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メキシコ映画『父の秘密』について書きました。

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マイケル・フランコ監督『父の秘密』が11月2日から公開中です。
http://lucia.ayapro.ne.jp/
配給会社から全文掲載許可をいただきましたのでパンフレットに執筆した文章をアップします。


「全てが分かっているのにどうしようもない」という〈世の摂理〉を描く究極の対位法

社会学者 宮台真司


■本作の核心はラストの長回しにある。娘を性的に貶めた中学生の少年を、両手足を縛ってボートから海に突き落とした後、引きの画面なので表情が詳らかでないものの苦悶の表情を浮かべた父親が、陸に向けてボートを操舵する姿を、私たちは数分間見つめるだろう。
■父と娘の関係を描いた映画だと見る向きもあるだろう。確かに日本語タイトルは『父の秘密』とある。だが原題は『ルシアの死後』ないし『光が消えた後』をかけたもので、父と娘の二人がどうしようもなく追い詰められるだろうことが、暗示というより明示される。
■父と娘はそれぞれに追い詰められていく。父は、事故死したルシア(妻)の記憶から逃れて新天地に移り、家具や調度からも妻の記憶を消そうとするものの、叶わずに何ごともうまく行かない。うまく行きかけたところが、今度は娘をめぐるトラブルに巻き込まれる。
■娘が思春期前期の微妙な時期にあることが、転校先の中学での薬物検査で陽性反応が出たことで示される。転校先でも、女子に人気がある男子との性交を撮った動画が出回ったことで、当初は女子の、やがて性交相手を含めた男子まで加わったイジメに巻き込まれる。
■こうした記述から想像されるような「物語」の描写はない。父にとって妻であり、娘にとって母であったルシア(スペイン語で光)の生前、高級リゾート地ヴァヤルタ(日本ではバジャルタと呼ぶ)のホテルでシェフを営む父のもと、三人で生活を送っていたらしい。
■それは娘と同級生らの会話から判るが、それよりも、(後に事故死した妻のものだと観客に判る)車がワーゲンであること、海を背景に登場する娘のヘアスタイルやファッション、父の車の中での品の良い父娘の会話など、冒頭から示される空気感こそが大切なのだ。
■本作は、今述べたように冒頭で暗示されるに過ぎない、妻の事故死前すなわち転居転校前の「光」と、映画を通じて描かれる事故死後すなわち転居転校後の「陰り」の、対位法的な描写が印象的だ。「見えないもの」が「見えるもの」を静かに脅やかし、沈めていく。
■そして、「光」対「陰り」の対比が「見えないもの」対「見えるもの」という形式をとることをメトニミカル(尻取り的)に引き継いで、「見えないもの」が「見えるもの」を脅かすという形式が反復される。最初にそれを暗示するのが娘のマリファナ使用の痕跡だ。
■転校先での薬物検査で陽性が出て親子で説諭された後の車中での父娘の会話を通じて、学校での娘の友人関係という「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」が示される。正確に言えば、父は観客と共に「娘の秘密」が存在するという事実に気付かされるのである。
■同様に、修繕後の(妻の)車を父が乗り捨てたことが娘に知られるというエピソードを通じて、父が自分を制御できなくなっているという「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」が示される。これも、娘が観客と共に「父の秘密」が存在する事実を気付かされる。
■「娘の秘密」と「父の秘密」は、父が新たに得た職場のレストランと、娘が新たに通う学校の教室という、二つのシーンを繰り返しカットバックすることを通じて、やはり対位法的に描かれる。この対位法によって、冒頭に述べた「追い詰められ」の綾が描写される。
■最初は父が追い詰められているが、娘はさして追い詰められていない。つまり「父の秘密」が前景化する。やがて父の職場環境は好転し、追い詰められた状態から脱するが、皮肉にも娘が性的なイジメを通じて追い詰められていく。つまり「娘の秘密」が前景化する。
■静かでダウンテンポな作品だが、反復される幾種類もの二項図式的な対比と、「父の秘密」から「娘の秘密」へという相転移が、明瞭な構造を形づくるがゆえに、緊張が持続し、また、描かれずに暗示されるだけのものが多々あるにもかかわらず、全てが判るのである。
■時間的な物語というよりも、空間的な形式(の時間的変化)が描かれるがゆえに、私たちは、この作品を、父娘の物語を描いたものとしてよりも、より抽象的に〈世の摂理〉を描いたものとして受容する方向に、導かれる。そこに描かれるのはどんな摂理だろうか?
■映画では描かれないルシアの事故死は、運転者が妻であれ娘であれ偶然に訪れた。それを境に〈世界〉は「光」から「陰り」に入る。「陰り」に入って以降、「見えるもの」は「見えないもの」によって、常に脅かされ、沈まされる。これは誰の責任なのだろうか?
■「娘から見えないもの」つまり「父の秘密」は、父にはどうしようもない「追い詰められ」である。「父から見えないもの」つまり「娘の秘密」は、娘にはどうしようもない「追い詰められ」である。そして、驚くべきことにそのことが二人にはよく分かっているのだ。
■究極の「娘の秘密」つまり娘の「追い詰められ」に面した父は、いったんは「父の秘密」つまり「追い詰められ」から一旦は脱しかけたにもかかわらず、再びどうしようもなく「追い詰められ」て、究極の「父の秘密」へと自らを閉ざしてしまうことになるだろう。
■ラストシーンの意味は明らかだろう。父の顔が歪むのは、少年への怒りによるものでも、消えた娘への憐憫によるものでも、制御できない自分自身への慚愧の念によるものでもない。全てが分かっているのにどうしようもないという〈世の摂理〉によるものなのである。
■従って、娘がなにゆえに〈ここ〉から〈ここではないどこか〉に逃れようとしてヴァルヤタへと「帰還」したのか、その理由も明らかだろう。娘は母の記憶の痕跡が愛しかったのではない。〈世界〉の「光」から「陰り」への移行を、「陰り」から「光」に戻すのだ。



