアイディアに馴染んでいた。同じく第19回「こうもり男」ではこうもり人間の昭和性が描かれる。テレビアニメ『黄金バット』(67年)や『バットマン』(66年)でこうもり人間も馴染みだった
■第18回「死者がささやく」では新婚旅行の輝きという昭和性が描かれる。第21回では、マニキュア・ベレー・洒落た店・美女という銀座的な都会的エロスの昭和性が描かれる。似た話だが、第22回「果てしなき暴走」ではネオンの煌めきの都会的エロスとあわせて、スポーツカーの輝きという昭和性が描かれる。今日ではむろん全く輝かなくなっている。
■第23回「呪いの壺」では駆落ちと肺病病みの昭和性が描かれる。同じ京都が舞台の第25回「京都買います」ではゴーゴー喫茶の眩暈の昭和性が描かれる。昭和性のオンパレードということでは第11回「ジャガーの眼が赤い」が特別だ。そこには夕暮れに外遊びする子らの、プラモデルの、サンドイッチマンの昭和性、西部劇の昭和性が描かれる。
■単なる昭和的文物なら当時のテレビ番組に当然刻印されるが、『怪奇大作戦』では、〈戦争の傷〉を含めた社会問題への批判的言及の数々が、これら昭和的文物の数々に取り囲まれているので、〈ドキュメンタリーと機能的に等価な体験〉を与える。同時に指摘しなければならないのは、これらの昭和性が極めてエロチックに描かれていることだ。
■何度も視ると音響に依る部分も大きい。例えば第5回「死神の子守歌」と第6回「吸血地獄」では、アダルトビデオと見まがうばかりの女性の悲鳴のエロスが描かれる。この回のスペクトルG線人体実験が若い女性を対象にするべき必然性はないが、深夜の都会に響く女性の悲鳴のエロスを描きたいがためにこうした設定が採用されたのではないか
■この第5回では建築工事の音や都会の街頭音が不必要なほど大音量で鳴り響く。第11回「ジャガーの眼は赤い」では夕暮れまで外遊びする子らの歓声が、第16回「かまいたち」では町工場のサイレンと踏切音が描かれる。数十年後に昭和記録映像として視聴されることを予期するかの如き演出の数々は、何度視ても驚嘆せずにはいられない。
■特に随所で聞こえる流行歌が数十年後を見据えた演出意図の存在をリアルに感じさせる。第20回「殺人回路」ではピンキーとキラーズ「恋の季節」、第21回「美女と花粉」では水前寺清子「幸せのマーチ」、欠番第24回「狂鬼人間」ではピンキーとキラーズ「涙の季節」、第26回「ゆきおんな」ではいしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」が鳴り響く。
【クレシェンドとデクレシェンドの交差】
■『怪奇大作戦』には、消え行くもの(土俗や戦争の記憶)と、現れ出るもの(新たな科学技術や都市的ライフスタイル)との交差がある。交差の中で、忘れ去られることに抵抗する者が、科学を用いて、忘れた我々に復讐する。「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯すのもその変形だ。抽象すれば、これが『怪奇大作戦』の意味論の本質だ。
■思えば、戦間期に、消え行くものと現れ出るものの交差に、儚くも妖しい輝きが宿ることを喝破したのが、江戸川乱歩や川端康成だった。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉。戦間期にはエログロナンセンスが爆発した。駆動因は日露戦争後の工業化による〈都市化〉だった。ハイカラな帝大生にも、故郷には因習に縛られた両親がいた。
■高度成長時代末期の60年代後半にはフーテン文化やアングラ表現が爆発した。駆動因は1956年に始まる団地化に象徴される〈郊外化〉だ。墓や祠を踏み潰して団地が林立した。戦間期と同様〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉が高度な表現欲求を生んだ。実際、アングラ演劇の多くが1920年代のエログロナンセンスをルネサンスしようとした。
