マイケル・フランコ監督『父の秘密』が11月2日から公開中です。
http://lucia.ayapro.ne.jp/
配給会社から全文掲載許可をいただきましたのでパンフレットに執筆した文章をアップします。
「全てが分かっているのにどうしようもない」という〈世の摂理〉を描く究極の対位法
社会学者 宮台真司
■本作の核心はラストの長回しにある。娘を性的に貶めた中学生の少年を、両手足を縛ってボートから海に突き落とした後、引きの画面なので表情が詳らかでないものの苦悶の表情を浮かべた父親が、陸に向けてボートを操舵する姿を、私たちは数分間見つめるだろう。
■父と娘の関係を描いた映画だと見る向きもあるだろう。確かに日本語タイトルは『父の秘密』とある。だが原題は『ルシアの死後』ないし『光が消えた後』をかけたもので、父と娘の二人がどうしようもなく追い詰められるだろうことが、暗示というより明示される。
■父と娘はそれぞれに追い詰められていく。父は、事故死したルシア(妻)の記憶から逃れて新天地に移り、家具や調度からも妻の記憶を消そうとするものの、叶わずに何ごともうまく行かない。うまく行きかけたところが、今度は娘をめぐるトラブルに巻き込まれる。
■娘が思春期前期の微妙な時期にあることが、転校先の中学での薬物検査で陽性反応が出たことで示される。転校先でも、女子に人気がある男子との性交を撮った動画が出回ったことで、当初は女子の、やがて性交相手を含めた男子まで加わったイジメに巻き込まれる。
■こうした記述から想像されるような「物語」の描写はない。父にとって妻であり、娘にとって母であったルシア(スペイン語で光)の生前、高級リゾート地ヴァヤルタ(日本ではバジャルタと呼ぶ)のホテルでシェフを営む父のもと、三人で生活を送っていたらしい。
■それは娘と同級生らの会話から判るが、それよりも、(後に事故死した妻のものだと観客に判る)車がワーゲンであること、海を背景に登場する娘のヘアスタイルやファッション、父の車の中での品の良い父娘の会話など、冒頭から示される空気感こそが大切なのだ。
■本作は、今述べたように冒頭で暗示されるに過ぎない、妻の事故死前すなわち転居転校前の「光」と、映画を通じて描かれる事故死後すなわち転居転校後の「陰り」の、対位法的な描写が印象的だ。「見えないもの」が「見えるもの」を静かに脅やかし、沈めていく。
■そして、「光」対「陰り」の対比が「見えないもの」対「見えるもの」という形式をとることをメトニミカル(尻取り的)に引き継いで、「見えないもの」が「見えるもの」を脅かすという形式が反復される。最初にそれを暗示するのが娘のマリファナ使用の痕跡だ。
■転校先での薬物検査で陽性が出て親子で説諭された後の車中での父娘の会話を通じて、学校での娘の友人関係という「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」が示される。正確に言えば、父は観客と共に「娘の秘密」が存在するという事実に気付かされるのである。
■同様に、修繕後の(妻の)車を父が乗り捨てたことが娘に知られるというエピソードを通じて、父が自分を制御できなくなっているという「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」が示される。これも、娘が観客と共に「父の秘密」が存在する事実を気付かされる。
■「娘の秘密」と「父の秘密」は、父が新たに得た職場のレストランと、娘が新たに通う学校の教室という、二つのシーンを繰り返しカットバックすることを通じて、やはり対位法的に描かれる。この対位法によって、冒頭に述べた「追い詰められ」の綾が描写される。
■最初は父が追い詰められているが、娘はさして追い詰められていない。つまり「父の秘密」が前景化する。やがて父の職場環境は好転し、追い詰められた状態から脱するが、皮肉にも娘が性的なイジメを通じて追い詰められていく。つまり「娘の秘密」が前景化する。
■静かでダウンテンポな作品だが、反復される幾種類もの二項図式的な対比と、「父の秘密」から「娘の秘密」へという相転移が、明瞭な構造を形づくるがゆえに、緊張が持続し、また、描かれずに暗示されるだけのものが多々あるにもかかわらず、全てが判るのである。
■時間的な物語というよりも、空間的な形式(の時間的変化)が描かれるがゆえに、私たちは、この作品を、父娘の物語を描いたものとしてよりも、より抽象的に〈世の摂理〉を描いたものとして受容する方向に、導かれる。そこに描かれるのはどんな摂理だろうか?