年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2013年版、宮台発言の一部を抜粋

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年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談2013年版、今週金曜日『週刊読書人』に掲載されます。宮台発言の一部を抜粋します。


【宮台】『小室直樹の世界』(ミネルヴァ書房)の刊行に携わり、小室先生に代表されるオーソドックスな近代理解が今でもどれほど通用するのか真剣に考えました。その視座から見て、今年は震災や戦争が起こっていないものの散発的ながら重要な出来事がありました。アメリカの個人情報大量収集問題やオバマケアをめぐる騒動、日本のヘイトスピーチ問題や特定秘密保護法問題。
 技術・社会・文化・宗教など幾つかの切り口で語れますが、技術という括りが大切です。マックス・ウェーバーの議論を引けば、政治倫理は市民倫理とは別物。市民倫理は心情倫理で構わないが、政治倫理は責任倫理でなければいけない。つまり結果責任が問われる。法令順守に意味を与える社会自体が危うい場合、血祭り覚悟で法令の枠外に出る覚悟が政治家に要求される。
 むろん行き過ぎれば社会が危うくなって元も子もない。何がバランスを保たせるのかが問題です。政治家の個人的見識という答えでは話にならない。オーソドックスな答えはエートスつまり心の習慣とそれが支える政治文化です。ところが順法動機にせよ社会貢献動機にせよ血祭り覚悟で手を汚す行為動機にせよ、エートスよりも、技術を思考しなければいけなくなった。
 アメリカの盗聴法がわかりやすい。盗聴法に関わる最小化措置(誤用乱用悪用をチェックする措置)はローテクノロジーが前提です。電源を入れた瞬間から編集不可能な形ですべてが録音される装置。試し聞きができない。でも今はそうしたローテクノロジーを前提とした最小過措置では賄いきれないほど通信技術が高度化しました。
 ウィキリークスやスノーデンの背後に見え隠れする知識集団アノニマスが持つ技術水準は想像を絶し、NSA(国家安全保障局)が頑張っても、追いついたと思ったら相手が先に進んでいるイタチごっこ。このイタチごっこは僕たちが観察したり想像したりできる範囲をはるかに超えたアーキテクチャーを前提にします。従来の技術的な抑止措置は効きません。
 だからこそ統治権力は、悪意がなくてもあらゆる措置を取らざるを得ない。オバマがテロの脅威から社会を守ろうと思えば、法令を超えても最新技術を使った監視をする他ない。僕がオバマならそうする。かつてなら技術的に制約されたテロ行為が、制約を取り払われた以上、同じく技術的に制約された盗聴行為も、制約を取り払うしかありません。
 この「余儀なきイタチごっこ」を前提にすれば、統治権力が法令枠内に自らを抑制するなどあり得ません。かつて倫理的制約に服すると見えたものも、実際はローテクノロジーを前提にしていたということ。だからこそ、技術の進歩で、倫理に見えたものが崩れるのです。もう少し一般的に言います。
 丸山眞男的な思考、または彼が踏まえるトクヴィル主義に従えば、〈健全な民主制〉を〈自立的な個人〉が支え、〈自立的な個人〉を〈自立的な中間集団〉が支える。ところが日本には〈依存的な中間集団〉しかなく、〈依存的な個人〉が量産され、〈出鱈目な民主制〉になる。ちなみに〈健全な/出鱈目な民主「制」〉と表記するのは、民主的な制度の多くが機能しないからです。
