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『怪奇大作戦』について長い原稿を書きました(ピースボート船上で一気に書き上げました)

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『怪奇大作戦』が明かす〈昭和性の本質〉
―我々から濃密さが失われた理由は何か―
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【得体の知れないものとしての科学】
■『怪奇大作戦』シリーズには、あらゆる面で「昭和性」が鮮烈に刻印されている。むろん『怪奇大作戦』に先立つ『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』にも刻印されている。だが『怪奇大作戦』は、「昭和がどんな時代だったから、こうした作品群が作られたのか」を明かす〈メタポジション〉にあると私は考えている。
〈メタポジション〉の最大モチーフは「科学の両義性」だ。とりわけ1964年の東京オリンピック以降、〈秩序の時代〉から〈未来の時代〉へと社会がシフトした。〈秩序の時代〉には、人間社会の秩序を侵犯する「マッド科学者」を理想に燃える少年がやっつけ、秩序が回復された。そこでは人間社会があくまで「善」だった。
■だが〈未来の時代〉になると人間社会が「未熟」「悪」として描かれ始める。嚆矢は手塚治虫の初期作品「SF三部作」だが、テレビアニメ『ジャングル大帝』第一シリーズが分かりやすい。私は東京オリンピックから石油ショック(73年)までを〈未来の時代〉と呼ぶ。人間社会の不完全さを科学が克服するだろうとのビジョンがシェアされた。
■科学は〈輝き〉だった。ウルトラマンもウルトラセブンも人類よりも学が進んだ文明から飛来した。未熟な人類も科学が発達した高度文明に近づけば問題を克服できるとの期待が投影されていた。ちなみに怪獣も宇宙人も絶対悪でなかった。怪獣は社会が生み出した負の帰結。宇宙人も、国教会の弾圧を逃れて新天地を求めた米国人と同様だった。
■この〈負の帰結=闇〉は未来の〈輝き〉であるはずの科学がもたらした。戦後の重化学工業化と平行して先進国を富ませた科学は、それがもたらす〈闇〉ゆえに〈得体の知れないもの〉と理解された。〈得体の知れない科学〉のビジョンは、1960年代前半の米国のSFテレビドラマシリーズ『ミステリーゾーン』『アウターリミッツ』にも刻印された。
〈輝き〉であり〈闇〉でもある科学の〈得体の知れなさ〉。これを下敷きにしたのが『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』だが、この意味論自体を直接主題化したのが『怪奇大作戦』だ。この主題は「科学を用いた犯罪に、科学を用いて立ち向かう」というSRIの設定に刻印される。科学の両義性モチーフはシリーズ随所に顔を出した。
■ビキニ環礁水爆実験の翌1954年に公開された『ゴジラ』に登場する「白衣を着た科学者」は〈輝き〉の象徴だった。第13回「氷の死刑台」にも「白衣を着た科学者」が登場する。彼は人間の寿命を延ばす冷凍睡眠を研究する「マッド科学者」だが、ラストでSRI所長の的矢忠が「科学技術が人間を幸せにするのか」としみじみ述懐する。
■同じく死体の蘇生研究に勤しむ「マッド科学者」が第9回「散歩する首」にも登場する。「マッド科学者」はかつて世界征服や世界破滅を企む悪人でしかなかったが、ここでは研究目的自体は善に変わっている。『怪奇大作戦』における「マッド科学者」は、単なる悪人というよりも、いわば〈踏み迷った科学者〉なのである。

【人のための犯罪、公共のための犯罪】
■第5回「死神の子守歌」では、広島で被爆して白血病を罹患した妹のために、治療の決定打スペルトルG線の人体実験を繰り返す兄が、「科学者が何をした」と、思いを吐露する。原爆こそ核物理学の輝かしい成果が生み出したものだ。この人体実験の結果、妹が歌う子守歌通りに若い女性たちが殺される。これはいわば〈人のための犯罪〉である。
■「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯す。戦間期の講談本になかった『怪奇大作戦』固有のモチーフだ。親しい人のために殺人を犯すのは過剰な身贔屓で、実はエゴだ。だが〈愛こそが凶器〉ないし〈愛こそが狂気〉という意味論は〈普遍の善〉が信じられなくなった高度成長期末期の60年代末の〈こんなはずじゃなかった感〉を指し示す。
■妹への愛がスペクトルG線の人体実験を動機づけたのと同様、第3回「白い顔の男」では父の娘への愛がレーザーガン連続殺人を動機づける。第6回「吸血地獄」では、吸血鬼化した恋人女性への愛が吸血鬼殺人の教唆を動機づける。第8回「光る通り魔」でも、会社の同僚女性への愛(というより横恋慕)が動機として示唆される。
■こうした〈愛ゆえの犯罪〉と別に〈親しき者の恥辱を拭う犯罪〉も繰り返し描かれた。第10回「死を呼ぶ電波」では、会社幹部に謀殺された父親の恨みを晴らすことが電波殺人の動機だった。同じく第23回「呪いの壺」でも、偽物骨董壺の製作を名もなき存在として続けさせられた父の恥辱を拭うことが、放射性物質を用いた殺人の動機だった。
〈人のための犯罪〉の変形で〈公共のための犯罪〉も描かれた。〈公共心こそ凶器〉ないし〈公共心こそ狂気〉のモチーフは〈普遍の善〉の不可能性を鮮やかに描き、米国のイラク攻撃を髣髴させる。第12回「霧の童話」では高速道建設で失われる村を守ることが動機だった。第25話「京都買います」では京都の街と仏像を守ることが動機だった。

【〈理由なき悪〉は存在しない】
■円谷プロの『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に登場する怪獣や宇宙人は単なる悪ではなく、『怪奇大作戦』に登場する犯罪者も単なる悪ではない。共通するのは〈悪には理由がある〉との意味論だ。だがこの意味論は71年に始まる『仮面ライダー』をエポックとして廃れ、以降は単なる悪すなわち〈理由なき悪〉が専らになる。
■刑事モノと比較すると『怪奇大作戦』は特異だ。刑事モノと違って、〈犯人探し〉は主要モチーフでない。〈犯人探し〉よりも〈動機探し〉〈メカ探し〉がずっと重要だ。これは、円谷プロの怪獣モノが、『仮面ライダー』以降に支配的になる〈悪者倒し〉(勧善懲悪)と違い、人類の横暴を警告する〈横暴探し〉が主要モチーフだったのに似る。
■回によっては〈メカ探し〉が省略され、〈動機探し〉だけになることもある。第7回「青い血の女」では子供に見捨てられた老人の恨みを汲んで人形が殺人代行するが、メカは不明だった。第20回「殺人回路」では立身出世競争という動機が明らかにされるが、CRTを用いたコンピュータ殺人のメカは、最後になっても明らかにされなかった。
■つまり『怪奇大作戦』では〈悪には理由がある〉。第22回「果てしなき暴走」では犯人も動機も不明で例外に見えるが、その場合も動機不可解な無差別殺人の社会背景に注意が向けられた。永山則夫事件を髣髴させる第16回「かまいたち」も同じだ。動機不明は動機軽視を意味せず、逆に〈動機不可解な犯罪〉にこそ社会的背景があるとされた。

【〈戦争の傷〉と円谷英二の遺伝子】
〈動機探し〉で浮上するのが〈戦争の傷〉だ。第4回「恐怖の電話」では小笠原戦線の戦友たちの仲間割れが動機だ。第5回「死神の子守歌」では広島で被爆した妹の救済が動機だ。第12回「霧の童話」では戦時中に陸軍が開発した錯乱ガスが用いられた。第23回「呪いの壺」でも光に当たると放射能を放出する旧陸軍が開発した物質が登場する。
■第5回「24年目の復讐」ではそれぞれ72年と74年に帰還するまで終戦に気付かなかった横井庄一と小野田寛郎と同様な兵士が登場する。兵士は横須賀米軍基地周辺で長身化した垢抜けた日本の若者を米兵と誤認して殺す。横井庄一も帰還後の記者会見で、長身化して垢抜けた日本人記者が米国人に見えたと述べていた。驚きべき現実の先取りだ。
〈戦争の傷〉のモチーフは円谷英二の遺伝子だ。経済白書の文言「もはや戦後ではない」が流行する56年の直前に公開された『ゴジラ』(54年)では、人々は怪獣の姿に南海に沈んだ英霊の化身を見た。戦争から立ち直ることは忘れることではない。忘れないことこそが復興の本義だ。エンドロール冒頭の「監修 円谷英二」のロゴが突き刺さる。
■他にも社会問題が描かれた。第5回「死神の子守歌」の兄の逮捕シーンでは国家権力の象徴警察の過剰暴力が描かれた。第7回「青い血の女」の老人を捨てる子供という設定は〈戦争の傷〉の忘却も含め当時の社会風潮への警鐘で、第8回「光る通り魔」の「平凡な男・山本」の設定は、第13回「氷の死刑台」の蒸発共々、大衆社会化への警鐘だった。
■第12回「霧の童話」では開発による土地買収とそれによる故郷喪失という社会問題が俎上に載せられた。第15回「24年目の復讐」では軍港から見える戦艦や米兵バーの光景を通して〈アメリカの影〉とでも言うべき昭和性が視る者に突きつけられた。これらはまさに私が小学生だった60年代後半にニュースやドキュメンタリーで繰返し見た主題だ。
■第18回「こうもり男」ではスモッグ都市東京が言及され、第25回「京都買います」では人々が自らが住む場所の〈場所性〉を忘れ入替可能な存在に堕する、昭和的問題が指摘された。『ウルトラセブン』に続いて登場した『怪奇大作戦』は、若干対象年齢を上げたにせよ、とても中高生を対象にした番組に見えない。それが円谷の子供番組だった。

【昭和的文物が指し示すエロス】
■昭和34年(1959年)生まれの私は小学四年生のときに『怪奇大作戦』を全て視た。30余年を経て初めて全編を見直した。各所に登場する文物の昭和性に触発されて記憶が溢れ出し、涙なしには視られなかった。全回を通して紫煙の昭和性が刻印され、第4回「恐怖の電話」では当時定番の「あちっ」という煙草ギャグを牧(岸田森)が演じている。
■第1回「壁抜け男」には初代引田天功ばりの奇術ショーの昭和性が描かれる。第2回「人食い蛾」には出世競争の昭和性が描かれる。第4回「恐怖の電話」にはクロスバー交換機の昭和性、マンホールの回りに集まる子らの昭和性、ナイトクラブの昭和性が描かれる。第5回「死神の子守歌」ではクーラーのない部屋で汗を拭う仕草の昭和性が描かれる。
■第6回「吸血地獄」では自転車に乗る交番巡査の昭和性、ネオンの都会的エロスの昭和性が描かれる。第10回「死を呼ぶ電波」ではゴールデンタイムのボクシング番組の昭和性が描かれる。第12回「霧の童話」では昨今のブータンを思わせる村の子供たちの昭和性が描かれる。第13回「氷の死刑台」ではラッシュアワーと蒸発の昭和性が描かれる。
■第15回「24年目の復讐」では水棲人間の昭和性が描かれる。楳図かずお『半魚人』(66年)や安部公房『第四間氷期』(59年)で当時の子供は水棲人間のアイディアに馴染んでいた。同じく第19回「こうもり男」ではこうもり人間の昭和性が描かれる。テレビアニメ『黄金バット』(67年)や『バットマン』(66年)でこうもり人間も馴染みだった
■第18回「死者がささやく」では新婚旅行の輝きという昭和性が描かれる。第21回では、マニキュア・ベレー・洒落た店・美女という銀座的な都会的エロスの昭和性が描かれる。似た話だが、第22回「果てしなき暴走」ではネオンの煌めきの都会的エロスとあわせて、スポーツカーの輝きという昭和性が描かれる。今日ではむろん全く輝かなくなっている。
■第23回「呪いの壺」では駆落ちと肺病病みの昭和性が描かれる。同じ京都が舞台の第25回「京都買います」ではゴーゴー喫茶の眩暈の昭和性が描かれる。昭和性のオンパレードということでは第11回「ジャガーの眼が赤い」が特別だ。そこには夕暮れに外遊びする子らの、プラモデルの、サンドイッチマンの昭和性、西部劇の昭和性が描かれる。
■単なる昭和的文物なら当時のテレビ番組に当然刻印されるが、『怪奇大作戦』では、〈戦争の傷〉を含めた社会問題への批判的言及の数々が、これら昭和的文物の数々に取り囲まれているので、〈ドキュメンタリーと機能的に等価な体験〉を与える。同時に指摘しなければならないのは、これらの昭和性が極めてエロチックに描かれていることだ。
■何度も視ると音響に依る部分も大きい。例えば第5回「死神の子守歌」と第6回「吸血地獄」では、アダルトビデオと見まがうばかりの女性の悲鳴のエロスが描かれる。この回のスペクトルG線人体実験が若い女性を対象にするべき必然性はないが、深夜の都会に響く女性の悲鳴のエロスを描きたいがためにこうした設定が採用されたのではないか
■この第5回では建築工事の音や都会の街頭音が不必要なほど大音量で鳴り響く。第11回「ジャガーの眼は赤い」では夕暮れまで外遊びする子らの歓声が、第16回「かまいたち」では町工場のサイレンと踏切音が描かれる。数十年後に昭和記録映像として視聴されることを予期するかの如き演出の数々は、何度視ても驚嘆せずにはいられない。
■特に随所で聞こえる流行歌が数十年後を見据えた演出意図の存在をリアルに感じさせる。第20回「殺人回路」ではピンキーとキラーズ「恋の季節」、第21回「美女と花粉」では水前寺清子「幸せのマーチ」、欠番第24回「狂鬼人間」ではピンキーとキラーズ「涙の季節」、第26回「ゆきおんな」ではいしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」が鳴り響く。

【クレシェンドとデクレシェンドの交差】
■『怪奇大作戦』には、消え行くもの(土俗や戦争の記憶)と、現れ出るもの(新たな科学技術や都市的ライフスタイル)との交差がある。交差の中で、忘れ去られることに抵抗する者が、科学を用いて、忘れた我々に復讐する。「マッド科学者」が〈人のための犯罪〉を犯すのもその変形だ。抽象すれば、これが『怪奇大作戦』の意味論の本質だ。
■思えば、戦間期に、消え行くものと現れ出るものの交差に、儚くも妖しい輝きが宿ることを喝破したのが、江戸川乱歩や川端康成だった。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉。戦間期にはエログロナンセンスが爆発した。駆動因は日露戦争後の工業化による〈都市化〉だった。ハイカラな帝大生にも、故郷には因習に縛られた両親がいた。
■高度成長時代末期の60年代後半にはフーテン文化やアングラ表現が爆発した。駆動因は1956年に始まる団地化に象徴される〈郊外化〉だ。墓や祠を踏み潰して団地が林立した。戦間期と同様〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉が高度な表現欲求を生んだ。実際、アングラ演劇の多くが1920年代のエログロナンセンスをルネサンスしようとした。
■若い人たちは今日の子供番組枠にこうした作品がオンエアされることなどあり得ないことを嘆息しつつ、『怪奇大作戦』シリーズに、〈平成の希薄さ〉と対比される〈昭和の濃密さ〉を見出すだろう。だが、昭和のコミュニケーションや表現が濃密だったのは、当時の人に、今よりも豊かなコミュニケーション能力や表現能力が宿ったからではない。
■濃密なコミュニケーションや表現を可能にする社会的文脈があったのだ。それが〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉だ。〈クレシェンドとデクレシェンドの交差〉こそが時代の濃密さをもたらした当のものであることを、『怪奇大作戦』が完全に記録に留める。その意味で、冒頭に述べた通り、このシリーズは〈メタポジション〉なのだ。
12.09.14脱稿

若松孝二監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

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若松孝二監督ご逝去の報に衝撃を受けています。中二のとき『理由なき暴行』を文芸地下劇場で観たのが最初の体験でした。後しばしば『アンダーグラウンドの蠍座』で若松特集を見ました。中高生時代の僕には監督の作品が心の支え。監督なくして今の僕はない。若松監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

若松監督は若き時代の僕の「神」でした。大学を卒業するまでに全作品を見ました。90年代半ばに若松監督に初めてお会いしました。ロフトプラスワンの若松監督トークイベント。客は僅か数十名。この場で僕は『ゆけゆけ二度目の処女』の挿入歌(中村義則氏の詩に秋山未痴汚氏が曲をつけた)を通しで暗唱しました。

ママ、僕出かける。もうママに観光バスが停まり、閑古鳥が鳴くだろう。No See you again。僕を裏切り差し入れしなかったパンサーのD。ジャンやミラーやノーマルメイラーはもう不景気さ。勃起した赤いネオンは前進色じゃなく熱くない。ナイフの側に集まってたのに今はおまわりの公園。おわまりの僕のコーヒー。おまわりの僕のリビングルーム……。

「おい、いったい君は何者だ」 これが若松監督の最初の御言葉でした。その場には中村義則氏の娘さんもいらっしゃっておられました。そのご縁で今でも中村義則氏からは年賀状や暑中見舞いをいただいております。若松監督とはそれが縁で何度もトークイベントをしてきました。名古屋の若松氏所有の映画館でもやりました。

若松監督の個人宅にも何度もおじゃまをしました。そのときに撮影していただいた若松監督との素晴らしいツーショット写真はいまも僕の宝です。『実録連合赤軍』のときには脚本に意見を具申させていただいただけでなく出演もさせていただきました。若松監督とは何度も握手をしました。そのときの感触を今も思い出しています。

この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本を読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった。

だから、僕が何をしたら良いのか分からなくなるたびに、僕の原体験を思い出すために、若松作品を観直していました。ここ数年の戦後大衆文化史の授業では『理由なき暴行』を素材として使ってきました。僕に近い人ならば、僕の感覚はいつも若松監督にむけて開かれていたことを御存知でしょう。

いちばん最近にお会いしたのは若松監督宅ででした。最近作の『海燕ホテルブルー』についてUstream中継しながら長くお話ししました。「歴史的事象を追いかけた最近の数作と違って、パソコン上でモノクローム化して観ると1960年代の若松作品みたいです。監督の原風景のようです」と申し上げました。

「ここではないどこかに行きたい」けれども「どこかに行けそうでどこにも行けない」。監督の原風景だったと思います。この原風景は60年代に「密室映画」と呼ばれました。でも松田政男さんが論じたように、舞台が屋外であろうが、結局は「どこにも行けない」という意味での密室が描かれていたので、やがて「風景映画」と呼ばれるようになりました。

「ここではないどこかに行きたい」 でも「どこかに行けそうでどこにも行けない」。僕はずっとずっとそう思ってきました。20歳代のときに海外にバックパッカーとして旅行したときもそれは変わりませんでした。30歳代を売買春フィールドワーカーとして全国巡礼して過ごしたときも変わりませんでした。そういう僕の全てを理解して下さっていた若松監督でした。



若松監督とのツーショット写真

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若松監督のご自宅で

若松監督『理由なき暴行』について書いた文章をアップします。

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若松孝二監督『理由なき暴行』を初めてみたのが中二のとき、つまり1972年。それから35年後に、あらためて『理由なき暴行』を論じました。そのときの文章(『〈世界〉はそもそもデタラメである』に所収)をアップします。


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“外への鮮烈な願望”と“外の不可能性への痛切な認識”が同居した69年。“願望”が消え“認識”だけ残った2004年。両者の差異を『理由なき暴行』『誰も知らない』に見る───────────────────────────────────────
【「自由の輝き」説と「アノミー」説の違い】
■「60年代の奇跡」は、それまで不自由だった者たちが、突然自由になって体験した「自由の輝き」によってもたらされたのか。それとも、急激な郊外化でアノミーに陥った者たちの、空洞化を埋め合わせてくれる「全体性や超越性への希求」故にもたらされたものか。
■前者の立場、即ち「自由の輝き」説に立つのが、李相日監督『69 sixty nine』(04)。後者の立場、即ち「アノミー」説に立つのが、ベリトリッチ監督『ドリーマーズ』(04)。前回そう述べた。そこでも示唆した通り、どちら立場を採るかで今日的な寓意性が一変する。
■よく知られる通り、映画の脚本は三段構成が多い。序破急という言葉もあるが、連載でも繰返し言及した「通過儀礼」の図式に置き換えると分かり易い。即ち「離陸→混融→着陸」の三段階。「混融」を学問世界で「コムニタス」と呼ぶが、いわば「カオス」のこと。
■例えば60年代の昼メロやピンク映画の定石があった。やっと幸せを掴んだ女がいる。突如、男に強姦される/事故を起こす/夫の浮気を知る。幸せを手放すまいとする彼女のドラマが始まった。艱難辛苦を経た彼女は「新たな地平=再帰的な幸せ」に着地する──。
■通過儀礼図式では、離陸面(古い地平)と着陸面(新たな地平)との間の落差が、「目から鱗」的な気づきの体験をもたらす。その体験が、感情のフックになって娯楽性をもたらし、かつ「〈世界〉は確かにそうなっているという納得」が帰結する寓話性をもたらす。
■離陸面は勝手知ったる日常から出発するとして、脚本家による、(1)何がカオスたり得るかという分析と(2)何が着陸面になり得るかという分析こそが、脚本の深さ、即ち世界観の奥行を規定する。ところで「自由の輝き」説と「アノミー」説では、(1)と(2)とが異なる。
■「自由の輝き」説では、暗闇に差し込んだ自由の眩しき光の「非日常」がカオスを与え、再び「日常」に戻ったとき「主人公が大人になっている」。即ち「意思して秩序を生き得る者」へと成長している。そこでは「無自覚な日常」が「再帰的な日常」へと置換される。
■まさに『69』そのもの。ことほどさように、自由と不自由の二項対立を用いた「自由の輝き」説は、「自由を行使して選ぶ不自由」という再帰性が、論理的に着地点であり得る。だが、〈内在〉と〈超越〉の二項図式を用いる「アノミー」説では、それはあり得ない。
■「アノミー」説では、〈社会〉内での位置取り(疎外回復)にあくせくする者に、〈世界〉からの突然の訪れが、「非日常」のカオスをもたらす。〈超越〉体験。ないし一瞬の「全体性の獲得」。だが、「全体性の背理」故に、着陸面は挫折や不全でしかあり得ない。
■〈世界〉は何故あるかと問い得るポジションが〈超越〉だ。だが、問いの答えは論理的に〈世界〉の外になければならないのに、〈世界〉とはありとあらゆる全体だから外はあり得ない。全体性の背理だ。これを解決できるような日常的場所は〈社会〉に存在しない。
■それ故の挫折や不全が『ドリーマー』に描き込まれていると見える。姉妹が部屋で淫靡に戯れ、毛沢東に淫するのは、自由だからではない。急な社会変動によって浮上した〈社会〉のありそうもなさ故に、〈社会〉に関わるということ自体が不全感をもたらすのだと。
■その意味で、「アノミーがもたらす不安」ゆえの「全体性への投企と慘めな挫折」を「性的放蕩を通して描いた」作品だと言える。だが、同じ図式に収まる、『ドリーマー』を遥かに凌ぐ映画を知っている。若松孝二監督『理由なき暴行〜現代性犯罪絶叫編』(70)だ。

【〈超越〉の挫折は、心理的問題か社会的問題か】
■津軽から出てきたナマリ丸出しの同級生三人組がいる。早大生、代ゼミ生、旋盤工。三人はボロいアパートに同居する。時代は69年。大学にはバリケードが築かれ、デモや集会で学生たちが気勢を上げる。しかし三人には関係ないどころか、それがむしろ鬱屈の種だ。
■集会参加を呼び掛けるビラ配りの女子学生に、主人公の早大生が言い放つ。《やらせてくれるなら、参加してやるよ!》。全くクソ面白くもない毎日だ。折しも街では映画『網走番外地』(65)がリバイバル。三人は高倉健が歌った主題歌「網走番外地」に唱和する。
■《♪遥か 遥か彼方にゃ オホーツク。紅い真っ紅な ハマナスが。海を見てます 泣いてます。その名も 網走番外地》。誰かが言う。《小田急線に乗って網走に行こう》。そう。まさに小田急新宿駅こそは、東京に〈世界〉が闖入しうる「弱い場所」だったのだ!
■コンピュータ放送が導入される前の小田急新宿駅は、電車の扉開閉を「海側どうぞ」「山側どうぞ」と業務放送していた。相模大野で箱根行きと江ノ島行きが分岐するからだ。業務放送の度、大都会新宿の「日常」に、箱根の山と、江ノ島の海の「非日常」が闖入した。
■だからこそ小田急の特急は「ロマンスカー」と名付けられ、戦後の歌謡曲で「逢引電車」として歌われた。日常に穿たれた非日常の穴。システムに穿たれた外への穴。〈社会〉に穿たれた〈世界〉への穴。だから《小田急線に乗って網走に行こう》は完全に正しかった。
■つげ義春の「ヤナギ屋主人」(69)の主人公もまた「網走番外地」に誘われて、夜更けの総武線でふらり房総に出かける。当時は新宿に、東京に、「システムの外」からの香りが漂っていた。「システムの外」の存在が信奉される時代を「近代過渡期」と呼ぶと述べた。
■さて、小田急線で網走に着いた三人が見たものは、ベタベタ連れ添うバカップルの群れ。ムカツク三人は、男をボコり、女を犯して写真に撮る。暫くは写真をネタにアパートで愉悦に浸る三人だったが、やがてダルい日常が訪れる。しかしその日常も長く続かなかった。
■予備校生は事故死、旋盤工は自殺する。人通りの絶えた明け方の新宿を早大生が千鳥足で歩く。駆けてきた何者かに後ろから当たられて顛倒すると、彼の前に拳銃が転がる。何者かは駆け去り、彼が拳銃を手に立ち上がると、銃を捨てろの声。警官が銃を構えている。
■言われた通り銃を捨てかけた彼は、ふと身を起こして警官に銃を向ける。双方が発砲。胸を撃ちぬかれた彼が塀にもたれてもがく。塀には血糊がべっとり付着し、エンドタイトル。まさに「どこかに行けそうで、どこにも行けない」……中学時代に観た私は震撼した。
■折しも自分の学校は中学高校紛争のまっ直中。学年集会と全校集会の繰返しの毎日だった。そんな毎日を送る自分の気持ちを完全に言い当てられた気がしたのを覚えている。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」。この言葉が、私の頭蓋を何度も何度も反響した。
■因みに「どこかに行けそうで、どこにも行けない」のモチーフは、『理由なき暴行』の前年公開された『略称・連続射殺魔』『ゆけゆけ二度目の処女』以降、若松と足立正生のコラボレーションで反復される。彼ら自身は「風景映画」「風景論の映画」と呼んでいた。
■ここで言う「風景」は、第一に、都市化と郊外化で全国どこも同じ風景になるという意味での風景。第二に、ディスカバージャパン的な「絵葉書」のような風景。いずれの場合も、コンビニエント化と機能主義化のせいで、場所も人間も入替え可能になることを示す。
■『理由なき暴行』も、「アノミーがもたらす不安」ゆえの「全体性への投企と慘めな挫折」を「性的放蕩を通して描いた」作品であるのは見易い。だが、『ドリーマーズ』を二点で凌ぐ。第一点は「アノミー」の実質、第二点は「挫折」の実質、の描き方においてだ。
■『ドリーマーズ』の米国人主人公(=観客)の目には、フランス人姉弟の不安が、姉弟カプセル的なコクーニング(繭籠り)による心理的脆弱さのなせる業だと映り、全体性への投企の挫折も、ブルジョア的な文化主義のなせる業だと映る。結果、問題が矮小化される。
■心理的脆弱さとブルジュア趣味が、アノミーや挫折をもたらすことはあろう。そのプロセスで、儚く危き光が幻のように燦めくこともあろう。自由ではなく不可能性こそが輝くのは事実だが、不可能性が心理的に解釈される限り、それは「69年にとって」どうでもいい。
■『理由なき暴行』は違う。アノミーは、「システムの外」への信奉が結局は虚構であり、「内」も「外」も全てシステムの生成物であることに、結びつけられる。「番外地」(番地なき場所)も結局、「番地」制定権力が作るもの。「網走番外地」は「江ノ島」に過ぎない。
■網走番外地が江ノ島であること。システムの外がシステム生成物であること。〈社会〉の外の〈世界〉が〈社会〉の生成物であること。これらは構造的問題だ。であれば「外部への投企」は滑稽な形で挫折する他ない。連合赤軍事件を含めた左翼の挫折に通底しよう。