■若い人たちは今日の子供番組枠にこうした作品がオンエアされることなどあり得ないことを嘆息しつつ、『怪奇大作戦』シリーズに、〈平成の希薄さ〉と対比される〈昭和の濃密さ〉を見出すだろう。だが、昭和のコミュニケーションや表現が濃密だったのは、当時の人に、今よりも豊かなコミュニケーション能力や表現能力が宿ったからではない。
■濃密なコミュニケーションや表現を可能にする社会的文脈があったのだ。それが〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉だ。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉こそが時代の濃密さをもたらした当のものであることを、『怪奇大作戦』が完全に記録に留める。その意味で、冒頭に述べた通り、このシリーズは〈メタポジション〉なのだ。
12.09.14脱稿
―我々から濃密さが失われた理由は何か―
──────────────────
【得体の知れないものとしての科学】
■『怪奇大作戦』シリーズには、あらゆる面で「昭和性」が鮮烈に刻印されている。むろん『怪奇大作戦』に先立つ『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』にも刻印されている。だが『怪奇大作戦』は、「昭和がどんな時代だったから、こうした作品群が作られたのか」を明かす〈メタポジション〉にあると私は考えている。
■〈メタポジション〉の最大モチーフは「科学の両義性」だ。とりわけ1964年の東京オリンピック以降、〈秩序の時代〉から〈未来の時代〉へと社会がシフトした。〈秩序の時代〉には、人間社会の秩序を侵犯する「マッド科学者」を理想に燃える少年がやっつけ、秩序が回復された。そこでは人間社会があくまで「善」だった。
■だが〈未来の時代〉になると人間社会が「未熟」「悪」として描かれ始める。嚆矢は手塚治虫の初期作品「SF三部作」だが、テレビアニメ『ジャングル大帝』第一シリーズが分かりやすい。私は東京オリンピックから石油ショック(73年)までを〈未来の時代〉と呼ぶ。人間社会の不完全さを科学が克服するだろうとのビジョンがシェアされた。
■科学は〈輝き〉だった。ウルトラマンもウルトラセブンも人類よりも学が進んだ文明から飛来した。未熟な人類も科学が発達した高度文明に近づけば問題を克服できるとの期待が投影されていた。ちなみに怪獣も宇宙人も絶対悪でなかった。怪獣は社会が生み出した負の帰結。宇宙人も、国教会の弾圧を逃れて新天地を求めた米国人と同様だった。
■この〈負の帰結=闇〉は未来の〈輝き〉であるはずの科学がもたらした。戦後の重化学工業化と平行して先進国を富ませた科学は、それがもたらす〈闇〉ゆえに〈得体の知れないもの〉と理解された。〈得体の知れない科学〉のビジョンは、1960年代前半の米国のSFテレビドラマシリーズ『ミステリーゾーン』『アウターリミッツ』にも刻印された。
■〈輝き〉であり〈闇〉でもある科学の〈得体の知れなさ〉。これを下敷きにしたのが『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』だが、この意味論自体を直接主題化したのが『怪奇大作戦』だ。この主題は「科学を用いた犯罪に、科学を用いて立ち向かう」というSRIの設定に刻印される。科学の両義性モチーフはシリーズ随所に顔を出した。
■ビキニ環礁水爆実験の翌1954年に公開された『ゴジラ』に登場する「白衣を着た科学者」は〈輝き〉の象徴だった。第13回「氷の死刑台」にも「白衣を着た科学者」が登場する。彼は人間の寿命を延ばす冷凍睡眠を研究する「マッド科学者」だが、ラストでSRI所長の的矢忠が「科学技術が人間を幸せにするのか」としみじみ述懐する。
■同じく死体の蘇生研究に勤しむ「マッド科学者」が第9回「散歩する首」にも登場する。「マッド科学者」はかつて世界征服や世界破滅を企む悪人でしかなかったが、ここでは研究目的自体は善に変わっている。『怪奇大作戦』における「マッド科学者」は、単なる悪人というよりも、いわば〈踏み迷った科学者〉なのである。