 皮肉にも今、丸山が見本にしたアングロサクソンを含めた先進国が、問題先進国である日本を追いかけています。グローバル化=資本移動自由化で、中間層分解と共同体空洞化が進み、個人が不安と鬱屈に苛まれ、ポピュリストの活動余地が生まれます。ポピュリストが登場せずとも、些細なことから〈感情のフック〉に釣られて人々がモブ化する現象も起こります。
 丸山が全体主義的だと危惧した大衆社会現象が展開するのです。例えば日本。「特定秘密保護法問題」は「安倍ちゃん問題」つまり「ヒトラーを欠いたアイヒマン問題」です。「アイヒマン問題」はアーレントの言う「悪の凡庸さ問題」つまり「上から言われた仕事をしただけ問題」です。そして「上」とは「安倍ちゃん」。カリスマ総理どころか、昔の同級生たちが嘲笑する類。
 要は「巨大な空洞」です。ブッシュのアメリカもそう。このユニバーサルな現象の背景にも、情報技術による社会の過剰流動性を背景にした感情政治があります。またもや技術。〈健全な民主制〉を支えるのは宗教社会学的エートスだと考えられてきたけど、エートスがあろうが、技術のプラットフォームが変われば〈自立的な個人〉を支える〈自立的な中間集団〉が崩れます。
 図式としては戦間期前期(1920年代)と第二次大戦後(1950年代)に隆盛となった、マスコミ論と結合した大衆社会論に似ます。でも大学で教えられたのは1970年代まで。80年代以降は日本で言えば「大衆化ならざる分衆化」、世界でいえば「生活の個人化と多様化」という話になり、大衆社会論は忘却の淵に沈みました。それが再び「技術と不安とモブの時代」になりました。

【宮台】ただ、かつてと違って技術的合理性の帰結が見えません。ハーバーマスが『認識と関心』で、認識は知ること(知識)で、関心はコミットすることだとしました。知識だけでは社会は回らず、価値コミットメントが必要だとする、パーソンズの影響です。それを前提にしてハーバーマスは道徳あるいは価値コミットメントに関する二つの立場を分けます。
 道徳的主知主義と道徳的直感主義です。前者は、「良いことをすれば神が天国に導いて下さる」「良いことをすれば社会が良くなる」といった〈理由ある利他〉。これは帰結主義的な功利主義的とマッチしますが、ハーバーマスはギリシア的伝統に従い、主知主義では道徳を機能させられないとして、最終的に道徳的直感主義を推奨します。
 「善きサマリア人」の喩話でいえば、戒律を参照する〈理由ある利他〉でなく、思わず体が動く〈理由なき利他〉が良いとしたのです。〈理由ある利他〉は損得勘定に基づく〈自発性〉。〈理由なき利他〉は内から湧く力=virtue(徳)に基づく〈内発性〉。ギリシア研究で名高いアーレントの「労働/活動」の区別も同じです。
 思えば冷戦終焉後、技術の帰結も経済の帰結も見通し難くなり、功利主義が前提とする帰結主義的な行為制御が難しくなります。ゆえに内から湧く力を推奨する「共同体的徳論」(サンデル)や、契約の結び直しを考える「一般意志論」に力点が移ったのです。こうした反功利主義の気持ちは理解できます。でも「徳」も「一般意志」も社会の空洞化ゆえに自明じゃない。
 だからこそ、ハーバーマスの「認識から関心へ」にせよ、ギデンズの「感情の民主化」にせよ、僕自身の一連の議論にせよ、損得計算の〈自発性〉より内から湧く〈内発性〉を重視する「徳論」に加え、〈内発性〉を埋め込むパーソンズ流の「社会化論」に回帰するんです。古くは晩期ウェーバーの「非合理人」の推奨に遡る発想です。
 ラルフ・ワルド・エマソンの「内なる光」から、ジョン・デューイの「経験による教育」を経て、ローティの「感情教育」に到るプラグマティズムの流れも同じ。自明でなくなった「内なる光」つまり〈内発性〉を、新たに埋め込むための教育的実践を、パターナリスティックに推奨します。もちろん日本の大学がシフトしつつある実用教育とは関係ありません。