【それでも〈社会〉を生きなければならないか】
■このことは「全体性の獲得」が「全体性の背理」故にあり得ないことと論理的に同型だ。「これがありとあらゆる全体」と規定されたものは論理的にいつも非全体的である他ない。同じく、「外」はあり得ても、「これが外」と規定されたものはシステム相関物に過ぎない。
■その意味で、「システムの外」へのベタな接触の不可能性は、普遍的だ。だが、それが普遍的でも、まさに「問題」たり得るか否かはシステムのあり方に依存する。それが、「システムの外」を信奉可能な「近代過渡期」と、信奉不可能な「近代成熟期」の差異である。
■変わり易いものたちの、変わり方如何を評価する拠点となる、変わり得ないもの。入替え可能なものたちの、入替え可能ぶりを評価する拠点となる、入替え不能なもの。それらがあり得ないという意識が、敏感な人間に共有され始める時代に「風景映画」が登場した。
■共有され「始める」時代だからこそ、“「外」を信奉できた時代を引き摺った「外」への鮮烈な願望”と“願望実現の構造的不可能性への認識”が同時に存在でき、痛切なドラマを生んだ。近代過渡期から近代成熟期への端境期に当たる69年とはそういう時代だった。
■それから35年。“外への鮮烈な願望”と“不可能性の認識”の同居はもはやあり得ない。“認識”だけ残って“願望”は風化した。即ち我々は「問題」に既に適応した。かくして、「外の不在」故に評価の拠点を失った〈社会〉を、何故生きるかとの「疑問」だけが残った。
■「引きこもり」から「脱社会化」まで含めて、この「疑問」は先鋭化しつつある。まさにそうした意味論を体現した映画が、カンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞した。是枝裕和監督『誰も知らない』(03)だ。巷では事実上「作品」に与えられた賞だと噂されている。
■88年の西巣鴨子供4人置き去り事件が素材だと聞いた観客は、可愛相な子供たちへの同情と無責任な親への憤激を期待しよう。だが現実に描かれているのは束の間に現出した「子供たちのパラダイス」。年長者ほどかつてあり得た子供時代を想起して感慨に耽るだろう。
■この映画の凄さは、第一に、そのことで与えられる娯楽性の凄さであると同時に、第二に、そうであればあるほど刺激される深い反省的思考の凄さでもある。娯楽性と反省的思考の両立、あるいは感情的フックと寓話的メッセージ性の両立において、奇跡的な作品だ。
■どんな反省的思考か。映画に描かれた「子供の領分」は昔は当たり前に存在した。今は許されない。何故か。そこを掘り下げると「システムへの登録」が見えて来る。映画では戸籍と福祉システムに象徴されるが、現在の我々は大人も子供もシステム登録されている。
■即ち大人も子供も例外なくシステムの支援を得て生きるのが現代社会だ。我々はいつも意識せずにシステムの「下駄を履く」。映画は、システム登録による支援が断ち切られて初めて出現した、子供たちと感受性と能力だけを頼る「子供の領分」を、存分に描き出す。
■近代化が進むと、人の能力が解決してきた問題をシステムが解決してくれるようになる。例えば自ら天気を予測せずに天気予報を聴くようになる。むしろ人の能力は敏感すぎない方がいい。定型内に人が収まってくれた方が、システムによる処理可能性が高まるからだ。
■かくして昔なら許容されていた感覚の拡張がむしろ抑圧されるようになる。近代がドラッグを禁止するのもそのためだ。かくして人はシステムにとって都合のいい存在に縮小する。人がそれを受け入れたのはシステムが与える豊かさが魅力的だったからだ。今ではどうか。
■いったん豊かになれば今度は、近代化によって抑圧された感覚を取り戻したいと思う者が出てくる。システムへの適応によって失われたオルタナティブな感覚や思考を取り戻したい。サーフィンやニューエイジサイエンスや武士道がブームになる背景が、そこにある。
■だが豊かな近代社会だからこそサーフィンを楽しめる。ブームが象徴するのは「システムの外もまたシステム」のアイロニー。馬鹿なニューエイジ主義者の如き素朴な反近代は願い下げだ。しかし、この認識を徹底すればするほど、先に述べた「疑問」が先鋭化する。
■今日の社会システムはシステムの下駄を履かずに生きる余地を──古典的な生活世界の存在を──完全に消去した。だからこそ『誰も知らない』の子供たちは「子供の領分」成立の一年後、次女の死という悲劇的結末を迎える。我々はそういう〈社会〉を生きている。
■そういう〈社会〉を生きることに、どんな意味があるか。即ち「入替え不能な我々のために、入替え可能なシステムがある」というより「入替え不能なシステムのために、入替え可能な我々がある」と感じられる〈社会〉を生きなければならない理由が、あり得るか。

『電通と原発報道』(亜紀書房)の著者本間龍さんとトークしました

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広告圧力の問題に切り込んだ『電通と原発報道』(亜紀書房)の著者で元博報堂営業部に勤務していた著述家の本間龍さんとトークしました。例によって宮台発言の一部を抜粋します。この本は当然ながらマスメディアではまったく紹介されていませんが、1万5000部以上売れています。



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宮台◇ こうした本の内容を伝えないことで、かえってマスメディアの権威が失墜します。原発推進勢力が情報を隠蔽することで、原発行政への信頼を失墜させ、かえって原発推進を困難にすることに似ています。

宮台◇ マスメディアを通じて日本国民は、日本にしかないデタラメな神話を信じ込まされました。「絶対安全」神話であり、「全量再処理」神話ないし「いつかは回る核燃料サイクル」神話、「原発は安い」神話などです。これらはパーフェクトなデタラメであることがバレました。

宮台◇ 僕たちが新聞報道やそれをベースにしたテレビ報道以外に時事ネタに接するチャンスがなかった時代には、重大な問題が「全く扱われなかった」「一面で扱われなかった」ということを知るすべがありませんでした。ところが、現在はインターネットメディアを通じて、それを知り得るようになりました。
 3.11以降は特にそうです。例えば、マル激などのインターネットメディアは炉心溶融の可能性を3.11直後から指摘していたのに、マスメディアがそのことを報じるようになったのは3週間近く経ってから。それも一部のマスメディアだけでした。
 新聞社は、東電のような大スポンサーの不祥事を一面に載せたら、事業として立ち行かなくなり得ますが、だからと言って、恣意的に扱いを小さくした事実が露見すれば、新聞としての信用が失墜し、購読者が逃げて墓穴を掘ります。現に墓穴を掘っていて、僕などは時間の無駄なので新聞を読みません。日本の原発行政がかえって原発推進を難しくしているのと同じ逆説です。その意味で経営判断は以前より難しい。そのことに経営陣がどれだけ気付いているかです。

宮台◇ 電通恐怖は、グローバル化や南北問題で本質である「附従契約」に似ます。僕たちが僻地に住んで交通手段がJRに限られるとします。そこでJRが運賃を10倍にすると通告してきます。抗議をすると、JRは「自由契約なんだから乗らなくてもいいんですよ」と言う。これは自由意思に基づく契約に見えて、実はJRが優越的地位を笠に着た(=優越的地位に附従した)契約です。だから法実務上は自由契約とは認められません。
 抽象的には、一方には選択肢がなく、他方には豊かな選択肢がある、という非対称性が問題です。南北問題で言うと、モノカルチャー(単一換金作物)化した貧困国には選択肢がなく、作物を買い上げる独占的ブローカーにはどこからでも買えるという豊かな選択肢があります。同じく日本のテレビ局には選択肢がなく、電通には豊かな選択肢があります。イギリスと日本の違いは、イギリスのテレビは「メルセデスがダメならワーゲンやBMWの広告」という具合に選択肢を持つのに、日本のテレビ局は「電通がすべてを引き上げるかもしれない」という具合に、電通に従属する以外の選択肢がないと感じる点です。


宮台◇ 単なる「お願い」でも、ヤクザが恐喝罪に問われないように「そう言えばあなたには小さなお子さんがいらっしゃいましたね」と言うのと同じ機能を果たします(笑)。

宮台◇ 電通はPA(パブリックアクセプタンス)の言葉を“洗脳方策”という意味で使っています。

宮台◇ 普段が思考停止なので「自明性が崩れる」という恐怖に襲われるように条件づけられています。特に「日本の電力の3分の1は原発で賄われている、それが失われれば日本は立ち行かない」という洗脳の呪縛はすごい。実際は54機が全機稼働しないと3分の1にならないから、真っ赤なウソなのですがね。

宮台◇ 以前、京都大学原子炉実験所の山名元さんをお呼びしたときに申し上げたように、原子力を持続可能にしたいのなら、どのみちバレるに決まっているデタラメな神話を喧伝することで結局は原子力行政に必要不可欠な信頼性を貶めてしまう愚策を回避すべきです。リスクマネジメントの基本である「マクシミン戦略」つまり「最悪事態の最小化」を心がけるなら、日本にしか通用しない馬鹿げた神話の流布をやめるのが賢明です。そのことは先進国の共通了解ですが、なぜ日本の広告会社はその判断ができないのですか。

宮台◇ マスメディアに多大な影響力を持ちながら、クライアントに言われたことはウソでも何でもホイホイやる。そうした軽薄さにペナルティを与える主体がどこにも存在しないことが問題ですね。
 でも手の施しようがないとは思いません。3.11以降、1ヵ月ほどは「空気の支配」に基づく厳しい「報道管制」がありました。ところが、炉心溶融の隠蔽や御用学者らによる安全合唱を続けた結果、結局は真実だったインターネット情報との間にギャップが拡がります。1ヶ月経ってそのことにマスメディアが敏感になり、大きなトピックは拾うようになりました。僕は誰がどんなに嫌がろうともラジオ番組で東電のデタラメを言い続けてきましたが、結局はそのことで僕もラジオ番組を信頼を獲得しました。
 この1年半、マスメディアとインターネットのギャップが拡大した結果、マスメディアの側がキャッチアップしようとして中身を変えてきました。ラジオ局の番組審議会で繰り返し述べてきたように、マスメディアが凋落傾向でインターネットが上昇傾向にあるため、マスメディアは、インターネットと戦うのでなく、マスメディアを利用することでインターネットの享受可能性が高まる方策を模索しないと、生き残れません。数年前から申し上げてきたそうした考えが、経営判断として採用されはじめたところに、希望が持てます。

宮台◇ マスメディアはもっと凋落するので、ビジネスモデルが立ちゆかず、どのみち吠え面をかくでしょう。まあ、待っていれば大丈夫ですよ(笑)。

「私はこうして冤罪をつくりました」という帯のかかった『検事失格』を書かれた市川寛さんと議論しました

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 皆さんは「私はこうして冤罪をつくりました」という帯のかかった『検事失格』(毎日新聞社)を本屋で御覧になりませんでしたか。この本を書かれた市川寛さんは、01年の「佐賀市農協背任事件」において主任検事として不当な取り調べを行ったことを法廷で証言されました。市川さんをマル激にお呼びして、検事が犯罪をデッチあげる本当の理由を議論しました。
 例によって、宮台の発言の一部を抜粋します。

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宮台: [略]⋯一度事件を見立ててしまえば、その見立て通りに調書を作れるのだという意識が、特捜や検察の側にあります。とすれば、どんな理由で何をどう見立てるのかが知りたいのです。佐賀市農協背任事件の場合は、地方議員までつながる案件として見立てたわけですが、その動機付けはどこから生まれるのでしょうか? 市川さんは「金星」とおっしゃっいましたが、出世動機なのでしょうか。

宮台: かつて最高検察庁検事だった堀田力さんが、東京地検特捜部時代に担当したロッキード事件の後、優秀な検事志望者がすごく増えたとおっしゃっておられました。(1)「政治家の不正を暴く検察は素晴らしい」という世間の期待を背負い、(2)それゆえに世間の期待をかなえることが組織の手柄になり、(3)手柄を立てれば出世ルートに乗ることができる、という構造が、暴走の根っこにあるわけですね。

宮台: 市川さんが言いにくいであろう推測を僕から言いましょう。次席検事は、市川さんに証拠を見せれば無理筋だと判断するとわかっていた。そうすれば自分の出世の機会が失われてしまうから、証拠の分析からあえて市川さんを外した上で、証拠の分析をしていない市川さんを責任者に仕立て、冤罪覚悟で突っ走ろうとしていたんじゃありませんか。

宮台: 検察官が冤罪に手を染める心理について、これほどリアリティのある話を聞くのは初めてです。検察官の心理については、せいぜい「功名心に駆られた人間が不当なことをやる」という紋切型イメージを抱くのが関の山。でも市川さんの場合はそうではなかった。上司がそうした人間でも、市川さんはそういう上司に使われていただけなわけです。
 企業の中間管理職のようなものなのでしょうか⋯。上司には逆らえず、それゆえに、下に対してつらく当たりたくないと思いつつも当たらざるを得ない。僕はこういうリアリティが、不覚にも検察官にもあることを想像していなかったので、驚きました。
 冤罪が発覚すると、僕らは検察官を悪代官みたいなものだと捉え、「立身出世という自己利益のためなら何でもするのか」と思ってしまいがちですが、市川さんのお話から、それほど単純な心理ではないということがわかります
 似た話はキャリア官僚一般に拡げられます。昨今では原発行政をめぐる経産省とりわけエネ庁の出鱈目が話題ですが、次官レースを争うがゆえに「絶対安全神話」「全量再処理神話」「原発安価神話」を嘘と知りつつ噴きまくるのだ、という具合に考えられがちです。
 僕にもキャリア官僚の友人が何人かいますが、少し違うように思います。キーワードは「承認」です。天下りの座席を増やせば上司や仲間から「よくやった」と承認され、そうした営みを否定すれば承認から見放される。そこに動機づけのポイントがあるのですね。
 「承認」は様々な今日的問題を理解するための共通のキーワードです。たとえば米国の法学者キャス・サンスティーンによれば、民主的決定が皆で決めるがゆえに暴走しがちです。こうした「集団的極端化」が起こる理由は実証データから見ると2つあると言います。
 第一は、承認を求めて右往左往するコミュニケーション。米国政治学の思考伝統では「承認を求めて右往左往」と言えば、「中間集団に包摂されない剥き出しの個人は暴走する」というリースマンやラザースフェルトに代表されるトックビル主義の命題が含意されます。
 第二は、不完全情報です。不完全情報のもとでは、極端なことを言う人が、潔く、ピュアで、堂々と見えます。それゆえ、不完全情報下では、承認追求的なヘタレが「断固!決然!」的に噴き上がり、「集団的極端化」に向かうのだ、とサンスティーンは言います。
 共同体の空洞化ゆえに誰もが寂しい時代には、寂しさを埋め合わせる承認を欲しがるがゆえに、集団外を配慮せずに集団内規範に従ったり、周囲から堂々と見えるというだけで出鱈目な「断固!決然!」に淫します。承認追求的ヘタレぶりは、官僚も庶民も同じです

宮台: [略]⋯検察庁は、倫理的な志を高く持った検察官を選りすぐって登用する仕組みになっていないのでしょう。でも、そうした人材を登用できたとしても、それだけでは難しい。そのことを市川さんの例が示しています。
 以前、ノーパンしゃぶしゃぶ事件で大蔵省の役人が捕まったとき、そのなかに丸山眞男の教え子がいました。学生時代の彼は、極めて倫理感の高い人だったと聞いていますが、組織内環境に適応するうちに変わってしまったのではないでしょうか。
 市川さんは高い倫理観をお持ちでいらっしゃいますが、検察庁の組織内環境に飲み込まれそうになって、ギリギリのところで帰還された。如何に倫理観が高くても、声をあげて自分だけが切られるような状況だと、心が折れるのが人の常かもしれません。

宮台: これ[部分可視化]では検察が作った任意のシナリオを補完するような映像だけが編集される可能性があります。また日本は起訴便宜主義で、検察が処罰の必要がないと認めたものは起訴猶予にすることがあります。
 検察が巨大な権限を与えられているとも言えますが、検察の起訴決定が事実上は裁判所の判決と同じ機能を果たしてきた状況での日本の裁判所の能力を考えると、検察が起訴すべき案件の取捨選択を厳密に行わなければ、裁判所のキャパシティを超えてしまいます。
 ことほどさように、検察だけを変えればいいという話ではなく、警察の取り調べから裁判所のあり方まで含めた司法全体の設計を変えなければ、別のところにシワが寄るだけで、解決にならないどころか、もっとひどいことになるかもしれません。

宮台: (1)裁判では極めて精密なストーリーが要求され、(2)精密なストーリーを作るには自白が必要不可欠で、(3)必要な自白を引き出すために長い勾留期間が必要になっている、ということですね。
 こうした精密司法を念頭に置くと、度々話題になる検察や裁判所の「証拠不開示」の意味も分かります。「微に入り細に入り」のストーリーになるほど、ストーリー造りのために主観が入るリスクが高く、ストーリーに合致しない証拠が山ほど出てきてしまうのです。
 今後は「反対証拠と反対尋問をベースにして検察官(のストーリー)を裁く」という近代裁判の原則に従って、法廷で事実を明らかにする形にしなければなりません。当然ながら99.9パーセントの有罪率など維持できるはずもありませんが、それでいいのです。

宮台: 『検事失格』という本の「失格」という言葉が象徴しますが、ダメな人ほど上に行き、上に行くほどダメになる。つまり、検察組織内で「合格」することが、本来的な意味で「失格」を意味するような構造を温存して、個人の良心にだけ期待するのは酷な話です。
 今回は有意義な議論ができました。マル激ではこれまでも「抽象的に個人を責めても仕方がなく、組織文化を変えるべく、組織構造を変えねばならない」という話をしてきましたが、その僕ら自身にもよく分かっていなかった構造的問題が、よく分かりました。
 結局は司法全体を構造改革しなければいけませんが、全体を同時に変えるのは無理です。どこから手をつければいいのか考えなければなりません。そのためにも、まず、マスメディアが国民に、(1)近代法の理念と、(2)司法の現在の、両方を説明しなければなりません。
 ところが、今度は日本のマスメディアにそうした能力が存在しないことが問題になります
。日本のマスメディアが「第四の権力」としての牽制機能を発揮できないので、打ち上げ花火のように全ての騒動が一過性で終わってしまうのです。これもまた困った問題です。

年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2012年版が『週刊読書人』に掲載されます。中心的主題は民主制。

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皆さんお待ちかね、年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台真司」鼎談2012年版が『週刊読書人』に間もなく掲載されます。例によって宮台発言の一部をピックアップしておきます。今回は民主制の危機が中心的な主題でした。

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【宮台】『熟議が壊れるとき』は重要です。サンスティーンは「集団的極端化」を論じます。みんなで決めることでかえって極端な議論になること。ネトウヨ化現象やアメリカのティーパーティ運動を含めた共和党化現象が好例です。彼は集合的極端化が起こるのは二つの条件が重なるからだとします。第一は承認を求めるコミュニケーション。ミドルクラスの空洞化で人々が絶えず承認を求めて右往左往する状況です。
 1950年代に『孤独な群衆』を著したデヴィット・リースマンが共同体空洞化で剥き出しになった個人を描いたのを想起させます。同時期のジョセフ・クラッパーは「限定効果説」で、ポール・ラザースフェルトは「二段の流れ説」で、マスコミ情報が個人を直撃するかわりに対人ネットワークや小集団を緩衝装置としてきた事実を実証します。サンスティーンはこの伝統の上にあります。
 第二の条件は不完全情報。情報が不完全な領域では過激なことを言う人ほど堂々として潔く見えます。これら二つの条件が重なると、情報が不完全な領域で、共同体空洞化を背景に、不安で鬱屈した人々が、承認を求めて過激なことを言い募り、これに同調しないとヘタレに見えるので周囲の人々が同調します。
 集団的極端化を避ける処方箋ですが、共同体空洞化やミドルクラスの分解を手当てするのは困難です。そこで熟議型世論調査の提案で知られるフィッシュキンの言う、熟議を通じた完全情報化を提案します。熟議を通じた完全情報化によって、過激な物言いによるヘタレのポジション取りの可能性をつぶすわけです。
 熟議は単なる長時間討議ではない。アクセル・ホネットの言葉で言えば「地平を切り開く討議」。つまり事実認識や価値評価のフレーム自体が変わるような討議です。フィッシュキンは、そのために一定の仕掛けが必要だと言います。有能なファシリテーターを設定し、複数の論点毎に立場の違う専門家らに対論させること。これに耳を傾けた上で最後は専門家を排して住民同士が話し合い、票を投じる(世論調査に答える)。昨今の医療におけるインフォームドコンセントとセカンドオピニオンの結びつきに似ています。
 この場合、第一に、学会の多数少数に囚われてはいけない。権益が関連するからです。実際、日本の原子力関連学会では資金権益を背景に原発推進派が圧倒的主流です。第二に、誰をファシリテーターにするか、誰を専門家として呼ぶかを官僚に任せてはいけない。日本の審議会では官僚が専門家を人選した段階でシナリオが決まります。中立性を信頼された人や機関が必要になります。
 サンスティーンが注目していますが、フィッシュキンの実証研究によれば、同性婚についてであれ犯罪重罰化についてであれ、主題に関係なく、熟議を経た世論調査ないし投票では、熟議を経ない世論調査や投票と比べて必ずリベラル方向にシフトします。過激な物言いでのヘタレのポジション取りを塞ぐからです。
 彼らの議論は、苅部さんがご専門の丸山眞男が仮説的に述べたことです。民主制が健全に機能するには、個人の自立が必要で、個人が自立するには、共同体の自立が必要だと。丸山はイギリスのヨーマン層を参照しますが、一般にトックヴィル主義と呼ばれる枠組です。丸山は、日本では共同体が国家に依存するが故に、個人の自立が妨げられ、民主制が全体主義的に機能するのだとします。依存的共同体から生み出された依存的個人が、抑鬱感情を抱きかつ知識社会から排除されていると、軍事や外交などで「やっちまえ!」と噴き上がる。丸山はそうした日本をとりわけアングロサクソン社会より後進的だと考えていました。
 でも、グローバル化を背景にミドルクラスが分解すると、共同体空洞化が進み、依存的共同体から生み出された依存的個人が、ポピュリズムに動員されやすくなります。今や先進国に共通の現象です。これらは、一方で承認を求めて「やっちまえ!」的な<釣られ層>になり、他方で何かというと周囲に敵を見出す<クレージークレーマー層>になって、民主制はダメになります。[グローバル化⇒ミドルクラス分解⇒共同体空洞化⇒剥き出しの個人⇒承認と敵を求めて右往左往⇒民主制の機能不全化]。『熟議が壊れるとき』の議論はそうした含意です。要は、民主制が健全に機能するには前提が必要で、昨今の前提の脆弱化ゆえに熟議による完全情報化と分断克服が必要だと言うのです。