【人のための犯罪、公共のための犯罪】
■第5回「死神の子守歌」では、広島で被爆して白血病を罹患した妹のために、治療の決定打スペルトルG線の人体実験を繰り返す兄が、「科学者が何をした」と、思いを吐露する。原爆こそ核物理学の輝かしい成果が生み出したものだ。この人体実験の結果、妹が歌う子守歌通りに若い女性たちが殺される。これはいわば〈人のための犯罪〉である。
■「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯す。戦間期の講談本になかった『怪奇大作戦』固有のモチーフだ。親しい人のために殺人を犯すのは過剰な身贔屓で、実はエゴだ。だが〈愛こそが凶器〉ないし〈愛こそが狂気〉という意味論は〈普遍の善〉が信じられなくなった高度成長期末期の60年代末の〈こんなはずじゃなかった感〉を指し示す。
■妹への愛がスペクトルG線の人体実験を動機づけたのと同様、第3回「白い顔の男」では父の娘への愛がレーザーガン連続殺人を動機づける。第6回「吸血地獄」では、吸血鬼化した恋人女性への愛が吸血鬼殺人の教唆を動機づける。第8回「光る通り魔」でも、会社の同僚女性への愛(というより横恋慕)が動機として示唆される。
■こうした〈愛ゆえの犯罪〉と別に〈親しき者の恥辱を拭う犯罪〉も繰り返し描かれた。第10回「死を呼ぶ電波」では、会社幹部に謀殺された父親の恨みを晴らすことが電波殺人の動機だった。同じく第23回「呪いの壺」でも、偽物骨董壺の製作を名もなき存在として続けさせられた父の恥辱を拭うことが、放射性物質を用いた殺人の動機だった。
■〈人のための犯罪〉の変形で〈公共のための犯罪〉も描かれた。〈公共心こそ凶器〉ないし〈公共心こそ狂気〉のモチーフは〈普遍の善〉の不可能性を鮮やかに描き、米国のイラク攻撃を髣髴させる。第12回「霧の童話」では高速道建設で失われる村を守ることが動機だった。第25話「京都買います」では京都の街と仏像を守ることが動機だった。
【〈理由なき悪〉は存在しない】
■円谷プロの『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に登場する怪獣や宇宙人は単なる悪ではなく、『怪奇大作戦』に登場する犯罪者も単なる悪ではない。共通するのは〈悪には理由がある〉との意味論だ。だがこの意味論は71年に始まる『仮面ライダー』をエポックとして廃れ、以降は単なる悪すなわち〈理由なき悪〉が専らになる。
■刑事モノと比較すると『怪奇大作戦』は特異だ。刑事モノと違って、〈犯人探し〉は主要モチーフでない。〈犯人探し〉よりも〈動機探し〉と〈メカ探し〉がずっと重要だ。これは、円谷プロの怪獣モノが、『仮面ライダー』以降に支配的になる〈悪者倒し〉(勧善懲悪)と違い、人類の横暴を警告する〈横暴探し〉が主要モチーフだったのに似る。
■回によっては〈メカ探し〉が省略され、〈動機探し〉だけになることもある。第7回「青い血の女」では子供に見捨てられた老人の恨みを汲んで人形が殺人代行するが、メカは不明だった。第20回「殺人回路」では立身出世競争という動機が明らかにされるが、CRTを用いたコンピュータ殺人のメカは、最後になっても明らかにされなかった。
■つまり『怪奇大作戦』では〈悪には理由がある〉。第22回「果てしなき暴走」では犯人も動機も不明で例外に見えるが、その場合も動機不可解な無差別殺人の社会背景に注意が向けられた。永山則夫事件を髣髴させる第16回「かまいたち」も同じだ。動機不明は動機軽視を意味せず、逆に〈動機不可解な犯罪〉にこそ社会的背景があるとされた。
【〈戦争の傷〉と円谷英二の遺伝子】
■〈動機探し〉で浮上するのが〈戦争の傷〉だ。第4回「恐怖の電話」では小笠原戦線の戦友たちの仲間割れが動機だ。第5回「死神の子守歌」では広島で被爆した妹の救済が動機だ。第12回「霧の童話」では戦時中に陸軍が開発した錯乱ガスが用いられた。第23回「呪いの壺」でも光に当たると放射能を放出する旧陸軍が開発した物質が登場する。