【宮台】帰結の予測可能性が失われれば、「最大リスクの最小化」という古典的マクシミン戦略に従って、相手に先んじることが重要になります。国際法違反の先制攻撃を推奨するマイケル・ウェルツァー「“汚れた手”論」です。でも彼が見逃すのは「テロリストであれ、政府であれ、事情が全く同じであること」です。であれば抑制なき悪循環で深みにはまります。
 現に深みにはまった。これを制御できるのは古典的にはデモクラシーによる監視と制御だけ。でも困難です。SNS等インターネットを通じて、従来は政治に参加しなかった層が、感情的な表出ツールとして政治的コミュニケーションに乗り出すようになります。ブッシュ当選をもたらした共和党支持層者の変質や、安倍晋三がネット世論を背景に再登板したのが、典型です。
 するとチャーチルが「民主主義は最悪の政治制度」と言った最悪部分が前景化せざるを得ない。「資本主義は、資本主義によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を資本主義の作動が壊す」のと同様、「民主主義は、民主主義によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を民主主義の作動が壊す」事態が進行中です。共通の背景はグローバル化と高度IT化です。
 かくて経済学がいう「負の外部性」図式が各所で顕在化。システムは底が抜けた状態を露呈します。社会システム理論的には「元々底が抜けていたものが明らかになっただけ」で「ポストモダンはレイトモダンに過ぎない」のですが、横に置きます。問題は、負の自己強化的循環の、抑制を支える知識や情報が不透明になり、道徳的主知主義が働きにくくなった現実です。
 かといって、プラグマティックな実践を通じて〈内発性〉を埋め込む処方箋も、ローティのアメリカ---抽象的には共同体的徳論のいう共同体---を前提する以上、グローバル化と高度技術化で共同体が空洞化すればアンリアルになり、道徳的直観主義も自明性を失う。現にそうなっています。「認識」面でも「関心」面でもシステムは負の悪循環の制御装置を失いました。
 グローバル化が高度技術化を支え、高度技術化がグローバル化を支える。グローバル化は、資本移動自由化を通じて「社会はどうあれ、経済は回る」状態を生む。高度技術化は監視社会化を通じて「社会ばどうあれ、政治は回る」状態を生む。だから経済のパワーホルダーも政治のパワーホルダーも社会保全に関心を持たない。社会が荒廃して〈出鱈目な民主制〉になる。
 この〈出鱈目な民主制〉を通じて、社会の荒廃が与える不安や鬱屈という痛みにつけこんだポピュリストが登場する。かくして社会の荒廃を放置したままでの---むしろ社会の荒廃を利用した---感情政治が支配的になる。⋯⋯といった相互連関課程において、僕らが辛うじて手を付けられるのが「技術とデモクラシー」の関係です。でも自覚されない。象徴が「LINE問題」です。