【宮台】渡辺さんが最初におっしゃったことに関連して、昨今の先進各国には政策的パッケージ化現象が生じます。一方に[外交は強硬派、内政は自助重視、意志決定はトップダウン、効率志向]というパッケージがあり、他方に[外交はリベラル、内政では共助公助重視、意志決定は熟議、多様性志向]というパッケージがあります。先進各国を覆うポピュリスティックな立場は前者のパッケージ。グローバル化で格差化と貧困化が進むと分厚くなります。これは不完全情報状態を放置した決定になりがちで、いずれは国益を損なう。だから後者のパッケージを有力化する為の工夫が必要で、そのための制度的工夫が熟議を通じた完全情報化と分断克服だというのがフィッシュキン&サンスティーンです。
 原発についてもTPPについてもこうしたパッケージを理解した上で考えないといけません。個人的なことを申し上げると、僕は原発賛成から反対に変わり、TPP賛成から反対に変わりました。不完全情報の状態から脱したことが理由です。原発については三年前にデンマークにCOP15の取材に出かけた頃までは、欧米のディープエコロジストの大勢に倣って原発賛成でした。蓄電池技術とスマートグリッド技術が高度化するまでは再生可能エネルギーの不安定さを克服するための二酸化炭素を出さない安定した電源として、原子力が必要だと。ところが各国と違って日本だけが「絶対安全神話」「全量再処理神話」「原発安価神話」の<フィクションの繭>の中にいることが分かった。これでは「なんとかに刃物」「ブレーキのない車」です。日本は「技術の社会的制御」ができない原発禁治産国です。
 TPPも同じ。日本の農政だけが価格支持政策を採用し、所得支持政策を採用していない。所得支持政策だけが大規模効率化に繋がるのに。これを妨げているのがJA(農協)。農協の最重要事業である農林中金は零細農家に農機具を貸し付けて儲けます。だから大規模化で10ヘクタールに1台のトラクターになるより、1ヘクタールに1台のトラクターのままの方が良い。僕はずっとこうした不合理を批判してきましたが、一向に変わらない。ならばアメリカの力を借りた方が良いのではないかと思ったわけですが、ふと思い出した。
 80年代後半に農産物自由化交渉がなされ、続く日米構造障壁協議で年次改革要望書スキームができあがった。かくして農産物輸入自由化、大規模店舗規制法緩和、文部省トロン配布中止、430兆円公共事業と米国企業参入が決まり、その後も、建築基準法緩和と米国輸入木材建築解禁、郵政民営化と米国金融機関参入、司法近代化と参審制などが続きます。当初アメリカが使ったのは日本の消費者利益のためという理屈。「これだけ手帳」の竹村健一が繰り返しテレビに出てアメリカは消費者の味方だと喧伝します。常識的に考えてアメリカが日本の消費者利益を考えるはずもなく、上下両院合計3万人のロビイストを背景にした市場拡大と雇用拡大を狙っただけ。流通合理化は既得権を移動させるので日本自力ではできない。その弱みを突いてきた。アメリカは国益増大のために当然の戦略を採っただけです。
 TPPも同じ図式なんですよ。日本の農業は都市住民向けの野菜や果物では効率化を遂げましたが、それでも稲作を中心に巨大な非効率が価格支持政策を支えとして残り、それを集票装置としてのJA=農協が支える。かつてWTOの農水側の交渉役だった山下一仁氏らがこれを批判し、僕もマル激や講演でこうした批判を応援してきた。なのに民主党に政権交代しても農業構造改革を完遂できない。ならばアメリカの力を借りよう。僕もそう考えたのですが、そこで何かに似ていると思い出した。重要なのは、日本が自力で既得権益移動を伴う産業構造改革が出来たなら、30年前も今回も「アメリカの助けを借りずに=アメリカに弱みを突かれずに」済んだこと。繰り返すと、これは陰謀でも何でもない。日本が自力で合理的な全体改革ができないことを、かなり以前からアメリカが戦略的に利用しようと考えただけ。それに気付かない日本がダメなのです。
 昨今はウィキリークスでTPPの秘密交渉の一部が漏れたのもあり、アメリカの狙いが年間11兆円を超える著作権収入にあることが分かってきた。農産物で獲得できる外貨よりもずっと多い。著作権法制の厳格化――具体的には刑事罰化と非親告罪化――によってコミケのような二次利用市場を完全に潰し、著作権収入で唯一「出超」を誇るアメリカの輸出収入を激増させることを狙う。直前に話題になったACTA(反偽造通商協定)とワンセット。アメリカの狙いに気付いた欧州議会は9割以上の圧倒的多数でACTA批准を否決したけど、日本の国会を何の議論もなく通りました。農業要求は噛ませ犬で「農業分野で譲るから著作権分野で譲れ」と来るだろうと思います。

【宮台】尖閣問題は「前原問題」です。主権争いは意志貫徹の鍔迫り合いだから戦争だけが解決策です。戦争回避には主権棚上げ以外ない。実際、一九七二年の日中共同声明、鄧小平声明、日中漁業協定と、三段階を通じて確認されたのは、(1)主権は棚上げ、(2)施政権は日本、(3)将来的な共同開発。日本に圧倒的に有利な枠組で、これを一方的に破棄したのが当時の前原国交大臣。利を得たのは中国海軍などの強硬派です。彼らによれば、電撃的に占領してしまえば良い。安保条約上アメリカが「義務」を追うのは日本の実効支配の範囲に限定されるし(中国が占領すれば中国の実効支配)、第五条を読むとアメリカは実は「義務」さえ負ってないし、アメリカは尖閣を日本の領土とすら認めていない、という話です。
 昨年『日本の国境問題』(筑摩書房)を出した孫崎享さんが今年は『不愉快な現実―中国の大国化、米国の戦略転換』(講談社)と『戦後史の正体1945-2012』(創元社)を出されたけど、彼も指摘する通り、竹島問題はその帰属をアメリカが決めると定めた「ポツダム宣言問題」だし、北方領土問題は日本に南千島(国後と択捉)を含む千島を放棄させた「サンフランシスコ講話条約問題」です。(1)畢竟日米問題であるものを、アメリカに何も言わずに周辺国に吠えたところでどうにもならないし、(2)外交概念として無意味な「固有の領土」云々より、直前までの条約や協定の積み重ねに専ら意味がある。それが外交です。

【宮台】パブリック・ディプロマシーは「民意の要求に応じた外交」でなく「民意を取り道具として使う外交」です。政府は自国民の強硬世論に縛られるし、強硬世論を宥めれば相手国政府に恩を売れる。政府が相手国民の強硬世論の火をつければ相手国政府はそれに縛られるし、相手国民の世論を宥和すれば相手国政府のフリーハンドを増やせる。パブリック・ディプロマシーの適切化には政府と自国民との距離が大切です。尖閣問題での中国政府からのメッセージ発信は外務補佐官止り。人民日報が強硬論で覆われても胡錦濤国家主席や温家宝首相が上書き出来る体制を維持しました。日本は外相や首相まで「断固!決然!」大合唱で「弱い犬ほどよく吠える」状態でした。
 後期近代社会では、企業は消費者のニーズに応えるだけではジリ貧化を免れず、国家は国民の世論に応えるだけではジリ貧化を免れません。アメリカは、北朝鮮から朝鮮戦争戦没兵士の骨を返して貰った際、日本での横田めぐみさんの一件と同様に骨が偽物だと気付きましたが、国民に伏せた上で「黙って置くから、本物を返したら、援助をする」と取引きし、本物の骨を取り返したテーブルの上でのゲームとは別に、テーブルの下でサインを送り合うのが外交です。この基本が出来て初めてパブリック・ディプロマシーを最適化できます。

【宮台】国会前デモはピーク時20万人が現在は2千人。だからデモは無効との議論もある。でも内閣官房の役人に聞くと官邸内や国会議員には大きな影響を与えました。当初は、総合資源エネルギー調査会基本問題委員会が答申した四選択肢のうち、原発15%が新エネルギー政策に盛られる見込みだったのが、9月14日のエネルギー環境会議で「2030年代に原発ゼロを可能とする」との新戦略が設定された背景には(3日後に「参考にしながら進める」と格下げ扱いになったものの)デモが作り出した圧倒的空気があったそうです。
 でも自画自賛でなく、デモの機能をもっと高める工夫や、どのみち鎮静化するデモを引き継ぐ戦略の、検討が必要です。その点、僕も脱原発の趣旨では足りないと思う。欧州では「スローフード」が有機野菜などの食材選択より「食の共同体自治」の問題であるように、「脱原発」も電源選択より「エネルギーの共同体自治」の問題です。要は原発は共同体自治を中核とする民主主義に相応しくないのです。ドイツ「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の議論はこうです。原発は「規定不能なリスク」を抱えるから、それを引き受ける決定は「後は野となれ山となれ」と決定したのと同じで非倫理的だ。共同体が他に類を及ぼさない限りで「未規定なリスク」を引き受けることはあり得るが、原発災害は範囲もまた規定不能だと。委員会に参加した神学者の文章でも鍵概念は「後は野となれ山となれ」。単なる科学的合理性を超えた、どんな社会を作るべきかという「価値の話」になっています。他方の日本のデモは脱原発を掲げた後「価値の話」に繋がらない。選挙の争点にもならない。

【宮台】ニコ生での彼との対談を見れば[坂口恭平さんの]魅力が分かります。ひと言でカブキ者。頭が良くて合理的計算ができるが、それだけじゃ越えられない壁があることを弁えてトリックスターとして振る舞う。僕は初期ギリシアに賞揚されたミメーシス(模倣的感染)をよく持ち出しますが、彼は感染の大切さを知った上で感染を惹起できる稀有な人物。社会には感染なくして超えられないボーダーがあります。社会学者ウェーバーが社会の始源にカリスマ的支配を置き、デュルケムが集合的沸騰を置くのも同じ問題です。
 平たく言えば、祭りのフュージョンがあれば抜本的に新しいフレームにシフトできる。いわば一宿一飯。坂口君は知っている。ホームレスのことを思いやれと言われても言葉以上のことは簡単にできない。ボーダーが想像力の働きを妨げるからです。でもボーダーがフューズする非合理=非日常の時間空間を共有すると想像力が拡張し、かかる出来事があったという事実性が後のコミュニケーションに前提を与える。合理に還元できないこうした事実性は、シャンタル・ムフなどラディカル・デモクラシー論者も注目するところです。
 祝祭的フュージョンは、学園闘争を踏まえて七〇年代以降に展開する「新しい社会運動」論的にも大切です。生産点での階級闘争運動から、消費点での女性運動・共同購入運動・反原発運動・貧困撲滅運動へ。当事者の異議申し立てから、非当事者の祝祭的巻き込みへ。いわば「楽しいから参加すること」の肯定へ。それがとりわけ重要になったのは八〇年代。アングロサクソン社会の過剰市場化による中間層分解と郊外空洞化を背景に、同時期、アメリカのサウンブロンクスでヒップホップが、イギリスでレイブ(セカンド・サマー・オブ・ラブ)が、ドイツでスクワッティングが拡がる。これは「新しい社会運動」の本質である<我有化>運動です。街を我々のものに取り戻す。<我有化>には祝祭が必要です。
 これは反差別など公民権運動とは異質です。むしろ公民権運動の成果で、黒人の一部が白人化した結果、黒人内部に分断線が走る。沖縄が本土並み化した結果、沖縄内部に分断線が走る。地方参政権化した結果、在日コリアン内部に分断が走る。部落差別を知らない人が増えた結果、被差別民内部に分断線が走る<共同体空洞化による我々の忘却>に加えてこうした<平準化による我々の忘却>に抗う。それが<我有化>、つまり我々を、自分達を、取り戻す運動です。坂口君の営みは一般ピープルによる稀有な<我有化>運動だと思います。

【宮台】同感。朝日新聞に萱野稔人君を持ち上げる記事が出ました(逆風満風 11.3)。僕の発言が記事の最後に載っています。記者から「あえてアドバイスしたいことは?」と問われて、僕が『朝まで生テレビ』に毎回出演していた時代を思い出しつつ、マスコミに使われるなと言いました。マスコミに出るなら、マスコミを使って社会を革命するという心意気が大切です。そこではやはり感染がポイント。感染は、語りの内容的妥当性に還元できません。規定不能な要因によって感染可能性が生じます。感染力の減衰を感じたら直ちに撤退し、俗情に媚びることによる延命を回避せよ。それが僕からのメッセージです
 もっとも最近は語りの内容的妥当性にも問題があります。それぞれのイシューについてもっと深い議論ができる人が多数思いつくのに、若手というだけでマスコミに呼ばれる。背景にはマスメディアがインターネットユーザーに媚びることで延命しようという浅ましい戦略があります。「若手論者はマスコミに媚びず、マスコミを操れ」に擬えれば「マスコミはネットに媚びず、ネットを操れ」ですが、マスコミにはその能力がありません。そうした末期症状のマスコミ的俗情に媚びると、見えるはずのものが全く見えなくなります。僕は長年、自分が企画段階から関われない限りテレビに出演しないことを決めています。マスコミ的人選の出鱈目や、既に決まった愚昧な構成台本へのハメコミは笑止です。

【宮台】著者[『高校紛争』の著者・小林哲夫さん]は編集職の社会人で僕の私塾に在籍しますが、重要な本です。デモに関連して「新しい社会運動」に触れましたが、僕なりに言えば「新しい社会運動」の本質はフュージョンを通じた<我有化>です。<我有化>とは分断線を乗り越えて<我々>に包摂していくこと。ただし新しい分断線を引いて終わり、でなく、<我々>を拡張していく。社会にはいろんな問題があります。当事者は別にして非当事者にとって、なぜ他の問題たちではなくその問題が一番大切なのかと問われて、クリアな答えは難しい。差別をとっても、男女差別、民族差別、学歴差別、非正規雇用差別などいろいろあるからです。
 分断線を乗り越えて<我々>を拡張する。そうした<我有化>としての「新しい社会運動」の出発点が学園闘争です。僕が麻布学園で直接体験した中学高校紛争も<我有化>でした。思想やイデオロギーは口実だった。「結局お祭りをしたかっただけだろう?」と言われ、そのことを長らく否定的に捉えていたけど、今は逆。思想やイデオロギーが口実に過ぎない<我有化>の運動だからこそ、高校紛争を再評価すべきなのです。僕自身、今は<我有化>を<共同体自治>とパラフレーズしつつ住民投票運動を実践しています。これは投票に先立つワークショップや公開討論会などに力点を置いた熟議の運動で、目的は、<参加>による<フィクションの繭破り>と、<包摂>による<分断線の克服>です

【宮台】七〇年前後までは論壇が存在しました。大御所が誰なのか共通了解があり、アカデミズムの重鎮が語りました。その人が喋れば反対の人も賛成の人もそれを踏まえて議論した。人だけじゃない。思想についても、賛否の別はあれ誰もがマルクス主義を踏まえて議論した。トピックについても、賛否の別はあれ誰もがベトナム戦争を踏まえて議論した。社会学者のニクラス・ルーマンはそれを「対立は統合の証」と言います。統合とは共通前提の存在です。共通前提が希薄になった現在は、内輪での議論に終わるか、広い全体に届けるための共通前提構築に膨大なコストをかけるかになっています。いずれにせよ社会成員全体を拘束する決定に向けた動員に経済学で言う高い取引コストがかかるのです。
 僕らのように社会科学系アカデミズムにいれば、先進国が共通に[グローバル化⇒格差化&貧困化⇒不安&鬱屈⇒承認&カタルシス追求⇒ポピュリズム的極端化⇒民主制機能不全]という否定的状況を抱えるのは自明で、フィッシュキンやサンスティーンの名を出すまでもなく、対処を迫られる切実な問題を久々に共有している感覚があります。ところがお二方がおっしゃるように「この人が知識人だ」という共通前提がとうに失われて分断があるため、社会全体でいえばフィッシュキンもサンスティーンも殆どの人が名を知らない。丸山の「ササラ型」という類型化を思い出すけど、分断された知的プラットフォームをITを味方につけながら再構築するしかないように思います。この鼎談もその努力ですね。

【宮台】将来不安ゆえに、本当は実利にも繋がらないのに、実利的に見えるものに向かいます。資格取得とか実践語学とかが分厚い大学に行くように、教員や親も勧める。こうした親や教員や子供のニーズに応じていては駄目です。そこで踏まえたいのが昨年触れたアップル故スティーブ・ジョブズ。「Think Different」のスローガンの意訳は「みんなは間違ってる」。ジョブズはニーズに応じることを愚昧だとし、スペック競争をせずに機能をそぎ落とした。さもないと俗情に媚びたニーズ適応競争に巻き込まれる。だからニーズの逆を行くのです。
 同じことが大学にも言えます。大学の役割はもともと社会を担う枢要なエリートたる資質を身につけさせること。畢竟、成長してもらう為の場所。トラブル、困難、ノイズ、不合理、不条理⋯。そうしたものに出会い、乗り越えて成長した者以外は、エリートの名に値しない。ところが、人は普通トラブルも不条理も要求(need)しません。だから人々のニーズにマッチした環境では成長はあり得ない。その意味で、分かりやすい講義を求める学生らのニーズに応えるのも程々にした方が良いのです。
 35年前の学部生時代に僕は橋爪大三郎さんが立ち上げた社会学の研究会(言語研究会)に出たところ、一割も理解できませんでした。橋爪さんに相談したら、半年すれば慣れるから大丈夫ですと。そうなった(笑)。僕は今の学生たちに同じことを言います。分かることだけを学べば成長は遅い。分からないことを必死で分かろうとするからグングン成長する。騙されたと思って半年我慢しろ。面白いように分かるようになる。僕がニーズに応じて分かりやすい授業をしたら到達点は数分の一だと。何事においてもニーズに応じていたら縮小再生産です

コミュニティスペース&駆け込み寺「Liver邸」に寄せたメッセージ

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コミュニティスペース&駆け込み寺「Liver邸」に寄せたメッセージ

昔は街には「隙間」と「余剰」が満ち溢れていました。
子供らは「隙間」と「余剰」でたわむれあそびました。
屋上や非常階段や工事現場や放課後の校庭が「隙間」。
今よりも盛り上がった祭りや眩しい盛り場が「余剰」。
こうした無駄が消去されたことで生き辛くなりました。

学校で言えば、教室では学ぶ人・廊下では通行する人。
ところが屋上に上がれば「何者でもない人」になれた。
通りや電車でも、地べた座りすれば同じようになれた。
僕たちは昨今「何者でもない人」でいられなくなった。
アジールは「何者でもない人」でいられる場所のこと。

そうした場所を提供するLiber邸の理念に賛同します。




イベント「希望のない社会の幸福学」の口上文です。

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イベント「希望のない社会の幸福学」の口上文です。

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希望のない社会を幸福に生きるために必要な“愛”の形とは。
社会学者宮台真司と、二人のインテリ・カリスマナンパ師。
絶望の時代を生きるために不可欠な最終的知恵を提案する。
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誰もが、自分の存在を承認してもらいたいと思う。
だから刹那的な性愛に走る……。それでいいのか。
私たちは不安と憂鬱を抱えつつ毎日を生きている。
だからこそ、ナンパは衝動のはけ口になりがちだ。

だがそんなナンパを続けても幸せには近づけない。
互いを蔑ろにしたSEXでは互いの尊厳を傷つける。
どこかが、なにかが、明らかに間違っているのだ。
間違っていると薄々感じつつ、どうにもできない。

多くのナンパ指南はSEXに至るまでしか扱わない。
だが宮台真司はSEX以降の関係にこそ問題を見る。
不安なので自分しか見えず、相手に集中できない。
だから相手を利用することしかできないのである。

多くのナンパ指南は相手を落とすことに集中する。
だが高石宏輔は自分を魅力的に変化させよと説く。
彼はそのための心理療法としてナンパに注目する。
そんな高石の本職は実は心理カウンセラーである。

多くのナンパ指南は事実上やり捨ての推奨である。
だが人気ブロガーのシンジはそれは不毛だと説く。
彼は現役としての自らの営みを日々公開している。
そんな彼は実は帰国子女のカリスマ・ナンパ師だ。

それぞれ違うフィールドでナンパを経験してきた。
むろん数の多さではなく学びの深さこそが問題だ。
学びの深さに自負を持つ三人が語る新恋愛幸福論。
題して「希望のない社会の幸福学」Don’t miss it!

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あなたは、ナンパが同じことの繰り返しだとウンザリしませんか?
あなたは、手当たり次第に声をかけることに疲労していませんか?
あなたは、誰かと溶け合うような恋愛をしてみたくありませんか?
あなたは、好きな人に自分を投げ出せればいいなと思いませんか?
あなたは、現実に向き合わないで刹那のSEXに逃げていませんか?
あなたは、恋愛を通じて現実の全てに向き合おうと思いませんか?
――――――――――――――――――――――――――――――
⇒どれか一つでも該当したら、ぜひ三人の話を聞きに来て下さい!



NHN Japan Corpが提供する「AM」に紹介文が掲載されています。このイベントの提供者でもあります。

2月23日、宮台による朝カル見田関連レクチャーの前半部分についての、ツイート再現

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2月23日土曜日の朝日カルチャーセンター新宿で行なった、宮台真司による見田宗介全集刊行記念の講義について、何人かの方々のご要望に答える形で、以下にその前半部分のみをテープ起こしをベースに再現します。後半は「宮沢賢治に見る右翼の真髄とは何か」をめぐる込み入った議論に。別の機会に。


見田宗介先生は当初、公刊された修論『価値意識の理論』の如く日本人の価値意識を実証&理論的に探る仕事をした。社会意識論(社会構造が社会意識を規定するというマルクス的上部構造論に依拠した枠組)に相当。南博ばりに「社会心理学者」を名乗ることも。上部下部構造論は今も捨てられていない。

「社会心理学者・見田宗介」という構えは60年代末2年間のメキシコ留学を経てが変更された。象徴的なのが、コミューンに言及する真木悠介の筆名と、七三分け&瓶底眼鏡から眼鏡を外したイケメン風への外見チェンジ。宮台が大学に入った70年代半ばには見田ゼミは絶大人気。多くの信者がいた。

そう。当時の宮台は「見田ゼミ信者」という言葉を揶揄的に使っていた。見田ゼミに出入りする女子はふわっとした花柄スカートに白ブラウスといった具合。見た目が大いにダサかった。ゼミでは見田宗介への否定的コメントはほぼ絶無。そうした暗黙規範に従わない宮台は当初から完全に「浮いて」いた。

ところが程なく、かかるゼミの佇いが見田宗介の「立場変更」と密接に関連することを発見した。コミューンを主題化するからコミューン憧憬者が集まるのもある。だがより本質的事情が見通せる。その事情とは、メキシコ留学後の「立場変更」が個人的なものというより時代的なものだったことに関係する。

宮台定番用語を使う。60年代後半の〈政治の季節〉。人々は「ここではないどこか」を現実に探した。70年前後の挫折を経て〈アングラの季節〉へ。人々は「ここではないどこか」を現実でなく、虚構に探した。巷間の誤解と違い寺山や唐やATGのピークは70年代前半。見田=真木はこの時代にシンクロした。

当時の宮台の見立てはこう。〈政治の季節〉の世直しは敗北した。今は革命を企図しても詮ない。ゆえに雌伏の時期。即ち我々にとっての現実ならざる社会を構想する想像力を育む段⋯。まさに「ここではないどこか」を現実ならざる虚構に探す〈アングラの季節〉に同期する認識。そこが見田人気の背景だと。

だからこそ宮台はシニカルになった。見田ゼミでは現実ならざる虚構の構想が重視されるが、〈癒し宗教〉の背理ではないか?〈癒し宗教〉は〈世直し宗教〉をこう批判する。革命家が天下取り後に残酷な独裁者になるのはよくある話。そうなれば世直しに加担した宗教は倫理問題を問われて存続不能になる。

ラツィンガー(ベネディクト16世)が、救済の神学を擁護する穏健派教授から、バチカン入りして保守派の異端審問官に変じたのは、ハーバマスによればかかる〈世直し宗教〉の背理に想到したから。だが、〈癒し宗教〉も、〈世直し宗教〉の側から「現体制を擁護する阿片に過ぎぬ」と批判されてきた。

つまり社会心理学の帰属理論的問題。宗教が〈癒し〉に成功すれば、本来〈世直し〉されるべき問題が放置され、悪辣な現世権力が補完される。マルクスが「宗教は阿片」の物言いで止目するのもそこ。そう。革命をしばし断念して「ここではないどこか」を夢想する見田ゼミ系もソレだ、と宮台は思った。

酷薄な現実に打ちひしがれた上、革命構想も断念せざるを得ず、悶々とする、そんな人たちに、見田ゼミは「週末のシャワー」を提供する。現実の中で汚れきった身を、週末のシャワーで洗い流し、「回復」した後、再び現実の中に帰る。これが現実の補完物でなくて何なのか。見田ゼミ生は単なる馬鹿だ…。

この疑問を見田宗介にぶつけたことがある。だが彼は百も承知だった。実際かかる認識を69年の廣松涉先生との対談でも吐露していた(見田宗介にそれを読めと言われた)。実際に見田宗介はそれ以降宮台に真木用語で語ることは一切なかった。彼が僕に語る時は専らシステム理論の用語系の枠内だった。

さて70年代後半当時の宮台は見田ゼミを体制補完の「週末シャワー」と見做した。だが15年余り経て宮台は認識を変えた。確かに「週末シャワー」の機能があった。見田宗介はそれを百も承知だった。だが95年刊行『現代社会の理論』を読んで仰天した。見田宗介は資本主義の廃絶を希求してなかったのだ。

見田=真木の初期業績を振り返ろう。『気流の鳴る音』や「旅のノートから」に代表される著作群。そこに頻繁に登場するのが〈狂気としての近代社会〉という言葉。そう。当初から見田宗介は、社会構造よりも感覚フレームを--宮台用語で言えば〈世界体験〉の枠組を--専ら問題にしていた。感覚の変革へ!

有名な「まなざしの地獄」NN論。都市的存在たること=表層性(外見や属性)による規定を生きること。これはシステム的帰結で、個人は如何ともし難い(一人一人は「他人を構う余裕はない」)。かかる都市的疎外が連続発砲へ…。若松&足立の風景論(どこかに行けそうで、どこへも行けない)と対立する解釈だ。

都市論的疎外⇔風景論的疎外。風景論:近代=「ここではないどこか」の憧憬と二重の挫折。(1)60年代の挫折=「こんなはずじゃなかった感」。それ故の「ここではないどこか(キューバや中共)」追求。(2)かかる〈政治の季節〉再挫折=「こんなはずじゃなかった」。⇒どこかに行けそうでどこにも行けない!

実はこれが二十年後への伏線だった。都市論的疎外からの回復構想は容易(⇒実際に情報化消費化構想へ)/風景論的疎外からの回復構想は困難(⇒ハイデガー的困難[退屈しのぎの背理]と宮沢賢治的困難[世直しの背理])。宮台の先取的疑問:真の問題は都市論的疎外でなく、風景論的疎外ではないか?