■第5回「24年目の復讐」ではそれぞれ72年と74年に帰還するまで終戦に気付かなかった横井庄一と小野田寛郎と同様な兵士が登場する。兵士は横須賀米軍基地周辺で長身化した垢抜けた日本の若者を米兵と誤認して殺す。横井庄一も帰還後の記者会見で、長身化して垢抜けた日本人記者が米国人に見えたと述べていた。驚きべき現実の先取りだ。
■〈戦争の傷〉のモチーフは円谷英二の遺伝子だ。経済白書の文言「もはや戦後ではない」が流行する56年の直前に公開された『ゴジラ』(54年)では、人々は怪獣の姿に南海に沈んだ英霊の化身を見た。戦争から立ち直ることは忘れることではない。忘れないことこそが復興の本義だ。エンドロール冒頭の「監修 円谷英二」のロゴが突き刺さる。
■他にも社会問題が描かれた。第5回「死神の子守歌」の兄の逮捕シーンでは国家権力の象徴警察の過剰暴力が描かれた。第7回「青い血の女」の老人を捨てる子供という設定は〈戦争の傷〉の忘却も含め当時の社会風潮への警鐘で、第8回「光る通り魔」の「平凡な男・山本」の設定は、第13回「氷の死刑台」の蒸発共々、大衆社会化への警鐘だった。
■第12回「霧の童話」では開発による土地買収とそれによる故郷喪失という社会問題が俎上に載せられた。第15回「24年目の復讐」では軍港から見える戦艦や米兵バーの光景を通して〈アメリカの影〉とでも言うべき昭和性が視る者に突きつけられた。これらはまさに私が小学生だった60年代後半にニュースやドキュメンタリーで繰返し見た主題だ。
■第18回「こうもり男」ではスモッグ都市東京が言及され、第25回「京都買います」では人々が自らが住む場所の〈場所性〉を忘れ入替可能な存在に堕する、昭和的問題が指摘された。『ウルトラセブン』に続いて登場した『怪奇大作戦』は、若干対象年齢を上げたにせよ、とても中高生を対象にした番組に見えない。それが円谷の子供番組だった。
【昭和的文物が指し示すエロス】
■昭和34年(1959年)生まれの私は小学四年生のときに『怪奇大作戦』を全て視た。30余年を経て初めて全編を見直した。各所に登場する文物の昭和性に触発されて記憶が溢れ出し、涙なしには視られなかった。全回を通して紫煙の昭和性が刻印され、第4回「恐怖の電話」では当時定番の「あちっ」という煙草ギャグを牧(岸田森)が演じている。
■第1回「壁抜け男」には初代引田天功ばりの奇術ショーの昭和性が描かれる。第2回「人食い蛾」には出世競争の昭和性が描かれる。第4回「恐怖の電話」にはクロスバー交換機の昭和性、マンホールの回りに集まる子らの昭和性、ナイトクラブの昭和性が描かれる。第5回「死神の子守歌」ではクーラーのない部屋で汗を拭う仕草の昭和性が描かれる。
■第6回「吸血地獄」では自転車に乗る交番巡査の昭和性、ネオンの都会的エロスの昭和性が描かれる。第10回「死を呼ぶ電波」ではゴールデンタイムのボクシング番組の昭和性が描かれる。第12回「霧の童話」では昨今のブータンを思わせる村の子供たちの昭和性が描かれる。第13回「氷の死刑台」ではラッシュアワーと蒸発の昭和性が描かれる。
■第15回「24年目の復讐」では水棲人間の昭和性が描かれる。楳図かずお『半魚人』(66年)や安部公房『第四間氷期』(59年)で当時の子供は水棲人間のアイディアに馴染んでいた。同じく第19回「こうもり男」ではこうもり人間の昭和性が描かれる。テレビアニメ『黄金バット』(67年)や『バットマン』(66年)でこうもり人間も馴染みだった
■第18回「死者がささやく」では新婚旅行の輝きという昭和性が描かれる。第21回では、マニキュア・ベレー・洒落た店・美女という銀座的な都会的エロスの昭和性が描かれる。似た話だが、第22回「果てしなき暴走」ではネオンの煌めきの都会的エロスとあわせて、スポーツカーの輝きという昭和性が描かれる。今日ではむろん全く輝かなくなっている。
■第23回「呪いの壺」では駆落ちと肺病病みの昭和性が描かれる。同じ京都が舞台の第25回「京都買います」ではゴーゴー喫茶の眩暈の昭和性が描かれる。昭和性のオンパレードということでは第11回「ジャガーの眼が赤い」が特別だ。そこには夕暮れに外遊びする子らの、プラモデルの、サンドイッチマンの昭和性、西部劇の昭和性が描かれる。