【宮台】難しいのは、その際、速度が大切になることです。システムの作動クロックの問題です。日本の行政官僚からすれば、首相も政権も数年ごとに変わり、まして民意はコロコロ変わるので、最も安定した思考枠組を維持できるのは霞が関だけという思いを抱いて当然です。速いものよりも遅いものの方が全体性を理解できるという自信です。
 こうした自覚と自信が、行政官僚制の愚昧な無謬図式や、既得権益への依存図式を、正当化してします。政党であれ何であれ、アソシエーションが民主的主体たり得て現に民主主義を支えるという自信を持つには、周りよりも自分たちの速度が遅いのが重要です。要は右往左往しないこと。そうした遅さを政党が調達できるのかどうかが問題です。

【宮台】苅部さんは[速度が遅いのは天皇だと]笑わずにおっしゃった。多くの人がそれを実感しています。山本太郎参議院議員の園遊会事件を見ると国会議員やマスコミの神経質な対応が目立ちます。かつて将棋さしで都教育委員会にも名を連ねた米長邦雄名人が、イエスと答えてもノーと答えても政治的になるような問答に陛下を引き込む不敬を働きました。この悪行に比べれば参議院議員であれ大したことない。
 陛下は右往左往せずに、手紙を受け取ってすぐに侍従に手渡し、その場で問答しておられない。実に安定して洗練された作法。それだけで問題の輪郭がはっきりしました。「有象無象が浅ましく騒いでいるが、陛下は立派に安定しておられる」という図式。そうした安定を信頼され尊敬される存在が他にも多数いればよいが、今はどこにいるのか。

【宮台】そう。そして戦後はかわりに知識人がいた。自分たちは貧しいという国民的共通前提があった60年代までは。でも豊かになって共通前提が崩れると知識人が消え、「知識人」とされる連中こそ衆目の前で右往左往する浅ましさを曝すようになる。僕が『朝まで生テレビ』から降りた理由です。レベルの低い人たちのショーですからね。
 過剰な速度に抗える存在とは何か。それが社会解体に抗う「技術とデモクラシー」論の核心です。南アフリカの監督ニール・ブロムカンプがアメリカで撮った映画『エリジウム』が直感を描きます。資本移動自由化が進み、究極のゲーテッドコミュニティに暮らすスーパーリッチと、荒廃しきった都市と郊外でモブ化したピープルに、社会が分化して、空間も分化します。
 空間の分化を可能にするのがテクノロジー。スーパーリッチはスペースコロニーに、ピープルは汚濁した地球に居住。両者はテクノロジーで隔離されます。汚濁した地球の空にはいつも巨大なスペースコロニーが見える。このビジョン自体が「グローバル化と技術化による社会的荒廃」を象徴します。ならば処方箋も「グローバル化と技術化の民主的制御」です。
 グローバル化と技術化を制御しないエリアは、スーパッリッチ・ゾーンとモブ・ゾーンへと二極化します。それらとは違うサードエリアとして生き残るにはグローバル化と技術化の野放図に対するブロックが必要です。スローフード運動や再生可能エネルギー運動で〈食とエネルギーの共同体自治〉を進めてきた欧州の一部が見本だし、日本ではコミューン運動の一部が見本です。
 米国全体・欧州全体・日本全体をどうするという発想はもう無理です。グローバル化と技術化がもたらす巨大システムに依存せずとも自立できる〈共同体自治〉を樹立した場所だけがゾーンの二極化から距離をとれる。それには「〈便利・快適〉より〈尊厳と幸福〉が大切」「〈自発性〉より〈内発性〉が大切」という、認識よりも関心(コミットメント)の共有が不可欠です。

【宮台】そう。日本でも「〈便利・快適〉より〈尊厳と幸福〉」「〈自発性〉より〈内発性〉」という認識ならぬ関心を持つのは富裕層。ワクワクメールから依頼された25歳の女性を3層に分けたリサーチで確認しました。僕が世田谷区の行政に関わる中で実感したことでもある。認識よりも関心を目的とした「教育した上での包摂」「包摂した上での教育」が大切です。