もとい。見田的構想は、社会意識を規定してくる社会構造を問題にするのとは違っていた。革命で体制を変えても、〈世界体験〉の枠組が変わぬのなら、所詮スターリニズムの如きに堕して終わるとの認識。そこが慧眼。つまり〈近代の狂気〉を徹底問題視しない左翼革命を否定した。その妥当性を歴史が証明した。

逆に言えば、ここには「体制を変革せずに、感覚革命をなし得る可能性」への認識が、懷胎されている。むろん体制(社会構造)は感覚フレーム(社会意識)を規定する。だが規定の仕方は「常に既に」必然ではない。パラメータ(外生変数)が変われば、同じ社会構造の上でも社会意識は別様となり得る。

「体制を変革せずに、感覚革命をなし得る可能性」を直接追求したのが95年『現代社会の理論』。資本主義を廃絶せず、現行の情報化消費化社会の流れの果てに、市場の限界・資源の限界・環境の限界に対処し、持続可能な資本主義社会を達成する構想。共同態⇒相克態(旧資本制)⇒相乗態(新資本制)。

復習する。市場の限界とはマルクスの枠組:生産性上昇⇒市場の飽和⇒価格低下⇒生産設備稼働率低下⇒融資返済停滞⇒金融恐慌という回路。フォードモデルからGMモデルへの転換:些細なモデルチェンジで、まだ使える商品を廃棄させ、新たな商品を購入させる。資本主義が「市場の限界」に対処可能に。

資源&環境の限界は70年代ローマクラブ的枠組。95年朝日新聞で論壇時評担当の宮台は流行の「たまごっち」に触れて説明した。《大食らいのペットは資源負荷と環境負荷が大きいが、たまごっちは同等な享受可能性を保ちつつ資源負荷と環境負荷が小さい。所詮我々の〈世界体験〉は差異の享受=情報的》。

そこで宮台の疑問。小疑問:情報化消費化段階の前の重化学工業化段階をスキップするための構想は?始点と終点を繋ぐ過程論が不十分だ。大疑問:〈狂気としての近代社会〉の体験枠組の自明性--相克的感受性--は、ゲームが物的世界から情報的世界にシフトした程度では変わらないのではないのか?

大疑問を前提にすると、持続可能性の乏しい物的世界から、資源・環境の限界の克服ゆえに持続可能性に満ちた情報的世界へのシフトは、むしろ〈狂気としての近代社会〉の永続、即ち地獄を意味する。実はここに、先の述べた[都市論的疎外/風景論的疎外]の差異が孕む問題がコピーされていると分かる。

小括。見田=真木は、一貫して体制革命ならざる感覚革命を追求してきた。当初は、近代社会で失われた〈世界〉の接触(という〈世界体験〉)が希求されたが、二十年後になると、感覚革命の射程が「物ゲームから情報ゲームへ」と切り縮められた結果、むしろ「終わりなき日常」の永続が構想された。

補足。『現代社会の理論』以降の見田は、雑誌・新聞取材で、物の消費から情報の消費へのシフトを、審美的ないし耽美的なアートの享受に代表させる。だが、情報の消費がアート的なものになる保証は、見田の議論にない。仮想空間での戦争や出世競争や性愛争奪が消費対象(相克!)にならない保証がない。

以上は講義の前半。後半を予告する。95年『現代社会の理論』では〈世界体験〉の質の議論が脱落した。見田宗介は気づいていないか。否。直前の『宮沢賢治論』(存在の祭りの中へ!)や『自我の起源』(多様なるものの流れの結節!)で、『気流』『旅の』的な感受性に更に明確な輪郭を与えている。

戦略の分化だ:(1)社会持続=『現代社会の理論』。(2)感覚革命=『自我』『宮沢』。OK?No!「感覚革命の成功」が「社会持続の不能」を招く可能性が未検討。「感覚革命の成功」と「社会持続の成功」の結合は非必然的。國柱會的日蓮主義信者宮沢賢治はこの非必然性を主題化。だが見田は意図的にスルー。


宮台による朝カル見田関連レクチャーの、時間的な前半部分についての、ツイート再現は以上です。レクチャーを聴かれた方で、ここが落ちてる、というのがあれば、教えてください。よろしくお願いいたします。

一部は見田先生やゼミっ子だった方々に失礼な言い回しがありますが、そこは大学生時代の20歳頃の僕がそう思ったという過去の話の紹介ですから、ご寛恕いただければ幸いです。むしろ昔の大学生にはそういうことを考えるヤツもいたんだなという具合に、一つの資料としてお読みいただきたいと思います。

『おどろきの中国』についての宮台発言@読書人最新号から抜粋します。

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3月7日の『おどろきの中国』記念イベントで、橋爪さんと大澤さんのトークショーが池袋のリブロでおこなわれました。宮台も出席予定でしたが、別の外せない予定が入って欠席させていただきました。このイベントが週刊読書人の最新号に掲載されます。宮台は補足インタビューという形で参加して、疑似的な鼎談にすることにしました。宮台部分を抜粋します。大変に面白い全体は、週刊読書人の最新号(3月22日金曜日発売)に掲載されます。

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【宮台】僕の親族は元々中国と関わりが深いんです。戦間期から終戦まで母とその家族は上海のフランス租界で暮らしました。当時のフランス租界では無呼吸潜水記録保持者だったジャック・マイヨールやSF作家のJ・G・バラードが子供時代を過ごしていた。僕は中国の話を母や祖母から聞いています。犬と中国人は通るべからずの看板。日本兵が支払の際に手渡しせず地面に放り投げると中国人がぺこぺこしつつ拾う話。日本の兵隊が中国人を並べて銃剣で撃ち殺す場面を見た話。日本兵が中国人の首を銃剣ではねて頸動脈から血が噴出したのを見た話。
 ずっと二つの疑問を抱いてきました。第一に、当時の日本は何なのか。第二に、当時の中国は何なのか。後者は、第一次大戦前に同胞がスパイ容疑で処刑されるのを中国人が喝采したフィルムを見た日本留学中の魯迅が激怒したことに関わる。そんな疑問が解ければと思って中国を訪れました。疑問はむしろ深まりました。疑問について橋爪さんに逐一うかがえたのは良かった。橋爪さんの答えがクリアカットな分、しかし疑問がより焦点化されました。
 驚きの質については本書の冒頭で述べた通り。片側六車線道路を歩行者が横も見ずに平気で渡る。車は直前で人を回避して走る。歩行者が車を気にして立ち止まると轢かれて死ぬと言う。実際皆が同じように振る舞う。橋爪さんの言葉でいえば「生存戦略」です。これは直ちに原理的な驚きにつながります。
 秩序は価値や規範や制度によって成り立つ。それが社会学の標準的発想です。ところが生存戦略は規範や価値じゃない。ゲーム理論の均衡点です。中国的秩序を与えるのは規範や価値よりも均衡点です。むろん中国にも規範や価値があります。儒教がそれです。でもかかる生存戦略への自覚が、規範や価値の前提です。本文で僕が使った言葉では「均衡点への再帰的観察」。
 生存戦略は特定の誰かが作り出したものじゃなく、制度や価値のようには変えられません。新たな価値に従って行動を変えた途端、生存できなくなるからです。価値でなく均衡。規範性でなく事実性。価値や規範があっても均衡の事実性が前提になる。それが中国の本質です。そんなふうに巨大秩序が成り立ってきたことが最大の驚きです。社会学が想定する西欧とは違う。
 それが「中国とは何か」に関わります。今回の対談で大澤さんが出した「中国人がどうして歴史を大切にするのか」への回答も与えます。大澤さんの疑問には正統性論の観点から回答を与えるのが標準的です。中国の場合「なぜ歴史が正統性を与えるのか」に踏み込ないと答えになりません。僕の考えでは「均衡への再帰的観察」がポイントです。これは後で述べます。
 第二の驚きは租界。天津と上海の旧租界を見ました。戦間期の風情が強く残っていた。旧英国租界にはかつての荘重な英国風建築群が残り、新たな建物もファサードを合わせる。フランス租界もドイツ租界も同じ(ドイツ租界は天津のみ)。帰国したら日本の都市風景が貧弱に見えました。東京にも高層ビルも首都高速もあります。でも中国の高層建築は敷地面積が遙かに広くて装飾も華美。道路も片側六車線が当たり前。天と地の違いです。
 中国にも貧しい場所があり、都市にも貧しいエリアがあります。でもワンブロックごとに高い壁で囲われた邑(ゆう)になっていて、日本みたいなバラックじゃない。言い換えれば、貧困地域を含めた街の隅々に、歴史的に堆積された権力の働きや帰結を感じます。日本では街には権力の働きや帰結を感じることがなく、その分頼りない。
 戦前の亜細亜主義者が租界地に入って抱いたのも同じ感覚だろうと想像しました。近代化面で中国は貧弱でしたが、中国の歴史が与える力を---歴史的に堆積した権力の痕跡を---亜細亜主義者は身を以て感じたことでしょう。19世紀になるまでは中国は四千年間以上も世界で圧倒的に強大であり続け、経済や文化の中心だった。その巨大なリソースが全て失われたはずがなく、中国を蔑ろにして日本だけ先に進めると思えるのは僅かな期間に過ぎない、と。旧租界を見てそうした感覚を共有できた気がしました。

【宮台】[中国とは何かについて]日本と対比しましょう。まず日本人のナショナリティ(日本人性)の根幹がどこにあるのかが不明確です。国籍、習慣、文化、血縁、言語など人によって意見が分かれる。一般に他国では法定条件を満たして国籍を取得すれば終わりです。日本の場合「そろそろ彼も日本人らしくなった」と皆が感じるだろうと皆が思うようになることが必要で、何を満たせばそうなるのか未規定です。この「皆」の範囲が日本なのです。
 他方、中国人の同一性も、本書冒頭で話した如く、多民族で契約的共和もなく帰属意識も低くて不明確です。僕の考えでは、前述のように再帰的に自覚された生存戦略に従う者たちの範囲が中国。具体的には、最も力(ゲバルト)を持つ者に皆が従うだろうと皆が思う、「皆」の範囲が中国です。皆が感じると皆が思うことを前提にする営みが日本を与え、皆が最強ゲバルトに従うと皆が思うことを前提にする営みが中国を与える。空気の支配・力の支配の対比です。
 だから中国史を振り返ると、ゲバルト闘争を通じて勝ち残った最強者がいつも必要とされていることが分かます。最強者が不在だと皆が何を前提にして行動したら良いか分からなくなります。ただしゲバルト常態化のコストを縮減すべく補助的正統化装置を用います。天命概念や帝位の血縁継承です。でも正統化装置はいわば事後的で、出発点は飽くまでゲバルトの事実性。
 こうした順序ゆえに「支配の歴史」が重要です。単なる歴史でなく、ゲバルト史です。様々な夷狄が征服され服属する歴史であり、夷狄が中原をゲバルトで収めて王朝を交代させる歴史です。ゲバルト史を参照するから、一部周辺国は三献の礼の如き儀礼を通じて、ゲバルトで征服される前に朝貢関係に入ります。かかるゲバルト史への再帰的認識が中国の範囲を決めます。
 日本でも、誰もが従うと誰もが思うことを前提に振る舞うことがあります。でも中国では、誰もが従うと誰もが思うことを前提に振る舞うには、ゲバルトが必須です。日本にはゲバルトが必要ありません。そのことを天皇制が示します。漢字の共有範囲が中国だという俗説も違います。それは飽くまで結果です。ゲバルト最強者である皇帝が、言葉や文化や価値の違う領域を支配するツールが漢字。ゲバルト史の事実性なくして漢字はあり得ません。

【宮台】[中国が歴史を尊重する理由については]歴史は一般に、行動の妥当性や正当性や、地位の正統性を証明すべく、参照されます。中国はゲバルト史が重心です。魏と呉と蜀の三国志。どんな展開を経て、誰が勝ち残り、誰が殺されたか。その果てに現在のゲバルト頂点があるとの理解があります。西洋的にいえば正統性の弁証に似ますが、少し違う。出発点が人間同士のゲバルトだからです。
 似た面を持つのがヘブライズム。ヘブライズムでは神のメッセージを伝える預言者に象徴されるように正統性の源泉は唯一の絶対神。王は預言者の言葉を通じてヤハウェの意志を蔑ろにしていないか気にする。さもないと滅ぼされるからです。滅ぶといいましたが、そこにあるゲバルトをヤハウェが源泉だと理解するのです。旧約聖書に示されるように、ヤハウェが契約に背く者ものをどう処遇してきたかが歴史を構成するのです。
 ヘレニズムはまた違ったロジックですが、やはり一部中国に似る。紀元前12世紀から9世紀にかけての「暗黒の四百年」。先住移民アカイア人と後続のドーリア人の闘争で殺人・強盗・強姦・放火が日常化し、ギリシア神話に書き留められます。僕の言い方では「〈世界〉はそもそもデタラメである」との認識の伝承。紀元前8世紀のホメロス叙事詩も同機能を担います。
 これら伝承が、都市国家連合の形をとる理由や、ソクラテスがエジプト的と表現した絶対神依存を敵視する理由や、不条理にひるまず前に進む在り方が肯定される理由を述べ伝える歴史になる。ゲバルト闘争が出発点なのは中国に似ますが、現在のゲバルト頂点への帰依に繋がらず、ポリス内ではゲバルトを否定したガバナンス賞揚、ポリス間では戦争の賞揚に繋がります。
 中国でもヘレニズムでもヘブライズムでもゲバルトとの関係で歴史が重視されます。ゲバルト回避のための知恵の参照だからです。日本は違う。天皇制成立以降、現実にはゲバルトが存在しても伝承では抑圧される。歴史の時間軸より、空気の空間軸が参照される。先に述べた通り空気も事実性だけど、歴史と関係ない事実性です。天皇帰依は、万世一系に象徴される如く、歴史を抑圧した疑似血縁的な継承線に基づきます。結局日本で歴史と言えば、娯楽としての偉人列伝に過ぎず、オタク的な知識競争に過ぎない。大学入試での歴史の試験が貧困な理由です。

【宮台】[中国の政治体制の特徴については]これも日本と比較します。本書で述べなかったことです。日本は行政官僚制が肥大します。中国も行政官僚制が肥大します。日本は行政官僚制を基盤に1955年から高度成長を遂げました。中国も行政官僚制を基盤に1978年から急速な近代化を遂げました。日本は天下りなど既得権益の温存ゆえの非合理的政策決定がある。中国も腐敗や汚職や賄賂による非合理的政策決定がある。似ています。でも決定的な点が違う。
 日本の行政官僚は普段は政治家を参照せず、逆に政治家をコントロールできると思っています。だから直ちに二つの問題が起こります。第一に、省庁間の壁を越えねばならない事態が生じた際、越えられない。第二に、非常事態の際、ルーティンを越えられない。今に始まった話ではないけれど、両方とも東北が現在直面している問題です。
 昨日まで陸前高田にいました。更地のまま全く復興していません。震災と津波災害が違うからです。震災は復旧で足りるが、津波は復旧じゃ足りない。原発災害と同じく元の場所に住めず、街の構造替えを伴う復興が必要だからです。高台移転も道路付替えも港湾設備変更も新産業誘致も必要で、どれも中央官庁の許認可が不可欠です。ところが許認可に半年以上かかる。
 本来なら、阪神淡路大震災を機に震災復旧を念頭に作られた災害特措法と別に、津波災害からの復興を念頭に置いた特措法を作るべきですが、政治家が何もしない。また、被災した市町村の首長が許認可の迅速化を陳情に行くと、大臣が横にいる役人に「できるか?」と尋ねて役人が「できません」と答える。確かに平時を前提にすれば前例参照というルーティンゆえにできないのは分かります。でも今は緊急時。大臣が役人に「俺が全ての責任を取るから、前例がなくてもやれ!」と命令するべきです。そう、田中角栄のように。
 たまに角栄の如き政治家も出てきます。でも個人的資質に依存します。中国は違う。資質を持たない人は政府や共産党のトップになれません。行政官僚は、政府トップの国家主席や首相、共産党トップの総書記に、自分がいつ粛清されるか分からないと怯えます。トップが強大なゲバルトを具備した武装警察を含む公安部を掌握しているのも大きいです。
 要は、日本の行政官僚制は非常時に舵を切れません。中国の行政官僚制は舵を切れます。中国の共産党独裁体制が有する優位性です。平時には日本の方がマシに見えますが、非常時には中国の優位性が際立ちます。グローバル化を背景に、内政では格差化・貧困化が拡がり、外交では国際情勢が不穏になりがちな今日、この差はますます重大になります。
 
【宮台】[日中間の政治問題については]天津の王輝先生はこう仰いました。年長世代は驚異や畏怖を含めて日本をリスペクトし、日本と戦略的互恵関係に入れば互いがウィン・ウィンで共栄できると考える。だが年少世代は、中国が日本の遥か後塵を拝した時代を知らない。年少世代が社会の主導権を握りつつある中、年長世代は日本をかばい切れなくなった。なぜか。日本が歴史を忘れるからだと。
 またもや歴史です。尖閣問題は前原問題です。日中共同声明・鄧小平宣言・日中漁業協定で、(1)主権棚上げと(2)日本の実効支配(施政権)を確認し、実際中国漁船が侵入しても停船要求でなく退去要求をし、退去しない場合に停船させても逮捕起訴図式を用いず拿捕強制送還図式を使ってきた。それを前原国交大臣が勝手に放棄した。前原には中国政府と日本国民への説明責任があります。でも日本国民も協定積み上げの歴史を覚えていません。
 当時の仙谷官房長官がボールは中国にあると述べたら、中国の外務報道官華春瑩がボールは一貫して日本にあると苦笑しました。協定を破った側にボールがあるに決まっています。こんなに頓珍漢な日本とどう駆け引きをして「手打ち」に持ち込んでいいか分からない---これが「もうかばえない」の中身です。王輝先生の言葉がずっと頭に残りました。
 日清戦争後、中国から多数の留学生が日本に来ました。中国にとって近代日本は見本でした。呼応して日本の亜細亜主義者は、中国近代化が列強の脅威に抗う日本の将来に不可欠だと思っただけでなく、中国人を亜細亜同胞だと思った。日本の右翼結社黒龍会の活動なくして中華民国成立はなく、中華民国成立なくして中華人民共和国の成立もなかった。そのことを日本人は記憶に留めるべきです。中国のインテリが覚えていて日本のインテリが忘れているのは、国辱的です。

【宮台】[本書で言えなかった結論を言うと]中国訪問と橋爪さんと大澤さんとの鼎談を通じて、日本は社会も国家も貧弱だという思いを強くしました。国家面では、行政官僚制をコントロールできる強大な政治権力を樹立できない。社会面では、空気を乗り越えることができない。強大な政治権力のある中国は、非常時に行政官僚制を制御できる。ゲバルトを参照する中国は、意図的に人々の行動前提を変えられる。日本は行政官僚制を制御できず、人々の行動前提(空気)を変える仕方が分からない。
 重大問題です。中国は、鄧小平の南巡講話以降の近代化のスピードは凄かった。日本も敗戦後の復興スピードは凄かった。両方とも行政官僚制を背景にします。でも、日本の行政官僚制は空気を背景にし、中国の行政官僚制はゲバルトを背景にします。空気は制御できませんが、ゲバルトは制御できます。実際に共産党が公安部を制御します。だから非常時に日本は頓珍漢な動きをし、日本をリスペクトする中国のインテリ年長者が溜息をつく。惨めな始末です。
 両国の経済成長に見るように、平時は日本も中国と同じく政治が行政官僚制を制御できるように見えて、非常時になると日本だけが行政官僚制を制御できません。これは平時も行政官僚制を制御できていないことを意味します。原発災害と震災復興で露わになりました。
 今後はグローバル化を背景に内外の環境はますます流動的になります。非常時の常態化です。そのとき日本は行政官僚制をコントロールできず、人々の行動前提もコントロールできません。中国は両方コントロールできます。だから中国は生き残り、日本は生き残れない。軍事的要因でなく、社会的要因によって生き残れない。そんな確信をもって中国から帰国しました。あまりに暗い結論なので、本書では三人ともそこまで言えませんでした。この場ではあえて挑発的に申し上げます。

「『サブカルチャー神話解体』から20年、オタク研究の停滞」(仮題)の前半だけアップ

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「『サブカルチャー神話解体』から20年、オタク研究の停滞」(仮題)の前半部分だけアップロードします。

まもなく『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』の日本語版が出ます。この日本語版には、英語版には収録されていない僕の論文が含まれています。

元々この英語本に収録する予定だったのですが、東浩紀君との米国講演旅行を契機に学術的(査読あり)定期刊行物『Mechademia』に掲載されることになったので、英語本への収録を辞退したのです。

この日本語版には、もう一つ、英語版にはない終章がついていて、僕に対するインタビューとして構成されています。原稿用紙100枚に及ぶ長大なインタビューですが、ちょうど前半部分だけを抜粋してアップします。

アップロードした前半部分は、歴史をレビューしています。その一部はミヤダイ・ドットコムにかつてアップロードした文章とかぶります。後半は日本におけるオタク的なものの衰退に抗う戦略を提案しています。

後半いわく〈「ダメな自分」から「クソな社会」へ〉あるいは〈「ダメ意識」から「クソ意識」へ〉。膨大な頁を使って歴史的事例を参照しつつ伝えているので、楽しみにして下されば幸いです。特に中高生への「生き方の提言」になっています。



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宮台真司氏インタヴュー

【『サブカルチャー神話解体』から20年でオタク理解は進んだか?】
――オタクについて、今日における現象としての広まりとは裏腹に、それに対する理解が本当に深まったのかという点には大きな疑問があります。例を挙げれば、クールジャパンは陥穽にはまっているのではないか。つまり、そこには単純な表層的支援策しかなく、オタクの本質が理解できていないのではないか。
 そこで、まずお伺いします。オタクに対するオリエンタリズムな眼差しは、果たして超えられるのでしょうか。この点について、日本国内でのオタクに対するオリエンタリズムなまなざしと、アメリカから日本に対するオリエンタリズムなまなざしとに分けて、お尋ねしたいのですが。

宮台■結論から言えば、オタクの理解が進んでいるとは思えません。他方、オタクに対するオリエンタリズムな眼差しは、少なくとも国内については越えられています。国外についても時間の問題でしょう。まず、読者の便宜のために、言葉の確認から始めてみます。
■マニアとオタクとどこが違うか。これは「キリスト教やイスラム教のような既成宗教とオウム真理教のようなカルトはどこが違うか」という宗教社会学的問題の応用です。答えは同じです。市民社会との両立可能性が疑われるものが、オタクであり、カルトなのです。
■次に、オタク誕生の社会的文脈を確認します。オタクの誕生は、日本のサブカルで繰り返されてきた、いわゆる〈埋め合わせ〉として理解できます。ここでの〈埋め合わせ〉とは、ヨアヒム・リッターの〈埋め合わせ〉でなく、ジークムント・フロイトのそれです。
■リッターの〈埋め合わせ〉とは、直前の時代に日常だったものが自明でなくなり、新たな日常に全てが覆われた段階で、その日常の破れ目として---非日常として---前時代に日常だったものが、肯定的に表象されることです。「風景」や「自然」がそれに当たります。
■フロイトの〈埋め合わせ〉は「補償」とも訳される神経症のメカニズムで、抑圧された欲動が別の意外な形をとって表れることです。ここではフロイトの心理学的な〈埋め合わせ〉概念が重要ですが、リッターの文化的〈埋め合わせ〉概念とも無関係ではありません。
■戦間期にもフロイト的〈埋め合わせ〉を見い出せますが、敗戦後に限れば、まず1960年代末が注目されます。それに先立つ1955年に「大人から理解できない存在」としての〈若者〉概念が登場します。当初は無軌道・暴走・反抗等で表象される〈否定的若者〉でした。
■それが、1964年の東京五輪や1965年のビートルズ来日を境に〈肯定的若者〉に変じます。[音楽やアートの好み=ポップカルチャー][良き社会の理念=反戦平和][良き性愛の理念=フリーセックス]等、大人とは異なるオルタナティブな価値を体現するのです。
■ところが、問題は性愛でした。加納典明ら写真家が「奔放な性」を主題にし、若松孝二らが従来のドカタならざる予備校生や大学生を対象とした「ピンク映画」を撮り、「フリーセックス」「同棲」などの言葉が流行ったのが、1968年から69年にかけてのことです。
■実態とは別に、メディアが性に席巻された格好です。1970年代に入ると女性メディアに波及し、性を前面に掲げた『微笑』が1970年に創刊、ティーン向けGS&ファッション誌『セブンティーン』(1968年創刊)が1971年から「高校生妊娠モノ」の連載を始めます。
■そこで、マートンの言う「機会のアノミー」に陥ったのが、小学校高学年から高校生までの女の子たち。彼女たちが飛びついたのが1973年から始まった「おとめちっくマンガ」でした。陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子等が、『りぼん』誌上で作り出した流れです。
■友達たちは男の子たちとデート。でも私はドジだし可愛くない。だから大好きな男の子もきっと振り向いてくれない。そんな私が好きなのは、“白いお城と花咲く野原”。「今日はいい天気だから、バスケットにサンドイッチをいれて、お花畑にピクニック」みたいな。
■実際にはピクニックに出かけない。〈性的にダメな私〉が、ヨーロピアンでロマンチックな〈繭〉に籠もるだけです。抽象的に言えば〈虚構の充実による、現実の不全の埋め合わせ〉。実はこれが十年後に顕在化することになるオタク的な〈世界解釈〉の萌芽でした。
■ちなみにオタク系の〈世界解釈〉の特徴は、〈虚構の現実化(異世界化)〉という形式です。これは、ナンパ系の特徴が〈現実の虚構化(演出化)〉の形式であるのと対照的です。性的現実から自分を切り離して〈繭〉に籠る「おとめちっく」は、実はオタク的です。
■でも「おとめちっく」は直接オタク系コンテンツのルーツにならず、別方向に進化します。ヨーロピアンでロマンチックな〈繭〉から、アメリカンでキュートな〈プロトコル〉へ。1977年に丸文字が〈交換日記からラブホテル落書帳へ〉と変化したのが象徴的でした。