■映画では描かれないルシアの事故死は、運転者が妻であれ娘であれ偶然に訪れた。それを境に〈世界〉は「光」から「陰り」に入る。「陰り」に入って以降、「見えるもの」は「見えないもの」によって、常に脅かされ、沈まされる。これは誰の責任なのだろうか?
■「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」は、父にはどうしようもない「追い詰められ」である。「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」は、娘にはどうしようもない「追い詰められ」である。そして、驚くべきことにそのことが二人にはよく分かっているのだ。
■究極の「娘の秘密」つまり娘の「追い詰められ」に面した父は、いったんは「父の秘密」つまり「追い詰められ」から一旦は脱しかけたにもかかわらず、再びどうしようもなく「追い詰められ」て、究極の「父の秘密」へと自らを閉ざしてしまうことになるだろう。
■ラストシーンの意味は明らかだろう。父の顔が歪むのは、少年への怒りによるものでも、消えた娘への憐憫によるものでも、制御できない自分自身への慚愧の念によるものでもない。全てが分かっているのにどうしようもないという〈世の摂理〉によるものなのである。
■従って、娘がなにゆえに〈ここ〉から〈ここではないどこか〉に逃れようとしてヴァルヤタへと「帰還」したのか、その理由も明らかだろう。娘は母の記憶の痕跡が愛しかったのではない。〈世界〉の「光」から「陰り」への移行を、「陰り」から「光」に戻すのだ。
http://lucia.ayapro.ne.jp/
配給会社から全文掲載許可をいただきましたのでパンフレットに執筆した文章をアップします。
「全てが分かっているのにどうしようもない」という〈世の摂理〉を描く究極の対位法
社会学者 宮台真司
■本作の核心はラストの長回しにある。娘を性的に貶めた中学生の少年を、両手足を縛ってボートから海に突き落とした後、引きの画面なので表情が詳らかでないものの苦悶の表情を浮かべた父親が、陸に向けてボートを操舵する姿を、私たちは数分間見つめるだろう。
■父と娘の関係を描いた映画だと見る向きもあるだろう。確かに日本語タイトルは『父の秘密』とある。だが原題は『ルシアの死後』ないし『光が消えた後』をかけたもので、父と娘の二人がどうしようもなく追い詰められるだろうことが、暗示というより明示される。
■父と娘はそれぞれに追い詰められていく。父は、事故死したルシア(妻)の記憶から逃れて新天地に移り、家具や調度からも妻の記憶を消そうとするものの、叶わずに何ごともうまく行かない。うまく行きかけたところが、今度は娘をめぐるトラブルに巻き込まれる。
■娘が思春期前期の微妙な時期にあることが、転校先の中学での薬物検査で陽性反応が出たことで示される。転校先でも、女子に人気がある男子との性交を撮った動画が出回ったことで、当初は女子の、やがて性交相手を含めた男子まで加わったイジメに巻き込まれる。
■こうした記述から想像されるような「物語」の描写はない。父にとって妻であり、娘にとって母であったルシア(スペイン語で光)の生前、高級リゾート地ヴァヤルタ(日本ではバジャルタと呼ぶ)のホテルでシェフを営む父のもと、三人で生活を送っていたらしい。
■それは娘と同級生らの会話から判るが、それよりも、(後に事故死した妻のものだと観客に判る)車がワーゲンであること、海を背景に登場する娘のヘアスタイルやファッション、父の車の中での品の良い父娘の会話など、冒頭から示される空気感こそが大切なのだ。
■本作は、今述べたように冒頭で暗示されるに過ぎない、妻の事故死前すなわち転居転校前の「光」と、映画を通じて描かれる事故死後すなわち転居転校後の「陰り」の、対位法的な描写が印象的だ。「見えないもの」が「見えるもの」を静かに脅やかし、沈めていく。