【宮台】微妙です。厳密には保守主義の枠に入りません。むしろ主意主義的な右翼。まず端的な意志があり、意志の実現に向けて合理的方法を探る人です。探る過程で宗教的エートスが発見されます。確かに保守主義者もエートスを重視するので同じに見えるけど、小室先生の場合、エートスや共同体的徳が端的に大切というより、それがないとアメリカと戦争をして負けるのが問題です。
 微妙なのは、小室先生のそうした意志が、端的事実というより、共同体が育む徳だと解釈できる点です。先生は貧しい母子家庭で育ち、政治家の渡辺恒三氏をはじめ複数の家から経済支援を受けて会津高校に通い、京都大学からハーバードとMITに進みます。そのことに強い恩義を感じておられました。先生の愛国は恩義の気持ちと結合している。
 僕は三層で理解します。表層はウルトラ合理主義者。中層は主意主義的右翼。深層は共同体的徳に殉じる保守。先生自身は表層と中層を明確に表現していたけど、深層を語らなかった。右翼ならぬ保守の側面、あるいはコミュニタリアン的側面は、語られていない。それは『小室直樹の世界』でも述べました。でも論理的に深層があるはずだし、近くにいても深層を感じました。
 さて今回の話を違う方向から考えます。先ほどのクロック問題は、人間社会の問題というより、もっと形式的な問題ではないでしょうか。進化生物学のエドワード・ウィルソンの議論は、一時は物議をかもしましたが、今は感情を支える遺伝子が幾つも発見されて確からしくなってきました。そこで再び彼の議論を振り返ります。
 幾つかの本で書いたように、人は利他的存在のありそうもなさに感染し、利己的存在に感染しません。この傾きにはウィルソン的に言えば遺伝子的基盤があります。自然淘汰というと個体間の闘争を考えますが、実際にはどんな群のつくり方、どんな集団生活をするかが、集団単位の生き残り可能性を決めます。人の集団生活は社会生活で、社会生活は文化に支えられます。
 集団生活次第で集団単位の生き残り可能性が決まるとは、文化次第で生き残り可能性が決まること。「遺伝子が一定の文化を可能にし、文化が一定の社会生活スタイルを可能にし、社会生活スタイルが集団の生き残りを可能にし、集団の生き残りが一定の文化を可能にする遺伝子の生き残りを可能にする」という循環があります。
 それを踏まえて社会を見ると、優勝劣敗主義のリバタリアニズムの立場を僕が取ったにせよ、最後に生き残るのはゲーム理論でいう協力解を選択するコミュニタリアニズム的社会集団だと主張することがありうる。現にグローバル化競争に強いのは血縁主義的な協力解を選択し続けるユダヤ系と中国系です。
 リバタリニアリズムとコミュニタリアズムは社会思想として横並びでも、ウィルソン的には、コミュニタリアニズムはリバタリアニズムの帰結でありうる。ゲーム理論的意味で協力解を選択する集団の生存確率が高いのなら、それを意識できる集団が再帰的に協力解を推奨するコミュニタリアムズムを採用するのは合理的です。

【宮台】そう。社会システム理論では、社会の内部と見えるものも外部と見えるものもシステムの作動が生み出す内部表現です。ニクラス・ルーマンは「視神経は電気的に作動するが、山が見えるとき、山と電気的に繋がっているのでなく、電気的作動が内部表現を構成するに過ぎない」と言います。このビジョンが人口に膾炙してきました。
 大澤真幸氏の「アイロニカルな没入問題」がそう。アイロニーとは全体を部分に対応付けて脱臼させること。高尚なことを言う人がいても「彼は内在系ならぬ超越系だから」と梯子を外す。強硬外交を主張する首相がいても「幼少期からの劣等感を埋め合わせているだけ」と梯子を外す。外された側は「オマエモナ」と返し、誰もがアイロニカルな事実に居直る。
 この2ちゃん的コミュニケーションは少し前まで日本的と言えましたが、今はどの国にも蔓延し、発話の妥当性要求が頓挫しやすい状況が普遍化しました。だからこそ、遺伝子的基盤を含む循環や集団的淘汰のメカニズムなど、内容的ならぬ形式的問題を---文科系ならぬ理科系的問題を---持ち出したくなる。むろん内部表現上のシフトですが、より文脈自由になるからです。