【オタク誕生前史としての〈性と舞台装置の時代〉】
■実際「おとめちっく」は4年しか続かず、77年からは「〈私としての私〉が剥き出しにならないよう〈可愛いツール=プロトコル〉で武装しつつ性愛に乗り出すモード」が拡大します。それに男子側も対応して、77年秋に『ポパイ』がデートマニュアル化しました。
■77年は〈性と舞台装置の時代〉の始まりです。女子の〈ロマンチックからキュートへ〉。男子の〈カタログからマニュアルへ〉。カタログというのは植草甚一編集『宝島』のように「これを手に街を歩けばワンダーランドに早変わり」という拡張現実(AR)ツールのこと。
■これも後から振り返ると〈現実の虚構化(演出化)〉ツールで、後のナンパ系的な作法の萌芽だったと言えます。でも、こうしたカタログ誌(70年半ばには『宝島』や初期『ポパイ』はこう呼ばれていた)も、直接ナンパ系的作法のルーツになった訳ではありません。
■ルーツになったのは「おとめちっく」です。元々は現実を忘れる〈虚構の現実化〉ツールだったのが、〈ロマンチックからキュートへ〉の流れで、現実に乗り出す〈現実の虚構化〉ツールに変じた。〈虚構の現実化〉と〈現実の虚構化〉が似た道具を使えたのです。
■さて、ナンパ系関連アイテムを列挙すると、湘南サーファーブーム、ディスコブーム、テニスブーム、カーステレオブーム、渋谷公園通りブーム、原宿ホコ天ブーム、ペンションブーム。なお81年からは女子専門学生や女子大生が働くニュー風俗もブームになります。
■77年から現実とメディアを席巻した〈性と舞台装置の時代〉。いつの時代も性愛ブームの席巻による〈排除〉が問題化します。〈性と舞台装置の時代〉モードから〈排除〉された人々が集ったのが、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』ブームと、それに伴う一連の雑誌でした。
■奇しくも『ヤマト』ブームが77年。以降『OUT』『アニメージュ』『ファンロード』が立て続けに創刊。79年からは、その二年前に始まったコミックマーケットが高橋留美子人気を支えにブームになります。そして83年に中森明夫の雑誌連載での「おたく」の命名…。
■つまり、80年代初頭には既に、〈性と舞台装置の時代〉に乗れるナンパ系と、乗れないオタク系という対立が顕在化していました。ただし『サブカルチャー神話解体』に述べた通り、僕の世代が高校生だった76年まで、原オタク系と原ナンパ系が実は同一集団でした。
■『サブカル神話』ではこの〈原オタク系=原ナンパ系〉がナンパ系とオタク系に分化するプロセスを〈SF同好会からアニメ同好会へ〉というエピソードに書き留めました。74年高校進学世代の僕ら世代と、75年高校入学世代との間に、大きな分水嶺があったのです。
■ナンパ系は〈現実の虚構化(演出化)〉に勤しみデートスポットに集う。オタク系は〈虚構の現実化(異世界化)〉に勤しみ漫画書店に集う。中森明夫の差別的記述が示すように、オタク系の〈虚構の充実による、現実の不全の埋め合わせ〉は明確に意識されていました。

【オタク的コミュニケーションと〈埋め合わせ〉】
■ところで、83年に中森が記事に描いた「高田馬場フリーススペース(書店)での銀縁眼鏡のツルがこめかみに食い込んだ汗臭いデブ」の会話が、「おたく~って知ってる?」だったことが象徴するように、オタク的コミュニケーションは当初〈ウンチク競争〉でした。
■これが示すのは、オタク的コミュニケーションが、ナンパ系ゲームでの地位上昇を代替する〈もう一つの地位上昇〉を目指したこと。宗教社会学では、宗教の重要な機能を〈地位代替機能〉に求めます。俗世の地位上昇不全を、教団の地位上昇で埋め合わせる訳です。
■オタク系は、ナンパ系になれない連中のフロイト的〈埋め合わせ〉でしたが、良く見るとリッター的〈埋め合わせ〉---旧日常ゲームから新日常ゲームにシフトした後に旧日常ゲームのアイテムが不可能性ゆえに非日常的な崇高さとして表象されること---も見出せます。
■『サブカル神話』に記した通り、60年代後半の対抗文化の中でピンク映画やヤクザ映画が反復した〈孤独な(疎外された)男〉〈母なる(子宮回帰的な)女〉の意味論を、70年代後半に松本零士アニメが、大宇宙を舞台にしたサブライム(崇高性)として反復します。
■そこで述べた通り、60年代までは〈孤独な男〉を癒やす〈母なる女〉の意味論が、古典的な〈聖なる娼婦〉の表象を通して「あり得ること」として描かれましたが、70年代後半にはもはや「あり得ない」がゆえに、SF的舞台設定を背景に描かれる他なかったのです。
■かつてSF作家のJ・G・バラードが語ったように、今日では「あり得ない」17~18世紀的西部劇の心象風景が、エドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』がそうであるように、SF的な大宇宙を背景に「あり得る」かの如く描かれるのは、よくあること。
■その後は、(1)『ヤマト』的〈サブライム系〉が、(2)「あり得ない」妄想への反発から高橋留美子らの〈小世界系〉を産み、(3)それが更に〈小世界インフレ系〉(男子はロリコン、女子はヤオイ)に短絡し、(4)これら総体の動きが〈大世界の中の小世界系〉を産みました。
■『サブカル神話』で示したように、(1)から(2)への動きが〈反発化〉、(2)から⑶への動きが〈短絡化〉、これら総体を観察した上での(1)から(4)べき動きが〈再帰化〉です。この三種類の遷移は、19世紀のフランス恋愛文学の展開にも見られる一般的パターンなのです。

【ナンパ系とオタク系の〈等価化〉=〈総オタク化〉】
■話を戻すと、フロイト的〈埋め合わせ〉の別の例が、僕が火をつけた90年代半ばの援助交際ブームに並行して、盛り上がった「不思議ちゃんブーム」です。「街で遊びたいけど、性は苦手」という女の子たちのオルタナティヴ・チョイス=代替的地位獲得ツールでした。
■類似事例が歴史的に反復していますが、少なくとも1996年までのオタク的なものは、代替的地位獲得ツールという〈埋め合わせ〉でした。それが目に見えたので差別されました。この可視性が、コミケや漫画書店の風景だけでなくコンテンツそのものに刻印されました。
■例えば1982年の『超時空要塞マクロス』。「大好きな女の子と、偶然密室に閉じ込められた結果、愛が⋯」の如き、反吐が出そうな妄想が溢れていました。しかもそれが大人気ときている。これに続いたオタク的コンテンツの大半はクソだらけだったと断言できます。
■ところが1996年、ナンパ系では、援助交際の失速を機に、性愛ゲームが〈イケてるゲームから、痛いゲームへ〉と失墜。他方オタク系が、〈蘊蓄競争から、コミュニカティヴな戯れへ〉と転じます。かくて、ナンパ系とオタク系の価値的な優劣がフラット化しました。
■こうした〈等価化〉を背景に、一見ナンパ系に見えて、相手に話が通じそうだと見るやオタク系モードにシフトする〈隠れオタク系〉や、その逆の〈隠れナンパ系〉のような〈掛け持ち系〉が---オタク系とナンパ系の間のみならず各系内部でも---目立つようになります。
■僕はこうしたフラット化を、価値優劣のない横並び化という意味で〈総オタク化〉と呼びましたが、これを背景に、ナンパ系とオタク系の差異だった[現実の虚構化/虚構の現実化]が、ナンパ系と無関連なオタク系内部の差異へと、コピーされるようになりました。
■ナンパ系と無関連なオタク系内部の差異へとコピーされた「現実の虚構化/虚構の現実化]が、宇野常寛氏が言う[バトルロワイヤル系/セカイ系]という差異です。宇野氏はコンテンツにだけ注目しているので、バトルロワイヤル系の登場を21世紀だとしています。
■でも、コンテンツに限らずコミュニケーション一般に注目するなら、両者の分岐は97年です。96年はエヴァ・ブームですが、97年は「新しい歴史教科書をつくる会」結成年。それが、2000年初頭の「嫌韓ブーム」と、2005年以降の「電凸ブーム」へと繋がりました。
■エヴァはセカイ系=〈虚構の現実化(異世界化)〉で、電凸はバトルロワイヤル系=〈現実の虚構化(ゲーム化)〉です。実は、僕のゼミに電凸カリスマがいました。彼によれば、電凸は、仕掛人が「点火」や「燃料投下」の実績を競う、非イデオロギー的なゲームです。
■全国で10人前後いた仕掛人たちは、数ヶ月に一度のオフ会で、実績の競い合いをしていたそうです。釣られる側にはむろん思考停止の馬鹿が目立ちますが、「分かってやってるんだよ」的な「アイロニカルな没入」系(大澤真幸)も含まれていたことが、重要です。

【オタク・コンテンツの機能――社会的文脈の無関連化】
■〈総オタク化〉と〈掛け持ち化〉という世紀末からのオタクの国内的位置づけの変化と並行して、特にフランスとアメリカ西海岸で、国内的変化に大きく寄与したインターネット化を背景にして、日本のオタク的コンテンツを享受する人々が、大規模に出現しました。
■少なくとも表面上は、代替的地位獲得の如き〈埋め合わせ〉のネガティブ・イメージはなく、逆にスノッブ的なハイブロウ自慢でした。その点、かつての日本のオタクと同じ〈薀蓄競争〉がありはしたものの、「性愛から見放されたデブ」ゲームと方向性が違いました。
■例えばこのスノッブ的〈薀蓄競争〉は、人種や国籍や階級や性別の壁を問わないという意味で開かれたものでした。因みにこれは最近のきゃりーぱみゅぱみゅのブームでも顕著です。それを僕は日本のオタク的コンテンツの〈社会的文脈の無関連化機能〉と呼びます。
■この機能は、四年前に米国のアジア研究学会や各大学の講演で繰返し語ったように、カルチュラル・スタディーズの想定を超えます。カルスタとは、コンテンツを、人種や国籍や階級や性別を背景とした覇権闘争として分析しようとする旧帝国の自己反省ツールです。
■日本のオタク的コンテンツを米国で紹介する「窓口」になっている日本人研究者の大半がカルスタに属します。だから「彼らは事実上フィッシングサイト(間違った場所に連れていくウェブ頁)と同じだから、騙されるな」と米国で申し上げたら、大変にウケました。
■印象的だったのが、日本人のカルチュラル・スタディーズ研究者と違い、米国人のジャパノロジストや文学研究者の大半が、日本のオタク的コンテンツに特徴的な〈社会的文脈の無関連化機能〉について、「宮台の指摘に完全に同意する」と語ってくれたことでした。
■繰り返すと、日本のオタク的コンテンツが、国外で大きな力を持つようになった理由を、カルスタの概念ツールでは扱いきれません。大英帝国的な反省ツールを、「横のものを縦にする」かの如く日本のオタク的コンテンツに当てはめても、所詮は何も見えないのです。
■日本のオタク的コンテンツが国外で広く受容されたのは、専ら〈社会的文脈の無関連化機能〉の御蔭です。フランスで『ドラえもん』が享受されるのも、畳や障子の如き日本の文物が出て来るからこそ、フランスの社会的文脈とは相対的に無関連になれるからです。
■ただし当然ながら、社会的文脈と完全に無関連ではありません。90年代半ばの高円寺にジョン・ゾーンが住んでいました。フリージャズのミュージシャンで、ピンク映画のポスターとドーナツ盤レコードの収集家としても有名です。彼が語っていたことが印象的です。
■70~80年代に日本の映画や漫画に興味を持つといえば、専らイジメられっ子だったそうです。その意味で「社会的文脈を忘れたい子が享受する」という社会的文脈がありました。思考停止的なカルスタ援用とは別に、ここまで入り込めば、社会的文脈が重要になります。

【オタク・コンテンツは模倣できるか】
■先日中国の研究者らと討議して思ったことがあります。中国人は日本のコンテンツを今はまだ真似できません。彼らは器用で青銅器時代以来日本を凌ぐ精巧な細工を誇ってたにもかかわらず、彼らの作るコンテンツからは誰もが知る「あの匂い」が全くしないのです。
■斎藤環が「東浩紀にはオタク魂があるが村上隆にはない」と述べたことに擬えると、「韓国人にはオタク魂があるが、中国人にはない」。日本人や韓国人が追求できるのに、あの中国人が追求できない洗練の方向性が、あるのです。研究すべき問題が、ここにあります。
■ただし僕が見るところ、オタク魂が日本や韓国の外に拡がるのは、時間の問題でしょう。というのは、先に述べた通り、オタク的コンテンツの本質---オタク魂---は〈社会的文脈の無関連化機能〉であって、飽くまで機能的な問題だからです。であれば、摸倣は可能です。
■〈社会的文脈の無関連化〉機能をもたらすか否かについて様々なアピアランス(意匠)やモード(様式)を試行錯誤すれば、育種学的な〈変異・選択・安定化〉メカニズムを通じ、いずれ日本のオタク的コンテンツと機能的等価なものが生み出されるようになります。
■米国連続講演でも話したことですが、〈社会的文脈の無関連化機能〉において等価なコンテンツが生み出されれば、文字通りには「日本の」コンテンツでなくても、機能的な意味で「日本的な Japanese way of」コンテンツであると、言い切ることができるはずです。
■クール・ジャパンの「クール」の本質は、〈社会的文脈の無関連化機能〉によるバリアフリーな浸透性です。この特質は当初は日本発コンテンツのユニークさでしたが、韓国のコンテンツに見るように、今や特許切れとなり「ライセンス公開」された状態にあります。
■「オタク的コンテンツによって社会的文脈を忘れられる」と云う命題は、「スパイク・リーの映画を白人が黒人のようには見られないし、スピルバーグの映画を黒人が白人のようには見られないが、こうしたバリアがないことを意味する」と言えば米国人に通じます。
■『サブカル神話』上梓の前に1989年『中央公論』で書いた通り、「ブルーカラーだ」「地方出身者だ」といった自己像と無関連なコミュニケーションの一般化--その意味での総中流化---が、70年代末から拡がる[ナンパ系/オタク系]という〈人格分類〉の出発点です。
■この〈人格分類〉に沿う形で、日本のコンテンツは[性愛系/異世界系]に分岐しました。むろん一部ストリート音楽などを除けば、漫画やアニメや映画のコンテンツが、圧倒的に〈異世界系〉に引き寄せられた歴史があり、そのことが更に重要な意味を持ちました。
■〈異世界系〉は[ナンパ系/オタク系]という〈人格分類〉を背景とした劣等感を社会的文脈とし、その劣等感をもたらす社会的文脈を忘れさせる機能ゆえに隆盛になったのです。だからオタク的コンテンツが〈社会的文脈の無関連化機能〉を持つのは当然なのです。

【オタクを巡る社会的文脈の変化――脱差別化・脱神話化】
■日本で「オタク」の存在が目立ち始めるのは70年代末からで、名前が付いたのは1983年。ロリコン誌『漫画ブリッコ』で「東京おとなクラブジュニア」を連載していた中森明夫の命名です。この命名事件が示す通り、オタクの認知は差別的な意識と結びついていました。
■「相手の目が見られず」「キーキーと高い声で」「おたくさあと呼びかける」「銀縁の眼鏡の蔓が米噛に食い込んだ」「汗臭いデブ」といった表現が示すのは、先に述べたコミュニケーション不全を埋め合わせる〈代替的地位獲得機能〉に注目した、蔑視の意識です。
■平たく言えば、“〈世直しの営み〉に代わって〈性愛の営み〉が輝く世の現実の中、しかし現実と渡り合えず現実の重さにも耐えきれないヘタレが、漫画やアニメの薀蓄競争如きで辛うじて肯定的自己像を維持してるぜ、何てこった”というのが中森の言いたかったこと。
■92年連載の『サブカル神話』で77年からの「SF同好会からアニメ同好会へ」の変化を揶揄したのと同じで、中森も僕も、〈秩序〉や〈未来〉の是非に端的な関心を寄せずに〈自己〉のホメオスタシス(自己防衛)の観点から〈世界〉を見る作法を、軽蔑していました。
■僕や中森が前提としていたのが「現実の方が虚構よりも重い」「現実の方が虚構よりも価値がある」という命題です。それゆえ「現実から虚構へと逃げるヘタレ」という蔑視が成り立ちました。ところが「現実の方が虚構よりも重い」の自明性が90年代に崩れました。
■第◯章(『Mechademia』英語論文)で示した通り、最初のエポックは92年の〈アウラの喪失〉です。カラオケBOX化、エロの絵モノ化、AVの企画化&セル化、売春の援交化が一挙に同時期に生じました。共通性は「目に見えるモノの背後に不可視の物語がある」という深さ(アウラ)の消失です。
■音楽享受であれ、音楽表現であれ、AV出演であれ、売春であれ、「やむにやまれぬ思い」や「どうしようもない事情」が消えて、〈表層の戯れ〉になります。ただしポイントは「事情や思い」が真に消えたか否かでなく、「意味論から削除された」という事実です。
■加えて「意味論の変化」を超えた「リテラシーの変化」も極めて重大です。エロの字モノから絵モノへの変化は、グラビアやイラストの背後に実在や物語の存在を想定して興奮する作法から、グラビアやイラスト自体に興奮する作法(萠え)への変化を示しています。
■〈アウラの喪失〉は、「事情や思い」の無関連化や、「実在の想定」の無関連化という意味で、〈表層の戯れ〉です。それゆえに、ますます〈社会的文脈の無関連化機能〉をブーストする事態に繋がりました。かくてオタク的コンテンツが今日的形式に近づきました。
■こうした〈アウラの喪失=表層の戯れ〉があれば、「現実が虚構より重い」「現実が虚構より価値がある」が自明でなくなって当たり前。以降、〈自己のホメオスタシス〉に資するなら、現実であれ、虚構であれ、「等価に」利用するスタンスが、専らになりました。
■僕はこの〈現実と虚構の等価化〉を〈総オタク化〉と呼んだ訳ですが、〈等価化〉を背景に、生身の現実や特定の虚構への過剰な執着がイタイと評価されるようになり、それゆえ前述の〈隠れオタク系〉〈隠れナンパ系〉〈掛け持ち系〉という在り方が拡がりました。
■また、本来[オタク系/ナンパ系]の差異だった[虚構の現実化(異世界化)/現実の虚構化(演劇化)]の区別が、もはやナンパ系など存在せぬかの如く〈総オタク化〉した塊の内部にコピーされ、[セカイ系/バトルロワイヤル系]の差異になったと述べました。
■ただし、15年前の酒鬼薔薇事件の際に繰り返したように、現実と虚構の区別がつかないのではありません。馬鹿ではないので、当然区別はつくのですが、「虚構よりも現実の方が取り立てて重要だと感じるべき謂われはない」とする意味論が、拡がるということです。
■こうした感受性は、漫画家ねこぢるが96年の自殺直前に上梓した『ぢるぢるインド旅行記ネパール編』で死ぬことと生きることの大差なさとして描かれ、2000年頃から話題になった練炭集団自殺---オンラインで仲間を募ってオフラインで集い自殺---にも見出されます。
■練炭自殺では皆が集っても大抵は自殺しません。決行場所を探してドライブし、皆で食事をするうちに死ぬ気が失せます。重要なのはその事実が広く知られていること。その意味で練炭集団自殺はロシアン・ルーレットなのです。凶悪犯罪の杜撰化の背景も同じです。
■この十年間、とりわけ女の子たちの間に〈隠れオタク系〉〈隠れナンパ系〉〈掛け持ち系〉─総じて〈人を見て法を説く系〉─が増えました。昔の基準では性愛系でもありオタク系でもある存在ですが、日常生活ではオタク的コミュニケーションに幸せを見出します。

【なぜ日本と韓国が総本山なのか?】
――そう遠くないうちに、社会の変化によってオタク・オリエンタリズムは乗り越えられ、オタク文化の根幹、いわば「オタク魂」のようなものと言ってもいいかもしれませんが、現実の社会の文脈を無関連化するコンテンツを受容して、それを楽しむというコミュニケーションが広まっていくのは、もはや必然の流れだろうという見立てですね。

宮台■そうです。専ら日本や韓国の作家によるコンテンツだけが〈社会的文脈の無関連化機能〉を果たすのであるなら、日本や韓国だけが、オタク的コンテンツに宿るオタク魂の「総本山」としての権威を担うことになり、特権化された場所であり続けることでしょう。
■でも僕は、そういうことはなく、時間の問題だろうと思います。各国が〈社会的文脈の無関連化〉において等価な機能を果たすコンテンツを生み出せるようになる程度に応じて、「総本山」神話は薄れます。むろん、今のところは、まだ偏差があるというのが事実です。

――日本と韓国にしか作れないというのは大事なポイントだと思います。これは負け組の社会だから、と言えるのかどうか。例えば日本であれば、敗戦のルサンチマンがあるとか、そうした歴史的背景や記憶がまだまだ使えるということがいえるのでしょうか。

宮台■そこは研究ネタの宝庫です。僕の考えでは歴史的背景はずっと古く遡ります。例えば日本と韓国のどちらが演歌のオリジンかという論争を長くやってきました。在日も帰化人も多数います。むろん同じウラル・アルタイ語族で、言葉の分岐もそう古くありません。
■百済や新羅の国の頃まで─高句麗が覇権を握るまで─は通訳を介さずに大和朝廷の役人が半島の役人と会話ができました。そういう具合に相当古い「秘密」に遡れます。19~20世紀的近代化における後発国という話より、ずっと古い「秘密」に遡れるでしょう。
■僕は祭りが好きなので、日本各地のお祭りや、韓国や中国のお祭りを見てきたのですが、郷土的な祭儀や祝祭の分析がヒントになる気がします。今でこそ日本は非血縁主義で、琉球や韓国は血縁主義という違いがありますが、後者の血縁主義は漢民族の影響によります。
■ユダヤ系が強力な母系血縁制、中国系は強力な父系的血縁制ですが、エマニュエル・トッド的に言えば、ユダヤはバビロン捕囚以来ディアスポラであり続け、中国は殷王朝以来ジェノサイドの歴史を経験し続けたからこそ、場所性に関係ない絆による相互扶助という社会的装置を発明した。
■琉球にも半島にもこれ程の歴史はない。だから、郷土の祝祭や祭儀は専ら、土地にへばりついて生きてきた農耕民のもので、それゆえアニミズム的要素に満ちています。例えば、自然物のみならず人工物にも魂が宿り、人格神はパンテオン(神々集団)を作るのです。
■フルアニメーションならざるリミテッドアニメに前提を提供している、漫画絵自体の洗練を見るにつけて、〈アニミズムとパンテオンの共通感覚〉に遡る必要があると感じます。日本的アニメのルーツを絵巻物に遡る人や、掛け軸に遡る人がいるけど、溯及が不十分です。

【オタク・コンテンツが育まれる条件】
――以前、宮台さんがおっしゃっていたのは、宮崎駿にせよ押井守にせよ、近代化少年であって、生来のメカマニアみたいなところがあって、それがオタクの原点だということでしたが。

宮台■〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚がポイントです。どの先進国にも多数いるメカマニアとは違います。例えば押井守アニメに特徴的な「人よりも物(メカ)が輝く」という感覚です。押井も僕も人形コレクターですが、「人よりも人形が輝く」のも同じです。
■押井は映画版『パトレイバー』で昭和30年代的風景を描き、同じく映画版『パトレイバー』で中国返還前の香港的風景を描きました。とてもノスタルジックです。でもそのノスタルジーは「昔は人が温かかった」といった類の脳天気な「思い出の捏造」から自由です。
■昭和30年代は人が温かかった時代ではない。凶悪犯罪は現在の5~7倍発生していたし、尊属殺に至っては現在の30倍も起こっていた。人が温かかったのではなく、愛憎ともに激烈だった時代。その意味では、身体距離が近かった時代、共通身体性が存在した時代です。
■昭和ノスタルジーの本質は〈人が温かかった時代〉ならざる〈物が輝いた時代〉。昭和30年代の3S(炊飯器・掃除機・洗濯機)から昭和40年代の3C(カー・クーラー・カラーテレビ)への流れもそう。僕の家にも車購入記念日やクーラー購入記念日がありました。
■「物が輝いた時代」の小中学生男子は例外なく乗り物好きでした。汽車や電車、車、飛行機、ロケット。国電に乗れば運転席の後ろには子供たちが鈴なりで、窓を背にした一列ベンチシートには子供が窓側を向いて膝立ち状態で、母親に靴を脱げと叱られていました。
■〈人工物に魂が宿る〉という感覚は戦間期前期(1920年代)に遡ります。フリッツ・ラング『メトロポリス』(ドイツ・1927年)が典型ですが、とりわけ後発近代の旧枢軸国では人工物に魂が宿るという共通感覚が、小説や映画などの多くの表現に刻印されています。
■日本なら江戸川乱歩の「怪人20面相」的世界。乱歩が活躍した1920年代と言えば関東大震災を挟んだ大正ロマンと昭和モダンの「モダニズムの時代」です。この時代、日露戦争後の重工業化がもたらした都市化を背景に、クレシェンドとデクレシェンドが交差します。
■モダンな十二階の下に盛り場。盛り場の周囲に芝居街。芝居街の周囲に色街が拡がった浅草の風景。都市化によって消え行くものと都市化によって浮かび上がるものが交差して綾を為すのがモダニズム。乱歩も川端康成も1930年代的な銀座のモダンを嫌悪しました。
■1955年(昭和30年)から十五年間の昭和全盛期も同じです。ただしモチーフは都市化から郊外化(団地化)に変じました。つまり、郊外化によって消え行くものと郊外化によって浮かび上がるものが交差して綾を為し、いっとき1920年代的なものが反復したのです。
■この反復を象徴する映画が鈴木清順『殺しの烙印』(1967年)です。ビルヂング、アドバルーン、エレベータ、トヨペット、炊飯器、ネオン、キャバレーといった「物の輝き」が---「物の輝き」に比べて「人の輝き」が劣ることが---圧倒的な説得力で描かれていました。
■そう。「物が輝く」ということと、都市や郊外に「仄暗いもの」「得体の知れないもの」が存在するということが、完全に同義でした。僕は、沢木耕太郎『深夜特急』(1986年)の時代にバックパッカーとして東南アジア旅行をし、そのことを完全に確信しました。
■〈仄暗い〉と言いました。消えゆくものが「闇」。浮かび上がるものが「光」。そして「闇」と「光」が眩暈を彩なす時空が〈仄暗い〉のであり、そこにはエログロナンセンスが溢れます。そのことの集合的記憶がオタク魂の種を育んだのではないかと睨んでいます。
■1920年代の〈仄暗い〉時空は浅草でした。60年代の反復における〈仄暗い〉時空は「街全体」としてより、非常階段・屋上・松葉杖・包袋ぐるぐる巻きの人といった「徴候」として現れるようになります。ちなみに僕はそれらを〈片輪的オブジェ〉と呼んできました。
■映画批評を長くしていて分かるのですが、日本の60年代(正確には50年代後半から70年まで)と、韓国の90年代(正確には80年代後半から2000年にかけて)は〈片輪的オブジェ〉を含む映画的シンボリズムが日韓で酷似します。これがオタク魂の共通の土壌です。
■そして2000年からは中国が日本と韓国を追いかけていると見えます。実際どうなのか。賈樟柯(ジャ・ジャンクー)という監督と話したことがあります。彼が三峡ダムを取材したドキュメンタリーをベースに『長江哀歌』という劇映画を撮ったのが、2007年でした。
■そこでの風景が昭和30~40年代の日本と実に似ています。賈樟柯にそのことを尋ねたら、彼は「似ている面と全く違う面が貼り合わさっている」と答えました。いわく、中国では急速な都市化と郊外化が同時に襲い、貧困化と格差化が激烈に展開している真っ最中だ。
■ところが貧困化した失業層ほど携帯電話にすがる。携帯を通じて職を探し移動するからだ。そしてその携帯を通じてグローバル化した世界の同時性に繋がる。その意味でかつての日本と似て非なるものが混じる。今の中国を過去のどこかの国に擬えるのは無理だ、と。
■ちなみに中国は文化大革命によって地縁的な共同性が壊滅させられた結果、日本や韓国と違って地域共同体の祝祭がほとんど残っていません。家族親族ネットワークの中で旧正月を祝うといった形が専らです。僕のゼミの多数の中国人留学生らもそう証言しています。
■僕たちは自明なので意識しませんが、八百万のカミ的なアニミズムと結びついた本当に古くからの地域の祭りを行い続けているという点で、日本と韓国は本当に珍しい先進社会だと思います。それが〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚と結びついていると感じます。
■でも、〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚はオタク魂の必要条件の一つに過ぎません。そう思うからドイツなどの後発近代化国の戦間期を事例に挙げました。この共通感覚を洗練された表現に練り上げるセンスは、アニミズムとパンテオンをさらに要求するでしょう。


【物の輝き・人形の輝き・アニメの輝き】
――英語版(『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』)を出す時に、アメリカで面白い反応がありました。本の中で、アニメを扱った章は人気があるのですが、鉄道を扱った章は全く反応がないんです。モノの輝きが全然伝わらないんです。私は衝撃を受けました。そう考えると、オタク・オリエンタリズムを超える時に、アメリカの人に対して、モノが中心性を持つというのが伝わらないのかと思うのですが、これはどう思われますか?