■そして、「光」対「陰り」の対比が「見えないもの」対「見えるもの」という形式をとることをメトニミカル(尻取り的)に引き継いで、「見えないもの」が「見えるもの」を脅かすという形式が反復される。最初にそれを暗示するのが娘のマリファナ使用の痕跡だ。
■転校先での薬物検査で陽性が出て親子で説諭された後の車中での父娘の会話を通じて、学校での娘の友人関係という「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」が示される。正確に言えば、父は観客と共に「娘の秘密」が存在するという事実に気付かされるのである。
■同様に、修繕後の(妻の)車を父が乗り捨てたことが娘に知られるというエピソードを通じて、父が自分を制御できなくなっているという「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」が示される。これも、娘が観客と共に「父の秘密」が存在する事実を気付かされる。
■「娘の秘密」と「父の秘密」は、父が新たに得た職場のレストランと、娘が新たに通う学校の教室という、二つのシーンを繰り返しカットバックすることを通じて、やはり対位法的に描かれる。この対位法によって、冒頭に述べた「追い詰められ」の綾が描写される。
■最初は父が追い詰められているが、娘はさして追い詰められていない。つまり「父の秘密」が前景化する。やがて父の職場環境は好転し、追い詰められた状態から脱するが、皮肉にも娘が性的なイジメを通じて追い詰められていく。つまり「娘の秘密」が前景化する。
■静かでダウンテンポな作品だが、反復される幾種類もの二項図式的な対比と、「父の秘密」から「娘の秘密」へという相転移が、明瞭な構造を形づくるがゆえに、緊張が持続し、また、描かれずに暗示されるだけのものが多々あるにもかかわらず、全てが判るのである。
■時間的な物語というよりも、空間的な形式(の時間的変化)が描かれるがゆえに、私たちは、この作品を、父娘の物語を描いたものとしてよりも、より抽象的に〈世の摂理〉を描いたものとして受容する方向に、導かれる。そこに描かれるのはどんな摂理だろうか?
■映画では描かれないルシアの事故死は、運転者が妻であれ娘であれ偶然に訪れた。それを境に〈世界〉は「光」から「陰り」に入る。「陰り」に入って以降、「見えるもの」は「見えないもの」によって、常に脅かされ、沈まされる。これは誰の責任なのだろうか?
■「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」は、父にはどうしようもない「追い詰められ」である。「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」は、娘にはどうしようもない「追い詰められ」である。そして、驚くべきことにそのことが二人にはよく分かっているのだ。
■究極の「娘の秘密」つまり娘の「追い詰められ」に面した父は、いったんは「父の秘密」つまり「追い詰められ」から一旦は脱しかけたにもかかわらず、再びどうしようもなく「追い詰められ」て、究極の「父の秘密」へと自らを閉ざしてしまうことになるだろう。
■ラストシーンの意味は明らかだろう。父の顔が歪むのは、少年への怒りによるものでも、消えた娘への憐憫によるものでも、制御できない自分自身への慚愧の念によるものでもない。全てが分かっているのにどうしようもないという〈世の摂理〉によるものなのである。
■従って、娘がなにゆえに〈ここ〉から〈ここではないどこか〉に逃れようとしてヴァルヤタへと「帰還」したのか、その理由も明らかだろう。娘は母の記憶の痕跡が愛しかったのではない。〈世界〉の「光」から「陰り」への移行を、「陰り」から「光」に戻すのだ。