■単なる昭和的文物なら当時のテレビ番組に当然刻印されるが、『怪奇大作戦』では、〈戦争の傷〉を含めた社会問題への批判的言及の数々が、これら昭和的文物の数々に取り囲まれているので、〈ドキュメンタリーと機能的に等価な体験〉を与える。同時に指摘しなければならないのは、これらの昭和性が極めてエロチックに描かれていることだ。
■何度も視ると音響に依る部分も大きい。例えば第5回「死神の子守歌」と第6回「吸血地獄」では、アダルトビデオと見まがうばかりの女性の悲鳴のエロスが描かれる。この回のスペクトルG線人体実験が若い女性を対象にするべき必然性はないが、深夜の都会に響く女性の悲鳴のエロスを描きたいがためにこうした設定が採用されたのではないか
■この第5回では建築工事の音や都会の街頭音が不必要なほど大音量で鳴り響く。第11回「ジャガーの眼は赤い」では夕暮れまで外遊びする子らの歓声が、第16回「かまいたち」では町工場のサイレンと踏切音が描かれる。数十年後に昭和記録映像として視聴されることを予期するかの如き演出の数々は、何度視ても驚嘆せずにはいられない。
■特に随所で聞こえる流行歌が数十年後を見据えた演出意図の存在をリアルに感じさせる。第20回「殺人回路」ではピンキーとキラーズ「恋の季節」、第21回「美女と花粉」では水前寺清子「幸せのマーチ」、欠番第24回「狂鬼人間」ではピンキーとキラーズ「涙の季節」、第26回「ゆきおんな」ではいしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」が鳴り響く。
【クレシェンドとデクレシェンドの交差】
■『怪奇大作戦』には、消え行くもの(土俗や戦争の記憶)と、現れ出るもの(新たな科学技術や都市的ライフスタイル)との交差がある。交差の中で、忘れ去られることに抵抗する者が、科学を用いて、忘れた我々に復讐する。「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯すのもその変形だ。抽象すれば、これが『怪奇大作戦』の意味論の本質だ。
■思えば、戦間期に、消え行くものと現れ出るものの交差に、儚くも妖しい輝きが宿ることを喝破したのが、江戸川乱歩や川端康成だった。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉。戦間期にはエログロナンセンスが爆発した。駆動因は日露戦争後の工業化による〈都市化〉だった。ハイカラな帝大生にも、故郷には因習に縛られた両親がいた。
■高度成長時代末期の60年代後半にはフーテン文化やアングラ表現が爆発した。駆動因は1956年に始まる団地化に象徴される〈郊外化〉だ。墓や祠を踏み潰して団地が林立した。戦間期と同様〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉が高度な表現欲求を生んだ。実際、アングラ演劇の多くが1920年代のエログロナンセンスをルネサンスしようとした。
■若い人たちは今日の子供番組枠にこうした作品がオンエアされることなどあり得ないことを嘆息しつつ、『怪奇大作戦』シリーズに、〈平成の希薄さ〉と対比される〈昭和の濃密さ〉を見出すだろう。だが、昭和のコミュニケーションや表現が濃密だったのは、当時の人に、今よりも豊かなコミュニケーション能力や表現能力が宿ったからではない。
■濃密なコミュニケーションや表現を可能にする社会的文脈があったのだ。それが〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉だ。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉こそが時代の濃密さをもたらした当のものであることを、『怪奇大作戦』が完全に記録に留める。その意味で、冒頭に述べた通り、このシリーズは〈メタポジション〉なのだ。
12.09.14脱稿