宮台■浄瑠璃を中心とする古い表現を辿ると〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚とは別に〈周辺的な存在に、真実と力が宿る〉という共通感覚を見出せます。それもまた日本のオタク的コンテンツの精髄だとして、米国の講演では〈オフビート感覚〉と名づけました。
■『サブカル神話』で述べ、最近でも円谷プロ『怪奇大作戦』シリーズDVD-BOX下巻の解説でも詳述した通り、「怪獣は悪くない、悪いのは人間だ」「罪人は悪くない、悪いのは社会だ」という発想が、手塚治虫SF三部作以降、日本の漫画とアニメに浮上しました。
■これは一口で言えば〈周辺的存在にこそ、真実が宿る〉というモチーフです。これとは別に『サイボーグ009』の石森章太郎作品に見られるように〈周辺的存在にこそ、力が宿る〉というモチーフもあります。この〈オフビート感覚〉は米国には基本的にありません。
■似たモチーフはありまくす。「ポカホンタス伝説」です。「原住民を痛めつける悪い白人の中に一人の英雄がいて、原住民の酋長の娘を娶った上、原住民のために白人と戦って命を落とす」という内容です。テレンス・マリック『シン・レッド・ライン』が典型です。
■しかしこれは、「悪いと批判される我々の中にも、正しい者がいる」という、「オフ」ならざる「オン」ビート感覚であって、「我々が戦う敵(怪獣や罪人)こそが正しく、我々(人類や市民)が間違っている」という〈オフビート感覚〉では、まったくありません。
■『ジャングル大帝』が典型ですが、60年代の子供向けコンテンツの多くが「人類は間違っている、人間社会は間違っている、以上」で終わります。小学生の僕らは「え?」と呆気にとられました。日本のコンテンツを激しく好む米国人の多くがそこに反応するのです。
■「番組を左翼が作っていたから」とか「自虐史観のなせるワザ」と頓珍漢なことをほざく輩もいるけど、米国にも左翼はいるし、敗戦国は日本だけではない。頭が悪すぎます。仮に自虐史観なるものがあるとすれば、それこそが伝統的〈オフビート感覚〉の帰結です。
■という具合に僕は米国講演でも主張し、「罪人こそ正しい」的な表現をグラムシの階級的覇権闘争の観点から解釈しがちなカルスタを「日本の戦後にありがちな輸入業者に過ぎない」と断じたところ、反論の集中砲火を予想したのに、何と拍手喝采の渦になりました。
■今の質問は、欧米では〈人工物に魂が宿る〉的な共通感覚は理解されにくく、〈周辺的存在に力が降りる〉的な共通感覚は理解され易いのではないか、と言い換えられます。答えはイエス。後者は現に摸倣されています。でもオタク魂の核は、摸倣しにくい前者です。

【周辺に置かれたものの輝き】
――鉄オタみたいなモノの中心性はなかなか理解できないけれども、社会的文脈を無関連化する振る舞いは理解できるということでしょうか。

宮台■〈人工物に魂が宿る〉という感覚よりも〈周辺的存在に力が降りる〉という感覚の方が米国人に理解されやすいのは経験的事実です。米国人の場合には、〈周辺的存在に力が宿る〉に似た「ポカホンタス伝説」が、〈周辺的存在に力が宿る〉への通路になります。
■ヒューマニティ(人らしさ)を称揚する人はどの国にもいます。ヒューマニティを表現する際「ヒューマニズム(人間中心主義)の肯定を通じてヒューマニティを肯定する形」と「ヒューマニズムの批判を通じて真のヒューマニティを表現する形」の二つがあります。
■「ポカホンタス伝説--排除される側に立って戦う我らが英雄の話--」は、「ヒューマニズムの批判を通じて真のヒューマニティを表現する形」のバリエーションです。このように抽象化すると、〈周辺的存在に力が降りる〉もまたバリエーションの一つだと分かります。
■浄瑠璃の世話物(心中物)、例えば近松門左衛門「新版歌祭文野崎村乃段(しんばんうたざいもんのざきむらのだん)を振り返りましょう。「障害を乗り越える愛」に挫折した二人が最後に心中を決意するのですが、その瞬間に二人に光が降り注ぐ、という形式です。
■無論スポットライトがあたる訳でなく--元々自然光や篝火の舞台ですから--そう感じられるということです。「排除される側に立って戦う我ら世間側の英雄」は登場しません。我ら世間が二人を闇へと追いやると、二人に光が降りる。それを我ら世間が目撃するのです。
■先に述べた通り「光」と「闇」が綾を為す時空は「仄暗い」。つまり「得体の知れぬもの」です。そこでは自明な世間が、非自明性の広大な海に浮かぶ小島の如きものとして観念されています。米国人は、そうした観念こそがヒューマン(人間らしい)と読む訳です。
■「ポカホンタス伝説」は一般にハッピーエンドですが、テレンス・マリック的「ポカホンタス伝説」では「排除される側に立って戦う我らが英雄」はそれゆえ滅ぶバッドエンドです。この「バッドエンド版ポカホンタス」は〈周辺的存在に力が降りる〉に近接します。

――アメリカは通常は逆ですね。最後はハッピーエンドになります。

宮台■そう。例えばリドリー・スコット監督『ブレードランナー』。劇場(プロデューサーズカット)版は米国人好みの「ハッピーエンド版ポカホンタス」ですが、ディレクターズカット版は「バッドエンド版ポカホンタス」。興行サイドは一般に前者推しになります。
■日本は相対的にこうした興行事情がありません。小学生のとき僕は白土三平原作アニメ『忍者サスケ』『カムイ外伝』を見ました。アニメ版『サスケ』は漫画全14巻の8巻分だけで、話が暗くなる直前で最終回になりました。ところが『カムイ外伝』は全く違いました。
■迫害に次ぐ迫害を受けた被差別民カムイが、最後に美しい村娘とその家族と知り合って安住の地を見つけたと思ったところが、最終回、娘と家族も全員毒殺されてカムイが一人寂しく荒野に消えるシーンで終わる。小学生の僕は腰を抜かします。米国ではあり得ない。
■同時期アニメ版『サイボーグ009』が放映されます。アニメ版脚本はSF作家辻真先が最終回を書きましたが、この最終回の絶望のカオスとも近い。原作『サイボーグ009』も暗い話。後の「仮面ライダー」と同様、あの九人は最終破壊兵器で、周辺的存在そのものです。
■アニメ版を含めたテレビ版には微妙な所がありますが、石森章太郎の原作漫画には〈周辺的存在に力が降りる〉(闇に光が煌く)というモチーフと、そうした逆説に満ちた世界の〈仄暗さ〉とが、見事に描き込まれています。古典劇の概念で言えば〈翻身〉譚ですね。
■世話物の話をしたけど、心中を決意した瞬間に光が降りるのが〈翻身(オルタレーション)〉。スーパーマンの如く「変身」は元に戻れますが、〈翻身〉は戻れません。仮面ライダーでもサイボーグ009でも、「変身」は〈翻身〉した主人公らの処世術に過ぎません。
■1968年『ウルトラセブン』シリーズ終了後に放映された『怪奇大作戦』では、「社会から虐げられた者が犯罪を以て復讐する」形式が反復されます。実相寺昭雄監督の回の全てがそうですが、復讐の瞬間、復讐者には心中者と同じ「光」=「闇の力」が降りています。
■これは相当古い形式です。例えば、能でワキ(旅の僧)を訪れるシテ(あやかし、亡霊、精霊、カミ)は、土地にゆかりの者として現れた後、消える寸前にその正体を現しますが、〈周辺的存在に力が降りる〉の典型です。この形式を完成させた世阿弥は14世紀の人です。
■折口信夫の『死霊の書』も〈周辺的存在に力が降りる〉を反復しますが、その主人公でもある天皇は、失われたほかひゞとの痕跡です。ほかひゞとのルーツは、安藤礼二氏によれば、内部に於ける「絶対平等」と外部に対する「絶対戦争」を原理とする移動集団です。
■「戦争常態化を前提として〈変性意識状態〉を常態化した存在」で、二十年前に飯田譲治が脚本を書いた深夜ドラマ『NIGHT HEAD』のオープニングに描かれた如きイメージです。社会の始源たる集合的沸騰状態(デュケーム)を生きる存在が折口の云うほかひゞとです。
■原初的社会というと、一般にハレとケの交代がある部族社会段階を考えます。この場合[ケ(日常)⇒ケガレ(日常の頽落)⇒ハレ(非日常の呼込)⇒ケ(日常)]というサイクルが想定されています。そこでのほかひゞとは、ハレの日の祝ひゞとに変性しています。
■つまり、社会的始源と違い、原初的社会では既に、始源的な湧き上がる力や得体の知れない力---謂わば〈黒光りした戦闘状態〉---は、常態化してはならない〈カオス〉ないし〈変性意識状態〉として、〈秩序〉ないし〈通常意識状態〉から区別され囲い込まれています。
■折口によれば、天皇は、我々が平時から疎外したそうした力を新嘗祭と大嘗祭を通じて定期的に取戻す役割を帯びます。それを帯びうるのは天皇が〈周辺的存在〉だからで、各地の祭に登場する、ほかひゞとの力を降臨させる翁(まれびと)が、天皇の元型なのです。
■先に〈周辺的存在に降りる力〉と言いましたが、折口によると、最古層においては〈周辺的存在〉がまれびと、〈降りる力〉がほかひゞとの時空です。安藤氏によれば、折口は台湾先住民(高砂族)に関する『蕃族調査報告書』の精読からこの図式を編み出しました。
■実はこの図式は、三千年以上前からのギリシア史に詳しい者にとって馴染みのものです。カスピ沿岸から最初に移住したアカイア人と後続ドーリア人との血みどろの闘争(暗黒の四百年)の末、漸く平時(ケ)と戦時(ハレ)を交代する都市国家の集合になったのです。
■その意味で「社会的始源から原初的社会へのシフト」や原初的社会における「社会的始源における湧き上がる力の囲い込み」は日本独自というより普遍的な古層です。相当近代化したのにこうした古層を各地の祝祭や天皇概念として保存していることが珍しいのです。

[以上前半部分です。後半部分を含んだ全体は『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』日本語版(タイトル未定)をお求め下さい]


廣松渉先生について語りました。前半部分だけ掲載します。やがて『情況』に全体が掲載されます

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<広松渉との交友>

宮台 廣松渉さんとの出会いから。お顔を拝見したのは一九七八年。東大・駒場キャンパスに通っていて、当時の2号館で廣松先生の講義を拝聴しました。授業は大人気で立ち見状態。教壇の前まで立ち見が埋まり、廣松さんが「まるで立ち会い演説会ですね」とおっしゃったのを覚えています。
 廣松さんを意識したのはそれに先立ちます。僕は中二で若松孝二と足立正生の映画にハマりますが、映画批評家で第四トロツキスト同盟元活動家の松田政男さんの本がきっかけです。麻布中の図書館にあった松田さんの『薔薇と無名者』に廣松さんのことが書いてあって、東大に入ったら廣松さんの所に行こうと思いました。
 「廣松さんは哲学者の姿をした革命家だ」という旨が書いてあったのですが、若松さんと足立さんを「映画作家の姿をした革命家だ」と思っていたので、似ているぞと。松田さんは「表現を通じた意識変革」を目指すグラムシ主義者なので、そんな在り方を推奨するんです。因みに松田さんや足立さんの周辺は六九年から〈風景論〉の論陣を張っていました。
 永山則夫連続射殺事件があった際、旧左翼の人たちは、見田宗介の『まなざしの地獄』が典型的ですが、「田舎から東京に出て、都会から疎外された」という図式で見ました。若松プロ周辺の新左翼はそうは考えず、「田舎から東京に出て来たが、風景が何も変わらなかったことに苛立った」と見て、これを松田さんが〈風景論〉と呼んだのです。
 宮台的に言えば、〈ここではないどこか〉に行こうと上京したが、東京が〈ここ〉でしかない事実に苛立ち銃弾を発射した。〈どこかに行けそうで、どこへも行けない〉。ハイデガーに従えば、人に固有な理性の働きゆえに、〈ここではないどこか〉を〈ここ〉にもたらした途端やはり人は〈ここではないどこか〉を夢想する。〈脱自〉と言います。
 若い頃リッケルトとマッハとハイデガーの影響を受けた廣松さんの物象化論は〈風景論〉です。〈ここではないどこか〉に「失われた楽園」があってそこに行けば救われるという〈本質疎外論〉を否定する。つまり、たとえ「楽園」が〈ここ〉にもたらされても、「そこが本源だから、〈ここではないどこか〉はもうない」とする発想を否定します。
 松田さん経由で高校で『世界の共同主観的存在構造』『事的世界観の前哨』を読み、これは〈風景論〉だと思い、ハマりました。それが廣松さんのところに行った理由です。五木さんと廣松さんとの共著『哲学に何ができるか』が出版されたのは一九七八年。僕が大学に入った年で、出版直後に読みました。大学の生協には山積みでした。

<広松の背後にあるもの>

宮台 僕は七三年まで続いた中学高校紛争の最終世代。紛争の中で最初に読んだのが、『マルクス主義の地平』と『マルクス主義の理路』です。そんな経緯もあって、僕は廣松さんを哲学者だと思ったことがなく、マルクス主義まで含めた哲学の〈真理の言葉〉を、機能的・戦略的な道具として使う印象を持ちました。
 それだけでなく僕は廣松さんをマルクス主義者だと思ったこともない。五木さんの仰る通り、廣松さんは亜細亜主義者だと考えます。因みに十年程前、戦旗の主催で南京大学出版記念イベントがあり、「廣松はプロレタリアン・インターナショナリズムでなく亜細亜主義だ」と話したら、面白いことが起こりました。
 今は亡き荒岱介が立ち上がって「宮台! 何を言うか。廣松こそがまさにプロレタリアン・インターナショナリズムだ!」と叫ぶと、塩見孝也が立ち上がって「いや、全く宮台の言う通りで、廣松さんは亜細亜主義者だ」と反論。すると奥様がスッと立ち上がり、「廣松の口癖は『尊皇攘夷』でした」と。これで全てに決着がつきました(笑)。
 亜細亜主義者には、明治前期の岡倉天心に遡れば「力の文明か、美の文明か」、あるいは戦間期の石原莞爾や大岡周明であれば「欲望国家か、道義国家か」といった二項図式を使う。廣松さんも同じで、「実体主義か、関係主義か」あるいは「ギリシア的伝統か、仏教(中観派)的な伝統か」の類の対比は〈亜細亜主義的二項図式〉そのものです。
 実際、廣松さんは軽口で「ロスケ」という蔑称を使いました。彼をマルクス主義者として理解すると間違います。廣松さんはマルクスから決定的なことを学んだのではない。物象化論を含め、彼自身に元々内在する世界観をマルクスに読み込んだ。もっと言えば、マルクス主義を改鋳し、彼の世界観に引き付けた。
 「だから廣松は素晴らしい」というのが僕の考えです。マルクスとエンゲルスに対する解釈が正しいか、哲学者としてオリジナリティがあるか、僕には関係ありません。関係あるのは、マルクス主義でさえ廣松世界観に合わせて改鋳するほどの〈ヴィルトゥ virtu〉(内から湧き上がる力)の存在だけです。
 ロマン主義は〈超越への志向〉です。正確には「不可能と知りつつ超越に近づこうとする志向」。廣松さんそのものです。佐藤優さんが『共産主義を読みとく』で、マルクス主義における疎外論は〈失楽園譚〉でキリスト教的だとした上、廣松さんはそれを明示的に否定して物象化論を展開したから、反キリスト教的だとします。
 ミスリーディングです。実は物象化論も一種の疎外論です。疎外論には〈本質疎外論〉と〈受苦的疎外論〉があるのです。〈本質疎外論〉は本来性からの疎外を考えます。本来あるべき状態から離れているとの意味で、多くは本来性が始源に想定され、本来性を取り戻すことが救済になる。疎外論的マルクス主義における革命がまさにソレ。
 〈本質疎外論〉では「本来性からの疎外」が問題ですが、〈受苦的疎外論〉では「別であり得た可能性からの疎外」が問題です。〈世界〉はいつも「本来なら別様であり得たのに、これでしかあり得ない」というふうに現れます。〈世界〉はいつも「別様であり得た可能性」と共ににあり、我々はいつも「別様であり得た可能性」から疎外されている。
 〈本質疎外論〉では〈ここではないどこか〉から疎外されない最終のここ〉を考えますが、〈受苦的疎外論〉では、人が理性ゆえにどんな〈ここ〉にも〈ここではないどこか〉を対置する以上〈ここではないどこか〉からの疎外は克服不能とします。にもかかわらず、両者共に〈ここ〉が〈ここではないどこか〉から隔てられているという意味で、疎外論なんです。
 廣松さん的には〈ここではないどこか〉を探す旅にゴール---最終的な〈ここ〉---があると見做す〈本質疎外論〉は、本来性という「ゴールの物象化」ゆえに誤り。でも、ゴールを初めから到達不能と見做しつつ永久に〈ここではないどこか〉を求める旅を奨励する〈受苦的疎外論〉は正解。まさに「不可能と知りつつ超越に近づこう」とする初期ロマン派です。
 〈本質疎外論〉に対置される物象化論は教義学的に〈受苦的疎外論〉です。ロマン派に擬えれば、到達「可能」な全体性(民族精神!魔の山!)を想定する後期ロマン派---ナチス思想の母体---が〈本質疎外論〉の形式で、全体性は到達「不能」だと当初から見做す初期ロマン派は〈受苦的疎外論〉の形式です。実は観念史的に反復されてきた差異の形式なのです。
 小林敏明さんも『廣松涉---近代の超克』という伝記の中で---僕の言葉でパラフレーズしますが---九州で育った廣松渉さんが、東京を〈ここではないどこか〉だと夢想して上京したものの、東京も〈ここ〉でしかなかったことが原体験となり、〈ここではないどこか〉の夢想が不可能性と結合し、独特の文体となったとする。本質をついています。
 これは『連続射殺魔』(1970年)を撮った〈風景論〉者の若松孝二と足立正生が、ドキュメンタリー素材の永山則夫に読み込んだ事情と同一図式です。彼ら曰く、永山則夫もまた、〈ここではないどこか〉を求めて東京に出てきたものの、そこは津軽と大差ない〈ここ〉にしか過ぎず、どうにも変わらない風景を切り裂くために銃弾を発射した⋯。
 因みに、佐藤優さんの指摘通り、廣松渉さんは新左翼を究極には信じていませんでした。思うにその理由は、新左翼が、永久に到達不能と知りつつ〈ここではないどこか〉を希求する実存主義的なものだと知っていたから。廣松さんは「実存主義的構えが貫徹できれば、革命が成就しなくてもいい」とは考えなかった。それ自体を実存的不徹底だと見たんです
 左右概念を確認すると、資本主義の肯定否定、再配分の肯定否定は関係ありません。北一輝や石原莞爾のように「資本主義を否定する」右翼、「再配分を肯定する」右翼が戦前は珍しくありません。初期ギリシアに辿れば「理想社会を実現すれば人は幸せになる」とする〈主知主義〉が左。「理想社会を実現しても人は幸せにならない」とする〈主意主義〉が右。
 戦前はこれが常識。〈主知主義〉と〈主意主義〉の差異は19世紀初頭に活躍したプロテスタント神学者シュライエルマッハによる弁神論分類が参考になります。「全能の神が創造した世界に悪があるのは変だ、全能の神などいないのではないか」といった議論に対して神の存在を弁護する議論が〈弁神論〉です。これを巡りスコラ神学が分岐しました。
 世界に悪があるのは「神の計画」だとするのが〈主知主義〉者。むろん相対的存在である人間には、絶対神が何をどう計画しているのか最終的には判りません。これに対し、神は絶対的存在だから何をも望み得るとするのが〈主意主義〉者。神の意図は端的なもので、神が気まぐれだったり悪を意図したりすることが妨げられません。
 〈主意主義〉者からすれば、創世記が人は神の似姿とする以上、人の意思も端的なもの。合理的だから意図するとか、非合理だから意図しないとかは、意図の本質からズレます。因みに社会システム理論の創始者タルコット・パーソンズは、計算合理性から外れた意思を勘案した自らの行為理論を「主意主義的な行為理論」と名付けました。
 〈主意主義〉者の言うように人の意思が端的ならば、理想社会が肯定する善悪枠組の内側でだけ人が意思するとは限らず、その場合は理想社会の善悪枠組が意思を挫きます。だから「理想社会を実現しても人は幸せにならない」。他方、〈主知主義〉者にとって人の意思は計算可能なので、周到な計算で「理想社会を実現すれば人は幸せになる」のです。
 麻布が叛旗派や中核派の拠点だったので、「理想社会を実現すれば人か幸せになる」とする〈主知主義〉が「旧左翼」、理想社会を実現しても人は幸せにならないとする実存主義(〈主意主義〉)が「新左翼」だと、中学で知りました。後者は「マル存主義(マルクス主義的実存主義)」とも呼ばれていた。先の戦前的尺度で言えば「新左翼」は右です。
 冒頭の説明とマッチさせれば、〈ここではないどこか〉の探索に終わりがあるとする〈本質疎外論〉は〈主知主義〉的であるがゆえに左翼的。他方、ハイデガーが理性概念を用いて示すように〈ここではないどこか〉の探索に終わりがないとする〈受苦的疎外論〉は〈主意主義〉的であるがゆえに右翼的。そして廣松さんは後者。
 「新左翼」は、戦前右翼と同様、〈主意主義〉的であるがゆえに実存主義的です。〈主知主義〉を否定する分、徹底した計算合理性の貫徹で革命をもたらそうとする態度が欠如しがち。廣松さんはこれを革命意志の弱さだと捉えていました。だから徹底した計算合理性の貫徹を目指す共産党ないし講座派に近く、能天気な労農派を嫌いました。


<宗教・哲学そして廣松渉>

宮台 宗教の話に引き付けると、「これが本来的だ」と名指せると信じる宗教と、「本来的なものは名指せない」と信じる宗教の、二つがあります。千年王国論を信じるアメリカのエヴァンジェリカルズ(福音諸派)が、名指せると信じる宗教の典型です。これに対して、スピノザ的な汎神論は、名指せないと信じる宗教の典型です。
 キリスト教は微妙です。神の命令を戒律として名指せるとするパリサイ派のヤハウエ信仰に対し、イエスが真のヤハウエ信仰ではないと却けたからです。ユダヤ民族は北王国がアッシリアに征服されてから南王国がバビロニアに征服されるまでに、生贄を捧げることで神の救いに預かろうとする振舞いが、神と取引きする瀆神的な営みだと気付きます。
 以降のヤハウエ信仰は〈生贄から贖罪へ〉とシフト。瀆神的な営みを含めた罪ゆえに神が救ってくれないのだと理解する。かかる理解へのプロセスがトーラー(旧約)に刻まれます。これは五百年余りかけて練り上げられますが、一貫した理解ができないように書かれています。新約の四福音書の間も矛盾だらけ。なぜか? 理由が重大です。
 ユダヤ民族は、生贄を授けることで救いにあずかろうとする振舞いが、取引きで神を制御しようとする瀆神的な営みだと気付き、続いて、罪を犯さぬことや犯した罪を利他行で贖うことで救いに預かる振舞いも、取引きを通じて神の偉大さを傷つける営みだと理解します。神は絶対的存在で、相対的存在である人間と取引きなどする訳がないと反省します。
 相対者は絶対者を理解できないという〈原罪譚〉は重大です。でも、それが含意するのは、取引きによる約束があるとして善行をなす者は、自らが救われたい余りに絶対者の意思を矮小化するエゴイストだということです。自分が救われたいのは自意識つまり〈自己〉の問題。社会に救われるべき人がいる(から救う)のは〈世界〉の問題です。
 トーラー(旧約)が頁をめくるごとに矛盾するように書いてあるのは---例えば創世記第1章では神は一日で人を作ったとあるのに第2章ではアダムが寝ているときに肋骨からイヴを作ったとある---、神の言葉をリテラルに読み取れないようにすることで、「神の言葉通りに振舞うことで救い預かろうとする瀆神者」が出てこないようにする工夫です。
 でも「それじゃ救いに預かれないので困る」ということで、トーラーを書き換え、守ったか否か確認できるミツヴァ(戒律)を作ったのがパリサイ派。このパリサイ派を「〈自己〉の問題を神のメッセージという〈世界〉の問題と取り違える、浅ましき頓馬」と断言したのがイエス。四福音書の「マグダラのマリアの挿話」の意味もそこです。
 吉本隆明から小室直樹を経て橋爪大三郎さんまで「ユダヤ教が〈戒律宗教〉だったのを、イエスが喩を通じて〈内面宗教〉にした」と言います。聖書学的には誤り。イエスは、ユダヤ教は元々戒律宗教ではないとして元の姿の回復を企てたんです。マグダラのマリアの話も、トーラーとミツヴァが等価だとは実はラビでさえ思っていない事実を、指し示したもの。
 ところがイエスの死後、ローマ戦争を挟んでユダヤ教がパリサイ派方向に特化、イエスを含めた改革運動を切り捨てたので、ユダヤ教が〈戒律宗教〉でキリスト教が〈内面宗教〉だという分化が生じました。この分化を以て「キリスト教の誕生」と見做し、イエスがユダヤ教改革派だと見做されていた時期までのものを「原始キリスト教」と呼びます。
 この経緯が示す通り、イエスが理解する元々のユダヤ教は---従ってイエスの言行に由来するキリスト教も---「これが本来性だ・全体性だ・超越だ」とは名指せない神学的構造を持ちます。神の意図を名指せると見做すと、神を取引きで制御する瀆神的な振舞いに及びがちです。イエスの理解する〈原罪譚〉はこうしたものです。
 創世記にある通り、楽園追放の理由となる原罪とは、人のなす区別(善悪判断)を神のなすそれと等置すること。神のなす区別と違い、人のそれは必謬的。例えば、時間性に着目すれば、「人間万事塞翁が馬」で結局何が善いのか人には判らない。また空間性に注目すれば、集合論的にどんな包摂(内の平等)も排除(外への差別)を含まざるを得ない。
 また、禁忌を破って知恵の木の実を食べ、必謬的な区別(善悪判断)をなすようになって楽園を追放された人間が、知恵の木の実を食べる前の楽園生活の記憶を、論理的に持たないことも、大切です。人間は楽園生活の本来性を原理的に知らないから、楽園生活の本来性は取り戻せない。だから〈失楽園譚〉を〈本質疎外論〉としては読めません。
 人には全体性が不可知なので必ず誤る(のにそれを忘れる)とする妥当な〈原罪譚〉と、人は楽園生活に戻ることは論理的に不可能なので永久に誤りによって苦しみ受け続けるとする妥当な〈失楽園譚〉は、人為による救済を徹底否定する点で、〈本質疎外論〉よりも〈受苦的疎外論〉です。その意味で、むしろ廣松さんの構えにこそ似ています。
 因みに〈本質疎外論〉は、回復すべき本質や全体性を知り得ると見做す〈主知主義〉で、社会的自明性の欠如ゆえに絶えず全体性を参照したがる、実念論(普遍実在論)を含んだ大陸合理論に近縁。他方〈受苦的疎外論〉は、本質や全体性を依存的心性の表れと見做す〈主意主義〉で、社会的自明性ゆえに経験を参照したがる、唯名論を含む英米経験論に近縁。
 廣松さんは後者です。廣松さんはドイツ観念論出自なのでそれが判りにくいですが、ドイツ観念論にも、〈主知主義〉を嫌って〈主意主義〉を推奨した初期ギリシアを参照しようとする古代ギリシア文献学者の系譜、つまりニーチェとハイデガーがあります。廣松さんはハイデガーの影響を受けた分〈主意主義〉的で、從って実存主義的なのです。
 シュライエルマッハの思考伝統に従えば、〈主知主義〉が左、〈主意主義〉が右の定義だと言いました。廣松さんは「晩年に東亜新体制論を語ったから亜細亜主義的な右だ」と言われますが、それはどうでもよく、廣松さんは〈本質疎外論〉を否定して〈受苦的疎外論〉にコミットする〈主意主義〉だから、右でしかあり得ないんです。
 キリスト教を〈本質疎外論〉だとする俗論は、確かに福音諸派には当て嵌まるし、一般信者レベルでは他の宗派でも広く信じられるけど、今日の聖書学では否定されるし、聖書重視を打ち出した第二バチカン公会議以降のカトリック聖職者も多くは俗論を否定する。廣松さんは〈本質疎外論〉を否定するから反キリスト教だというのは、当たりません。
 宮沢賢治の話が出ました。賢治も〈主知主義〉を否定するがゆえに〈本質疎外論〉を否定する点、廣松さんに似ます。遺作『銀河鉄道の夜』は途中で編集が変わってデタラメな内容になったまま現在に到りますが、元々は賢治が何ゆえ満州事変首謀者石原莞爾や上海事変首謀者重藤千秋と同じく国粋的な日蓮主義団体の國柱会に傾倒したのかを示すものです。
 藤城清治率いる木馬坐の影絵劇『銀河鉄道の夜』を教育テレビで観て、学校の図書館で読んだのが1966年、小二のとき。ところが1968年に図書館で再読して仰天します。話が変わっていたんです。巻末に説明があった。弟・宮沢清六氏、最初の原稿整理者・森荘巳池氏、岩波版童話全集の編集者・堀尾青史氏の三者協議で、内容が大幅に変更されたというのです。
 カムパネルラの死の位置が変更され、セロの声をしたブルカニロ博士の挿話が削除されました。初期型と後期型と呼ぶとします。四十年間何度も読み返してきましたが、初読の印象が強かった点を割り引いても、初期型が正しい。病死まで十年間改稿が重ねられた作品で、賢治が死なななければ最終型がどうなったか判りませんが、必ず初期型になったはずです。
 僕は、東大に入って図書館で調べているうち、賢治が、田中智學の設立した法華系の国粋的新宗教で、石原莞爾ら大物国粋主義者が心酔する在家団体國柱会の信者だった事実を知り、それで、現世救済の世直し思想を特徴とする法華経について調べて、賢治が長く生きていたら『銀河鉄道』の完成形は、絶対に初期型になっただろうと確信するようになりました。
 後期型では、ジョバンニがカムパネルラと銀河を旅する夢を見た後、丘で目覚めて牛乳をとりに牧場に立ち寄った帰路、カムパネルラの死に遭う。銀河鉄道の夢は死んだカムパネルラによる「お別れ」だったという夢オチです。初期型では、牧場からの帰りにカムパネルラの死に遭って涙にくれるジョバンニが、丘でまどろみ、カムパネルラと銀河を旅する夢を見た後、目が覚めてブルカニロ博士に夢の意味を再確認され、覚悟を抱えて家路につきます。
 初期型が強烈なのは、死んだ筈のカムパネルラが向かいの席にいて、思わず《カムパネルラ、きみは前からここにいたの?》と問いかけるジョバンニの驚きを共有させられるところ。でも本当に強烈なのは、死んだカムパネルラと一緒に銀河の旅をするエピソード自体、ジョバンニがカムパネルラに対して抱く深いリグレットに覆われていることです。説明します。
 冒頭部分、カムパネルラの溺死に遭う直前に、カムパネルラが本当の友達ではなかったと明示されます。ジョバンニの不在の父が、実は出漁中でなく入獄しているのだと囃すザネリが、《ラッコの上着が来るよ(獄中だから上着は来ないよ)》と、二度ジョバンニをからかいきます。ところが、二度目はなんと、カムパネルラがザネリとつるんでいたのです。
 ジョバンニのモノローグが丸括弧で示されます。《(ぼくはもう、遠くへ行つてしまひたい。…ぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやつてもいい。けれどもさう云はうと思つても、いまはぼくはそれをカムパネルラに云へなくなつてしまつた。⋯)》
 ジョバンニとカムパネルラとはお父さん同士も友達だという幼馴染みですが、二人の境遇は対照的です。ジョバンニは病気の母親と二人暮らしで、学校帰りに活字拾いをしながら生計を立てています。カムパネルラの父親は書斎に立派な本を揃える学者で、カムパネルラ自身も背が高い(≒育ちがいい)。つまり、階級の違いがこれでもかと明示されるんです。
 その結果、イジメを見て見ぬふりのカムパネルラと、ジョバンニの断念のモロローグとに、後続する形で、カムパネルラの死が描かれるとき、そこには確実に〈ジョバンニによるカムパネルラの〈階級的殺害〉の印象が生まれるんです。その結果、物語全体に漂うジョバンニのリグレットは、〈階級的殺害〉へのリグレットとして読めるという訳です。
 そのリグレットは、一緒に旅をしたらカムパネルラの方が自分より遙かに利他的で《まことのみんなの幸》のことを真剣に考えていることが判ったという形をとる。〈階級的殺害〉で自分よりも世直しに必要な存在に手をかけてしまったことの暗喩です。これはジョバンニが浅はかだったということか。もっと慎重に考えるべきだったという話なのか。違います。
 人々は良かれと思って世直しをします。世直しに際して如何に慎重であっても血が流れます。それは〈大いなる偉業のための小さな犠牲〉だったと正当化されます。だが世直しも所詮は人のなすこと。世直しが犠牲を贖うに足る価値があったのかどうか分かりません。まさに神のみぞ知る。ならば世直しは手控えられねばならないのか。断じて否⋯という訳です。
 賢治も信仰した日蓮が、世直しの邪魔立てをする念仏宗教(真宗)の僧侶殺害を推奨した事実と併せれば、もはや暗喩の意味は瞭然。國柱会創設者田中智學は、日蓮の本懐を遂げ、勅命による国立戒壇の建設を足掛かりに霊的世界統一(五族協和)に向かうという目標を、日本書紀からの造語「八紘一宇」で表し、大東亜戦争の思想的バックボーンを与えました。
 國柱会に加入しようと上京した賢治の、現実の國柱会を目にした逡巡を含めて、賢治はナイーブではない心酔者だったと思います。ナイーブではないというのは、〈世直しに関わる密教的断念〉があっただろういうことです。〈世直しに関わる密教的断念〉とは即ち「リグレット(慚愧の念)なき世直しがあり得ないことへの覚悟」のことです。
 それは「慚愧の念を欠いた世直しを、許し難き傲慢だと却ける態度」でもある。『銀河鉄道の夜』に繰返し登場する《まことのみんなの幸》《ほんたうの幸》という文言は、蠍座のエピソードを通じてそれが〈不可能な全体性〉であることを暗喩すると同時に、〈不可能と知りつつ、全体性に殉じる態度〉を奨励します。廣松さんと同じ構えと申し上げた所以です。
 廣松さんの話に戻ります。〈本質疎外論〉は虚構的過去に存在した理想状態からの疎外を問題にしますが、廣松さん的には〈協働聯関(≒下部構造)〉に帰属される虚偽意識です。〈受苦的疎外論〉は別様であり得た可能性からの疎外を問題にしますが、常に既に〈ここ/ここではないどこか〉の対立を前提とせざるを得ない人間的理性の摂理に帰属される真実です。
 フッサール現象学に従えば〈ここ/ここではないどこか〉の二重性が〈内在的超越〉です。元は神学の概念で「超越的な神が、世界に内在することを通して、真に超越的であること」を意味します。このように〈内在的超越〉の概念には幾つかのレイヤーがあるんですが、廣松さんの場合、〈協働聯関〉が深層、〈実在(客観)〉と〈観念(主観)〉が、表層を構成します。
 廣松四肢構造論はハイデガーの〈用在性〉論のバリエーションで、何かが何かとして現れるのは人間の潜在行為のなせるワザとします。コップがコップなのは水などを飲むという潜在行為があればこそ。そして潜在行為は先験的な(初めから決まった)ものでなく、社会の〈協働聯関〉に規定されます。つまり〈協働聯関〉が〈実在〉と〈観念〉を相即的に分泌します。
 我々が〈実在〉や〈観念〉の水準で現に特定の〈ここ/ここではないどこか〉の二重性---現象学的〈内在的超越〉---を生きるのは、社会的〈協働聯関〉自体が常に既に、本来なら別様であり得たのにソレでしかないという〈ここ/ここではないどこか〉の二重性---マルクス主義的〈内在的超越〉---を孕むからです。廣松さんは不可視の全体性を〈協働聯関〉に帰属します。
 廣松さんによれば、「〈唯物論/唯心論〉〈実在論/観念論〉といった伝統的二項図式は顛倒であり、〈実在論/観念論〉という二項図式自体が〈観念論〉なのであって、それを〈唯物論〉が克服するのだ」というマルクス&エンゼルスの図式こそ、まさしく〈協働聯関〉が〈実在〉と〈観念〉を相即的に分泌するという図式を意味していることになります。
 〈協働聯関〉は不可視の全体性です。それが視野に収まることは永久にありません。視野を分泌するのが〈協働聯関〉だからです。だから〈観念〉が〈実在〉を反映することもないし、〈実在〉が〈観念〉に従って作り替えられることもありません。だから、我々は自分たちの世直しの正しさを、自分たちの外側にある何かを参照して確証することは、できません。
 こうした発想が反キリスト教的だとは思いません。〈原罪譚〉の最も重要な意味は、本質や全体がたとえ在っても、人間には名指せないこと。知恵の木の実を食べた結果、神に似て分別を行使できるようになったものの、時間的にも空間的にも矮小な相対者に過ぎない人間の善悪判断は必謬的たらざるを得ないからです。これと〈失楽園譚〉が表裏一体です。
 〈失楽園譚〉は、失われた本質の回復を奨励しません。なぜなら人間が分別を持ったまま楽園(分別以前)に戻ることは語義矛盾だからです。むろん分別を失った存在は人間ではありません。〈失楽園譚〉の意味は、分別を持つ人間は今後、全体性を意味する楽園を永久に名指せないまま、想像的=虚数的な楽園を目指す(つもりになる)しかないことです。。
 名指せる神(偽の全体性)=〈名前のある神〉エロヒム(偶像神)です。名指せない神(真の全体性)=〈名前のない神〉ヤハウエです。名前がないのでヤハウエはサイファ(暗号)です。〈名前のある神〉エロヒムは偽物なので幾らでも代わりがいて複数形(単数形エロハ)です。〈名前なき存在〉(ヤハウエ)と〈名前ある存在〉(人々)は論理的に言って交信ができません。
 前教皇ヨセフ・ラツィンガーによると、〈名前のない神〉が〈名前のある人々〉と向い合って話したくなったので、イエスを人間界に送り込みました。〈名前のあるイエス〉であれば人と交流できます。これをイエスから見れば、〈名前あるの自分〉が〈名前のない神〉とかい合える特別な資質があるので、〈名前ある人々〉に従来ない仕方で向き合えます。
 これを〈名前のある人々〉から見れば、生贄や贖罪にもかかわらず〈一向に神が動いてくれない〉と悲嘆していたのが、イエスを通じて〈今ここで神が働いている〉のを知ることで、特別な資質なき自身も、〈名前のある人々〉に従来ない仕方で向き合えるようになる訳です。ついでに、ラツィンガーに従って精霊と三位一体の概念も説明しましょう。
 第一に、〈名前のない神〉と〈名前のあるイエス〉を繋ぐ、ありそうもない働きが、精霊です。第二に、特別な資質のある〈名前のあるイエス〉と、特別な資質のない〈名前のある人々〉を繋ぐ、ありそうもない働きも、精霊です。第三に、その結果、〈名前のない神〉と〈名前のある人々〉は、精霊という働きで繋がっています。
 かくして、キリスト教的な---とりわけカトリック的な---祈りは以下の二つの柱から成り立ちます。(1)神よ、私が皆を裏切らぬよう見ていて下さい。(2)神よ、私はあなたのものです(私はどうなっても構いません)。こうした祈りを通じて、特別な資質のない〈名前のある自分〉が、〈名前のある人々〉に、従来にない利他性を発揮できるようになります。
 かくして、平凡な人が、人々に対して、従来にない向かい合い方ができるようになること自体が、救いです。その意味で、〈一向に神が動いてくれない〉と悲嘆するより、〈今ここで神が働いている〉のを知ることができること自体が、救いです。「良いことをしたので神に報酬を貰うこと」ではなく、「できそうもない良いことができること」自体が救いです。
 しかし「私はあなたのものです(私はどうなっても構いません)」という祈りの意味は、「自分が報酬を貰いたい---永遠の命を授かりたい---のではない」というだけではありません。もう一つ、「自分がやったことがどのような意味を持つのか自分では分からない」という〈原罪譚〉の問題があるのです。この思考が、宮沢賢治そして廣松涉さんの思考と似ます。
 どのみち世直しで血が流れます。『銀河鉄道の夜』における〈階級的殺害〉が示す通り、世直しと信じて〈大いなる偉業の為の犠牲〉として血を流したところが、〈取返しのつかない誤り〉だったと後で分かる可能性があります。歴史はその種の例に満ちています。ならば、世直しは諦めるべきか。実はキリスト教は「それでも前へ進め」と言う思想です。
 それが「私が皆を裏切らぬように見ていてください。でも、私はあなたのものです」という祈りの本質です。ハーバマスは改革派神父だった前教皇ラツィンガーがバチカンに入るや異端審問官に“転向”した理由をそこに見出します。後に〈取返しのつかない誤り〉と判るかもしれぬがゆえに「怒れる神父」を教会としては裁きつつ、実は応援しているとします。
 これは通俗図式と違った意味で、前に進むことを促す図式です。通俗図式は「正しいから前に進め」。疎外された本来性の回復を企図する〈本質疎外論〉です。キリスト教は違う。「原罪を負う人間には正しいか否か確証できないが、正しいと信じるなら前に進め。進んで誤りならば裁きを受けよ」。廣松さんの物象化論的革命論=〈受苦的疎外論〉そのものです。
 1970年に公開されたハーバマス&ルーマン論争では、ハーバマスが〈本質疎外論〉、ルーマンが〈受苦的疎外論〉でした。システム理論家ルーマンは、実践論と正しさの確証を結合したがるハーバマスを、原理的に正しさは確証できないと批判しました。多くの人はルーマンの思考では前に進む勇気がでないとして、ハーバマスを支持しました。廣松さんはどうか。
 廣松さんは「意外かもしれないが、多くのドイツ新左翼はルーマンの方を支持する。自分が見る処、論争はルーマンの圧倒的勝利だ」と僕におっしゃいました。廣松さんは、正しいことが確証できないと前に進めない世直しなどあり得ないと考えておられた。第一に、原理的に確証があり得ないからで、第二に、確証に依存する心性はニーチェ的な弱者だからです。
 ハーバマスは、ルーマンとの論争後次第に〈本質疎外論〉から〈受苦的疎外論〉に立場を変え、最終的には後に教皇ベネディクト16世となる改革派神父ラツィンガーの異端審問官への“転向”を先に述べた「泣いて馬謖を斬る」振舞いとして擁護するに到ります。前教皇は「旧約聖書に全てがある」との発言で有名ですが、旧約が〈受苦的疎外論〉を核とするからです。
 因みに「原罪を負う人間には正しいか否か確証できないが、正しいと信じるなら前に進め。進んで誤りならば裁きを受けよ」という思考は、ニーチェの影響を受けたウェーバーの〈結果倫理としての政治責任〉論---必要とあれば法の外に出ることをも厭わぬ存在こそ真の政治家---に見られ、最近ではウォルツァーの先制攻撃論と結合した〈汚れた手〉論にも反復されます。

[後半はいずれ出版される『情況』を参照]

憲法についてのアンケートに答えました。800字制限でしたのでタイヘンでした。

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憲法についてのアンケートに答えました。800字制限でしたのでタイヘンでした。でも30分で書きました。そのグルーヴ感が出ているでしょう。


設問

(1)現行憲法で好きな条文、嫌いな(あるいは、おかしいと感じる)条文についてお聞かせください。
(2)憲法改正の議論が浮上しています。この議論は、いままさにされるべきであるとお考えですか。
(3)自主憲法に改めるべきだと思いますか。
(4)自由民主党が掲げる改憲草案が話題となっています。どのような評価をなさいますか。
(5)9条は改正されるべきだとお考えですか。
(6)現行憲法に関する率直な感想をお寄せください。


回答

 憲法と名のつくものは独裁国にもある。近代憲法としての適切性に話を絞り、全項目に答える。
 (1)法は立法意思より文面が重要。憲法は文面より立憲意思が重要。理由は双方同一で統治権力の恣意を排し主権者の意思に服さしめるため。この本質に条文好悪は関係なく、客観評価だけが重要。
 (2)沖縄問題・原発問題等、対米依存ゆえフリーハンドのない政策領域がある。かかる領域で主権回復を遂げるには重武装(対米)中立化しかない。ゆえに宮台は長く9条改憲派。但し重武装中立は改憲を前提とし、改憲はアジア信頼醸成を前提する。前提を欠けば国益を失う。逆に極東緊張化は対米依存を亢進。現に日本は交渉力ゼロ(TPP!)。この構造を弁えぬ総理や副総理を国民が戴き、米国が馬鹿にする現状、改憲は◯◯に刃物でしかない。
 ⑶自主憲法を唱う是非は憲法を書く能力に依存する。憲法を書くのは国民。国民に能力はあるか。オバマ政権や米議会議員でさえ吹き出した総理と副総理の憲法認識を見れば思い半ばに過ぎる。
(4)統治権力への命令と市民への命令が混在する点、主体と名宛人が不明で、憲法に値しない。これを憲法草案と呼ぶ時点で国辱。統治を縛る憲法は王権時代のものと語る総理が国辱の極み。マグナカルタは等族内の約束であり、立憲君主制は王権ではない。この程度の認識で憲法を語る資格はない。
 (5)いずれは9条改憲が不可欠だが、今は◯◯に刃物に過ぎない(前述した)。
 (6)形式面。押付憲法論は誤り。敗戦後の松本草案騒動に見る通り当時の日本人に憲法は書けず、押付けられる能力さえ欠いた。内容面。部分講和にも拘わらず9条の謝罪機能がアジアでの国益を担保してきた(9条の謝罪機能)。対米追従下、9条の集団的自衛権否定機能のみが野方図な追従を妨げてきた(9条の対米追従制約機能)。この2機能を何に置き換えるのかを欠いた現行憲法批判は平和ボケか頓馬さの表れで、何の意味もない。
 結論。[主権回復←重武装中立化←改憲←アジア信頼醸成]のバッケージを書いた議論は無意味である。従って自民党憲法草案はナンセンスの極北であり、長らく改憲派である宮台でさえ吹き出す。

石井隆の映画は救いがないという「誤読」を却けました。晴佐久神父との対談で話題に。

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新たな批評性が加えられ、石井隆ファンの選別が開始された
    • 旧約から新約へのシフトを告知した『甘い鞭』--
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【どこに再浮上する「バプテスマ=沈礼」なのか】

■石井隆とはバプテスマである。バプテスマは洗礼と訳されてきた。今日では誤訳だと知られている。敢えて似た形で翻訳すれば「沈礼」即ち深く水に沈めること。無論死の隠喩だ。深く沈んだ身体が再び浮上する。これが再生(正確には翻身=生まれかわり)の隠喩だ。
■バプテスマとは「死と再生(翻身)」の儀式。儀式自体が極めて明確に「離陸⇒混沌⇒着陸」というファン・ヘネップ的な通過儀礼の形式を含む。ヴィクター・ターナーはこの混沌をコミュニタスと捉えた。社会で云えば集合的沸騰。人格で云えば変性意識状態だ。
■因みに今日の正統教会が、「洗礼」の訳と、「沈めること」から遠く離れた儀礼的所作とを、維持するのは、カルトの匂いを払拭するためだ。宗教社会学的には、社会との両立可能性を歴史的に確証された宗教に対して、両立可能性を疑惑される宗教をカルトと呼ぶ。
■本来のバプテスマ(沈礼)は身体を長く深く沈める。多少なりとも危険を伴う事実を横に措いても、この所作は社会生活を送る人々の通常意識状態から隔った深い変性意識状態を伴わざるを得ないという事実が、社会との両立可能性に関わる疑惑を生みかねないのだ。
■因みに日本の映画で本来のバプテスマを描いたものは紀里谷和明監督『CASSHERN』(04)だけである。深く長く沈める所作に併せて「死と翻身的再生」という通過儀礼的な本義が保たれている。場面としては夜が選ばれていた。人は夜、それも明け方に変性意識に陷る。
■原始キリスト教の素養ある者はこれらを弁える。13世紀に教皇が全体性を体現するとしたトマス・アキナスに対し、君主より歴史的に新しい教皇による全体性の体現はあり得ぬと教皇に対抗したダンテは、『神曲(地獄篇・煉獄篇・天国篇)』でバプテスマを反復した。
■本作『甘い鞭』の直前に石井隆が監督した『フィギュアなあなた』(13)の冒頭、『神曲』の表紙絵として定番のギュスターヴ・ドレの絵画が示される。これはリテラルな「汚濁からの浄化」よりも、むしろ「深く沈んだ後に浮かぶ」バプテスマの本義と照応しよう。
■その証拠にどこに再浮上するかが問題化する。聖性に満ちた場所に浮かぶか、元の身体のまま再び汚濁地獄に浮かぶか、新たな力を獲得して再び汚濁地獄に浮かぶか。別角度から言えば、再び〈社会〉(人倫の世)に浮かぶのか、その外にある〈世界〉に浮かぶのか。
■石井作品には汚濁地獄に深く沈む男女が登場する。主人公の性別に関係なく視座は男で、「沈んだ男がそこで、先に沈んだ(より深く沈んだ)女を見出した上、女の『汚れても汚れない聖性』に憧れ、女を通じた救済を望むものの、果せず終る」という形式を反復する。
■バプテスマの本義に遡れば、深く沈んでもどこに浮かぶか保証されない。石井作品の場合、浮かぶことさえ定かではないと見える。だが石井隆が必ず男女を共に沈ませ、女による救済を男に希ませる事実に鑑みれば、この男の希求機会自体が「虚数的な救済」なのだ。
■原始キリスト教に遡ればイエスが告知した福音の核は「神は分け隔てしない」に尽きる。これに従えば、ユダヤ民族ならざる者にも「希む機会」が与えられたこと自体が救済なのだ。同じ意味で、「沈んだ男」に「希む機会」を与えるためにこそ「沈む女」が存在する。
■だが「果たせず終る」と述べた通り、人倫の世(〈社会〉)に於ては男が破滅する。だから「虚数的な救済」と述べた。とすれば、この「虚数的な救済」は、謂わば教義学的に思考した場合、どこに浮かんだことを意味するか。これが石井作品の最重要な問い掛けだ。

【キム・ギドクの「マリア」は石井隆に不在】
■『嘆きのピエタ』(13)で旧教とりわけマリア信仰的なキリスト教モチーフを掘り下げた、私のマブダチでもあるキム・ギドクとの対比が、伏線になる。ギドクは「〈社会〉から遠く離れた〈世界〉」に着地し、石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」に着地する。
■あらゆる全体を〈世界〉、あらゆるコミニュケーションの全体を〈社会〉と呼ぶ。社会システム理論が明らかにする通り、原初的社会では〈世界〉は〈社会〉と重なるが、社会進化に従い〈世界〉は脱〈社会〉化する。つまり〈社会〉の外にも〈世界〉が拡がるのだ。
■古代バビロニアにおけるastrologyの展開が好例である。元々astrologyは星々に語りかけて帰結をもたらそうとする呪術だったが、古代バビロニアで初めて星々を動かせない(星はコミュニケーションしない)との観念が普及し、「占星術」の訳が適切な営みとなった。
■制作過程での事故と社会的批判の沸騰ゆえに、一旦は隠遁したギドクは、彼の『春夏秋冬、そして春』が描くモチーフ通り、山深く籠って自給自足生活を続けた挙げ句、『ピエタ』で戻ってきた。ギドクの救済はいつも、〈社会〉から遠く離れた〈世界〉にこそある。
■石井にはあり得ない。(男の)救済は少なくとも当初は「汚れても汚れない女」との一体化を措いてあり得ない。この表象が母と重ねられる場合、この救済願望を「子宮回帰願望」と呼び、元来た所に戻りたいとの観念を核とする意味論を「(狭義の)神秘主義」と呼ぶ。
■若松孝二は『犯された白衣』(67)に於て子守歌を媒介として「汚れても汚れない女」を母に重ねた。石井隆は本作『甘い鞭』において(監禁強姦犯にとっての)「汚れても汚れない女」を母に重ねる。その意味で、両者は「子宮回帰願望」モチーフを共有している。
■若松の場合「汚れても汚れない女」が裏切る。これを男女の政治闘争と回する向きもあるが的外れだ。『理由なき暴行』(69)が子宮表象を持ち出さず描く通り、〈ここではないどこか〉があり得ぬこと、〈どこかに行けそう〉で〈どこへも行けない〉ことの隠喩だ。
■石井の場合、男が結局救われないのが「汚れても汚れない女」の裏切りによる場合もあるが、『ヌードの夜』(94)『フィギュアなあなた』等の重要作品に見る通り必然的でない。むしろ『夜がまた来る』(95)が描く通り「女がもっと深く沈む」ゆえにこそ男を救えない。
■だが既に記した通り、石井の場合、男が現実に人倫の世(社会)で救われることが救済なのではない。『死んでもいい』(93)の如く男がそれを希む場合があるとはいえ、最終的には「もっと深く沈む女」に「希む機会」を与えられたこと自体が「沈む男」への福音なのである。
■先の物言いに擬えば、石井の男たちは若松の男たちよりも、ずっと深く沈む。だから〈どこかに行けそう〉(で〈どこにも行けない〉)とは、もはや念わない。〈どこかに行けそう〉などと能天気に思う男は、本作『甘い鞭』の監禁強姦犯の如く、馬鹿扱いされるのだ。
■《ギドクは「〈社会〉から遠く離れた〈世界〉」に着地し、石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」に着地する》と述べた。だが石井は「あり得たかもしれない〈社会〉」が初めからあり得ないと断念している。その意味で、自覚的な「不可能性への希求」なのだ。
■だから「ギドクは絶望が深いが、若松は能天気(な部分がある)」と言えても、「ギドクは絶望が深いが、石井は能天気」とは言えない。むしろ人倫の世(〈社会〉)から遠く離れず踏み留まる(がゆえに汚濁地獄から逃げない)という意味では石井の方が絶望的だ。
■マリア信仰に擬える。マリアとは無条件の愛の表象。罪を犯そうが親を殺そうとしようが微動だにしない愛。子が惨殺される姿を見ても狂わず抱擁する愛。ギドクではマリアが〈世界〉に重ねられる。石井世界にはマリアを希む男はいてもマリアは決して存在しない。

【石井隆による「頓馬な石井ファン」の排除】
■ここまで教義学的準備をして漸く『甘い鞭』を論じ得る。感覚的には単純だが言語化しようとすると途端に困難を来たす表現がある。石井作品が典型だ。言葉の道具を取り揃えないと、当たらずとも遠からず的に、似た印象を与える他の表現と一緒芥になってしまう。
■今年公開された『フィギュアなあなた』と『甘い鞭』には従来のモチーフを否定せずに追加された新たなモチーフがあると感じる。『フィギュア』の場合、男に「不可能な希求」を抱かせるのは、「(男より)深く沈んだ女」でなく、「人になれないマネキン」だ。
■マネキン役の佐々木心音と新宿ゴールデン街で手を繋ぎ、深く話し込んだが(無論仕事)、彼女はグラビアアイドルであることで〈物格化〉的に存在を縮小されたと感じる存在で、物格化/人格化というコードに相応しい。佐々木心音はマネキンとして疎外されている。
■だが〈物格化〉された存在であるがゆえにこそ、男の希求に依り代を提供する。佐々木心音がファンに提供する依り代と、マネキンが主人公の男に提供する依り代は同型だ。「沈んだ女」から「物格化されたマネキン」へのシフトで、奇しくも新たな批評性が加わった。
■このシフトで不可能性モチーフが失われる事態--フィギュアやグラビアアイドルの如きに救済される男たちが五萬といる--を塞ぐべく、イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』(99)に似て、主人公の男が轢死する瞬間に見たビジョンであることが示されている。
■似たシフトが、同時期に相次いで撮られた『甘い鞭』で反復される。17歳だった主人公奈緒子に「汚れても汚れない女」を見出して救済を希む機会を得た監禁強姦男は、彼女を監禁強姦で〈物格化〉し、なおかつ(汚れても汚れないにせよ)彼女を汚す張本人である。
■しかも本作では〈物格化〉の背後に〈母への恨み〉が示される。「あなたさえいなければ私はこうならなかった」という〈母への恨み〉が、一方で母への復讐としての監禁強姦を動機づけ、他方であり得たかもしれない母の回復としての主人公との合一を動機づける。
■私は最近、「男子素敵化計画」の一貫として男子相手のナンパ講座のシリーズを開始し、加えて、これを「男女素敵化計画」に拡張するために風俗方面のフィールドリサーチを始めたが、フィールドで出会うのも、〈母への恨み〉(親への恨み)のオンパレードである。
男子のナンパクラスタ周辺にはミソジニー(女性憎悪)を背景とした〈物格化〉の匂いが満ちている。彼らの大半がアンコントローラブルな年長女性を嫌い、自分が優位に立てる(と見える)年少女性をオモチャにしようとするが、明白に〈母への恨み〉を見出せる。
■他方、風俗女や売春女は経済的困窮者や「壞れた女」だとする、それ自体ミソジニーに満ちた無害化が溢れる昨今でも、現役医学生や現役東大生でも風俗や売春に関わる女性は少なくない。動機を尋ねると「好奇心」との答えが返ってくる。だが真に受けてはならぬ。
■深く尋ねれば〈親への恨み〉が浮上する。〈あなたさえいなければ私はこうならなかった〉。確かに彼女らは医学生や東大生として社会的承認に恵まれる。親は子育てに成功したと自負する。それでも「あなたさえ⋯」の恨みは変わらない。だから「好奇心」なのだ。
■この場合の好奇心とは〈あなたさえいなければ私が知ることができた世界〉へのそれであり、〈親への恨み〉のコロラリーである。振り返れば二十代半ばから十年以上数百人の女性をナンパした私自身まさに〈親への恨み〉のコロラリーとしての好奇心を生きていた。
■最近のフィールドリサーチから浮かび上がるのは、男子における〈恨み〉が、ナンパクラスタ的ミソジニーにおける女の〈物格化〉として現れる事態と、女子における〈恨み〉が、風俗や売春における男の〈物格化〉として現れる事態が、機能的に等価である事実だ。
■本作に於ても平行性が明瞭に描かれる。監禁強姦男は〈母への恨み〉から〈物格化〉に手を染め、主人公の女は〈母への恨み〉から挿入アリのM嬢売春に手を染める。M嬢にとってS主人は入替可能な器官で、見かけとは異なりMこそがSを〈物格化〉するのである。
■本作への批評で、〈母への恨み〉ゆえの性愛対象の際限なき〈物格化〉という「監禁強姦男と主人公奈緒子のパラレリズム」を見逃したものは、クズと同じだ。この平行性を厳格に保つためにこそ、原作で描かれたストックホルム症候群が本作では慎重に排除される。
■かかる構造的平行性に留意すれば、なぜ、(1)主人公奈緒子が「あのとき」に感じた「甘い味」が、M嬢売春で得られず、彼女自身による終盤のジェノサイドで得られたのか、(2)ラストシーンでナイフを振りかざす腕を押さえて彼女を抑えた手は何なのか、自明である。
■(1)M嬢売春は所詮はプレイ。〈物格化〉はごっこに留まる。ごっこで「甘い味」は再現できない。再現するにはごっこを超えねばならぬ。(2)問題の平行性は偶然ではなく〈恨みの連鎖〉だ。連鎖を止めねば、深淵に見えて所詮は自意識によるフェイクに塗れてしまう。
■石井隆がやろうとしていることは明白で、石井隆ファンの観客や批評家から、自意識の問題を〈社会〉や〈世界〉の問題と取り違える頓馬を排除しようとしている。実は、そうした作業を私自身が遂行しようと準備していた矢先なので、そのことがよく判るのである。
■イエスのパリサイ派(ユダヤ教主流)批判に似る。彼によればパリサイ派は、罪を犯さぬことで神から救いを引き出そうと、本来規定不能なトーラーを規定可能なミツヴァに置き換えるという、「神の偉大さの毀損=〈自己〉と〈世界〉の取違え」に淫しているのだった。

福島第一原発の汚染水問題と、4号機燃料棒取り出し問題について

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福島第一原発の汚染水問題と、4号機燃料棒取り出し問題について、元国会事故調査委員で、科学ジャーナリストの田中三彦さんとお話ししました。
 例によって宮台発言の一部を抜粋。田中さんの発言を含めた全体は18日発売の『サイゾー』を御覧下さい。



宮台◇ 倒壊すれば「日本が終る」(どころか「北半球が終る」by ファイアウィンズ・アソシエーツのアーニー・ガンダーセン)かもしれない4号機からの燃料棒取り出しを東電に任せていいのかという疑問について)福島第一原発4号機燃料棒取り出しに東電以外の主体が関わると、責任の所在が変わります。国が主体でやることになれば、失敗した場合の損害賠償責任先も、東電から国へと変わります。東電が損害賠償を払えないから国が肩代わりするという場合と違い、国が損害賠償請求先となった場合は直ちに担当行政官のキャリアに響きます。政治家が強力に音頭取りをしない限り、行政官としては関わりたくないという道理です。


宮台◇ (1~3号機に一日400トンの水を注水すると循環後に倍の800トンになって戻ってくるので余分の400トンをタンクに入れているが、最大1000トンのタンクが2日余で一杯になるためタンクを作り続けている状況について、外国特派員協会で田中俊一原子力規制委員長が「(いずれは)流していいレベルまで浄化して海に流さざるを得ない⋯これまでも基準値以下であれば海に流してきたのだからそのレベルまで下げれば何ら変わりはない」と発言した件に関して)田中規制委委員長の言う「浄化して流す」が「希釈して流す」とどう違うかです。問題は「浄化して流す」と定義できるようなやり方が出来るのかどうか。ジャブジャブ地下水が流入し、それが何処にどう流出しているのかも判らない状況だと、浄化と称して結局は希釈に過ぎなくなります。その場合「浄化した」は汚染水放出のインチキ免罪符です。
 似た話ですが、地下水を制御しきった上で浄化が出来たと仮定しても、次に水の量が問題になります。田中委員長は「基準値以下の放出はよくあること」と言いますが、どのくらいの規模の放水が「よくあること」なのか。畢竟、今後どのくらい放水が続くのかがが問題です。放水量が膨大なら「よくあること」は単なる詭弁です。


宮台◇ 汚染水放出問題がどの程度話題になるかが、「原発が規定不能なリスクをどの程度抱えるのか」に関する合意形成の貴重な指標です。今後は再稼働や瓦礫中間処分場建設が問題になるので、それら全てを住民投票にかける可能性を念頭に置くなら、汚染水放出問題がさして話題になっていない事実が懸念されます。
 社会学者ベックによれば、規定不能なリスクとは予測不能・計測不能・収集不能なリスク。つまり保険会社が保険を作ってくれないリスクです。かかるリスクは、欧州のECRR(欧州放射線リスク委員会)のような、市民と科学者のネットワークを基にした「〈科学の民主化〉を背景とした市民政治」を展開し、共同体的自己決定に繋げる必要があります。
 なぜなら規定不能なリスクは、科学者も行政官も政治家も確たる評価ができず、評価の責任を負えないからです。ところが日本では、首相の「汚染水は完全な制御下にある」発言に見る通り「オリンピック招致に影響するかどうか」が政治家の発言やマスコミ報道を方向づけています。これは社会的優先順位の適切性という観点から見て悲惨な状況です。
 汚染水流出について根本策がないのなら、有効策を今後も追求するにせよ、いずれかの段階で「海に流す」という最終手段を覚悟せざるを得ません。その場合「表現の仕方」が問題になります。真実を隱さないのは当然ですが、近隣漁民に不利益をもたらすような意味のない副作用の、最小化を心がける必要があります。


宮台◇ 「燃料棒取り出し中の大事故に東電はどう責任を取るんだ?」は従来にない問題です。「燃料棒取出しは東電が責任を負うべきだから、東電が失敗したら東電の責任だ」というのは、市民社会的通常性の枠内なら問題ないでしょう。でも予測不能・計測不能・収拾不能なリスクが現実化したら、市民社会的通常性が破壊されるので、今さら責任を帰属させたり引き受けたりしても「後の祭り」です。
 社会の破滅後に、破滅責任を問うても、社会が消滅している以上「後の祭り」。かかる特殊な営みを、何かあったら責任を負いたくないからと私企業に任せるのは、規定不能なリスクの意味を理解していないと言わざるを得ません。政治決断で特命部隊を組織、全リソースを投入して事に当たる他ない。
 それには、マックス・ウェーバー的な意味で責任倫理を有した政治家の登場が必要です。東電に任せるより少しでも成功の可能性が上がるのなら、マイケル・ウォルツァー的に言えば「失敗したら血祭りにあげられる覚悟で」通常ならあり得ない資源投入を行うことを決断する政治家です。カール・シュミットの「非常大権論」に通じる発想が必要です。


宮台◇ 再稼働について、開示された情報を元に当事者住民が討議的に意思決定に関わるチャンスが、与えられないのが問題です。僕は「原発都民投票」住民直接請求の請求代表人として法定署名数を確保、新潟「原発県民投票」の実現にも協力しました。目的は、公開討論会とワークショップを通じた〈参加〉=「〈フィクションの繭〉破り」と、〈包摂〉=「〈地域住民の分断〉克服」です。
 今後は、再稼働や新規稼働、瓦礫中間処分場、使用済核燃料中間貯蔵施設や最終処分施設の、立地をめぐる政治決定が、〈フィクションの繭〉と〈地域住民の分断〉を前提に、地方議会の議決など形だけの民主的過程を経てなされて行きます。抗うには、完全なシングルイシューで、公開討論会とワークショップを伴う住民投票を実施する必要があります。
 日本は他国よりも「喉元過ぎれば熱さ忘れ」がちです。宗教社会学的な文脈が背景です。実際、原発事故が起こった当初は各地で議決がなされたものの、結局は行政優位=従来的自明性優位に戻りました。他の先進国ではあり得ません。その意味で、丸山眞男的に言えば、民主制があっても健全に作動しません。この状況を変えるには、〈参加〉と〈包摂〉の実質を調達する活動が必要です。地方議会での審議といった「形」を頼ることは出来ません。


『小室直樹の世界』がミネルヴァ書房からまもなく発売されます。

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書店に並ぶのは10月20日以降になりそうです。
小室ゼミのOBたちが集まったシンポジウムの記録(加筆)と、新たに加えられた対談群と、書き下ろしの文章群が、収録されております。



『読売新聞』で「恋するフォーチュンクッキー」を踊るブームにコメントしました

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数日前の『読売新聞』で「恋するフォーチュンクッキー」を踊るブームにコメントしました。確か夕刊だったような。コメントを依頼されたときに即席で(1時間)書いて記者に送った文章です。

追記:10月30日夕刊だったそうです。

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意外な人たちとつながれて幸せになれるのはいいね
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「女の子にしろ、システムにしろ、媚びが嫌だ」と公式にはAKB48嫌いの僕。でも「恋するフォーチュンクッキー」に限っては娘たち(7歳と4歳)と踊る。いろんな企業や役所や学校の人たちが一緒に踊っているのをYouTubeで見て楽しんできた。
 伏線があった。職場や学校の皆が一緒に踊ると言えばEテレ『ピタゴラスイッチ』の2002年からの「アルゴリズムたいそう」「アルゴリズムこうしん」。長女が3歳になった2008年から毎日欠かさず見て、次女が3才になった2011年からは一緒に踊る。
 今年になってNHKテレビで始まった『突撃!アットホーム』。父や母に感謝を示すべく、父や母の職場の人々と一緒に踊りをプレゼントする。今年産まれた長男を入れて5人でそれを見ると毎回幸せな気持ちになれる。そう、その流れに連なるのだ(パクった?)。
「アルゴリズムたいそう」も「感謝の踊り」も「フォーチュンクッキー」も共通して、上手なダンスじゃなく、歌謡曲の振付けだ。そこにはザ・ピーナッツからピンクレディまで振付け歌謡史と共に歩んだ土居甫の振付けが先鞭をつけた「ヘタウマ」がある。
 踊りの下手なAKB48でも(!)アラが目立たず素人が踊れる。一部を除いてシンコペーションがなく、少し練習すれば誰でも覚えられる。ところで「職場の皆で踊ること」がなぜ今──「アルゴリズムたいそう」から数えて十年──感動を与えるのか。
 見て感動。皆で踊って感動。自分らが踊った動画を見ても感動。社会学的に解釈しよう。祭りは我々意識(の元になる共通前提)を必要とする。そして祭りが我々意識を強化する。祭りと我々意識が互いに前提を与え合うのだ。でも最初に共通前提がない場合どうするか。
 集団が同じ振付けで踊ると共同身体性(皆が一つの体を共有した感じ)が生まれる。祭りの本質は共同身体性。だから同じ振付けで踊ること自体が祭りだ。空洞化した地域の再生に地域の祭りが利用されて久しい。この知恵が職場の再生に転用されつつある。
 最近運動会を復活した職場が多い。運動会も赤勝て白勝ての応援や綱引きを通じて共同身体性をもたらす。職場の皆が同じ振付けで踊るのも機能的に等価だ。そして運動会よりも手軽。意外な他者たちと簡単につながれて驚く。
 共同身体性で得られる我々意識は年齢や性別や所属を問わない。その意味で社会的文脈を無関連化できる。ヘタウマな振付けを皆で共有すれば意外な人とつながれる。かくて共通前提なきところに共通前提をもたらせる。実はこれは日本的伝統だ。
 僕は米国の幾つかの大学で「日本的サブカルチャーの本質は社会的文脈の無関連化機能だ」と説いてきた。人種や階級や国籍や性別に関係なく享受し一緒に戲れる。米国人の研究者や学生は皆が同意した。最近ではきゃりーぱみゅぱみゅのブームだろうか。
 僕は転校だらけで小学校に六つ通った。友だちを作るのは簡単だった。漫画やアニメや歌謡曲を「過剰記憶」していたからだ。どこに行っても誰ともつながれた。出生地も方言も偏差値も運動神経も関係ない。歌謡曲の振付けで踊って歌うだけ。
 AKB48が好きかどうかは関係ない。「フォーチュンクッキー」を踊る職場の人も多くはメンバーの名前と顔が一致しない。でも皆が一緒に踊れば幸せになる。そこには、つながりの空洞化を克服したい願いと、克服できたときの感動が見出せる。そこがポイントだ。
〜〜〜


おまけですが、「恋するフォーチュンクッキー PLANETSバージョン」を見て驚きました。宮台ゼミ関係者がなぜか大勢出ている。

一緒にナンパ講座を運営するゼミ関係者の立石くんと中野くんとお茶をしてたら、なんと彼らが作ったというじゃありませんか。

「なんで俺に声かけないわけ?」「だって宮台さんAKB嫌いじゃないですか」「知らねえよ、こういうの作るときは祭り好きの俺に声をかけんだよ!」「……」。


東京新聞11月7日夕刊文化面に、新国立競技場問題について執筆しました。

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◎「生き物」としての東京を取り戻す/宮台真司

 新国立競技場建設案を問題視する槇文彦氏は、六〇年代にヒルサイドテラスの設計を通じて東京・代官山の礎を与えた建築家だ。近隣に住む私は代官山の街づくりをめぐる活動に関わるが、この地が「匂いのある街」なのは氏の環境倫理学的な直観に負う。直観を学問的に補完してみよう。
 日本人に縁の薄い環境倫理学は、生き物も快苦を感じるから苦痛を最小化せよと唱えるピーター・シンガーの〈功利論〉から、生き物も人と同じ道徳的義務の対象に数えよと唱えるトム・レーガンの〈義務論〉を経て、これらでは環境の一部しか最適化できないとするベアード・キャリコットの〈全体論〉へと展開した。
 日本の京都学派の影響を自認するキャリコットは、場所全体を一つの生き物だとみる。人は、動植物や岩石や河川と同じく、「場所」という生き物の単なる部品。生き物としての場所にとって自然なら、開発はOKだが、不自然なら開発はNGだ。問題は自然/不自然の弁別だが、「生き物としての場所の歴史を参照せよ」と彼は言う。
 人にとって時の刻みは小さく、場所という生き物にとって時の刻みは大きい。人のニーズで開発すれば、生き物としての場所が壊れ、かえって人の尊厳が失われる。尊厳が生き物としての場所と結びついているからだ。
 同じ理屈が代官山で使われた。江戸の職人街だった「七曲がり」に巨木がある。日照や落ち葉を理由に住民が切り倒しを要求した。街づくりに熱心な人々が、代官山が一つの生き物で、その生き物にとって巨木が不可欠と説いた。その結果、住民たちのニーズは取り下げられた。
 キャリコットは「人の尊厳」を目標とし、「尊厳を支える気付きにくい条件」に注意を促す。「尊厳を支える気付きにくい条件」への理解と、「生き物としての場所性」への理解は表裏一体だ。双方を理解した人は、その場所の価値を総合的に評価し、ニーズを取り下げる。
 そうした理解はどうしたらもたらせるか。私見では〈民主主義〉しかない。日本では民主主義が多数決だと誤解されるが、民主主義の本質は〈参加〉と〈包摂〉。〈参加〉とは〈フィクションの繭破り〉で、〈包摂〉とは〈地域共同体の分断克服〉だ。
 日本の原発政策は、日本だけの馬鹿げた神話―絶対安全神話・全量再処理神話・最安価神話―に支えられてきた。日本の政治文化が「任せて文句を言う」だけで、「引き受けて考える」という〈参加〉の作法を欠くからだ。
 他方、地方を補助金漬けにする巨大公共事業や原発の立地は、自立した経済圏を不可能にするような「地域共同体の分断」が、例外なく背景にある。こうした背景を手当てする〈包摂〉を欠いては、巨大公共事業や原発の立地に抗えない。
 単なる「べき論」を超えて〈参加〉と〈包摂〉を調達すべく、私は原発都民投票条例制定を求める直接請求の請求代表人となり、各地の住民投票運動に関わってきた。住民投票は、政策の人気投票ではない。その核心は、投票に先立つ公開討論会とワークショップにある。
 具体的には、第一に、適切な手続きに支えられたこれらの熟議を通じて、官僚お手盛りの審議会制度がもたらす〈フィクションの繭〉を破る。第二に、熟議による協同的な気づきの達成を通じ、〈地域共同体の分断〉による誤解と偏見を克服して「我々」を回復する。
 新国立競技場にも当てはまる。集客や安全や管理コストを巡る〈フィクションの繭〉を、〈参加〉で破る。人ごとやオカミ任せをもたらす〈地域共同体の分断〉を、〈包摂〉で超える。そのための熟議を開始する。
 そうすれば、オリンピックを奇貨とし、東京という「生き物としての場所」を、そしてそれに支えられた東京都民という「我々」を、回復できる。新国立競技場の建設問題を通じて「東京を取り戻す」のだ。これはチャンスだ。

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