【宮台】形式的理論への傾斜は、過剰流動性への抗いです。その点、形式的理論への傾斜とプラグマティズムへの傾斜が機能的に等価です。むろん実用主義の意味ではなく、エマソンからデューイを経てローティにつながる「内なる光」の流れです。では、なぜプラグマティズムが復権するのか。渡辺さんが出されたビックデータの話がヒントです。
 ビックデータを適切に処理して答えを見出す。それがアグリゲーターです。ビックデータとアグリゲーターが行動指針を出力する。この系列に主体は登場しません。ウェーバーによれば、近代化とは合理化で、合理化とは手続主義化による計算可能性の増大です。彼はこの合理化を肯定する反面、人が合理的になれば入替可能になって主体ではなくなると危惧しました。
 これはニーチェの影響を受けた晩期ウェーバーの議論で、日本で山之内靖氏が紹介しました。入替不能な主体であるには非合理人でなければならない。ウェーバー研究を学位論文としたパーソンズも、主意主義的な主体を、計算可能性を裏切るランダムネスだとします。これらの思考に従えば、ビックデータとアグリゲーターに従って行為を出力する人間とは一体何なのか。
 そんなものの先に人が社会を営むという意味での人倫はない。そこの先に開かれているのは別の何か---ウェーバーの言う「鉄の檻」---です。人倫のためにも人間が主体じゃなければ駄目。システム理論的に言い直せば、人間が主体だと互いに信じられなければいけない。そういう直感がピープルに拡がってきた。その表れがプラグマティズムの復権です。
 形式的理論への傾斜とプラグマティズムへの傾斜と並んで、過剰流動性への抗いを共有するのが、宗教への傾斜です。カルチャーセンターでは宗教的関心が高まってきました。かつてのニューアカと結合した仏教ブームと違い、ユダヤ教史やキリスト教史や古典的な宗教学への関心です。背景は、過剰流動性に巻き込まれたくないとの意識でしょう。

【宮台】宗教講義で若い人が食いつくポイントがあります。「善きサマリア人」と「マグダラのマリア」。「善きサマリア人」は、〈理由ある利他〉ならぬ〈理由なき利他〉を推奨しますが、古代ギリシャの影響が考えられ、プラグマティズムの「内なる光」に通じます。「マグダラのマリア」はそれに関連して、戒律を守れば救われるとする思考を否定します。
 ただし喩を用いて戒律からズレた内面を作り出した(吉本隆明・橋爪大三郎)のではない。所詮は人間が書いたに過ぎぬ矛盾に満ちたトーラーを、これぞ絶対神の意志だと相対者に過ぎない人間が解釈し、ミツヴァ(戒律集)として布告、破った者(マグダラのマリア)を糾弾する。このパリサイ派の営みが本来のヤハウェ信仰からの逸脱だとするイエスの批判です。
 イエスは一貫して〈理由ある利他〉を否定、〈内発性〉を推奨します。でも、我々が善かれと思って為したことの帰結は分からない。それが原罪です。神でもないのに善悪判断をするから必ず間違うとするのが原罪譚です。「マグダラのマリヤ」でのパリサイ派批判も原罪譚に関連する。そこで僕が持ち出すのが漫画です。
 手塚治虫の『鉄腕アトム』では、交通事故で瀕死の重傷を負った少年を天馬博士が助けたら、正義の味方になりました。浦沢直樹の『MONSTER』では、瀕死の重傷を負った少年を天馬博士が助けたら、ヨハンという絶対悪になりました。二人の天馬博士は「善きサマリア人」の如く振る舞いましたが、原罪譚が示すように帰結が人知を越えていた。キリスト教の本質はそこです。
 何かを為しても、何に繋がるのか分からない。ならば、縮んでいればいいか。違う。〈内発性〉に従って前に進め。それを奨励すべく「見る神」としての絶対神が存在する---「見る神」は最古の宗教的表象だと前教皇ベネディクト16世は言います。日本ではご先祖様。見られて人はシャンとする。それが遺伝子的基盤とも関連した〈内発性〉の重要なパラメータかもしれません。
 彼に従えばキリスト教の祈りには「主よ、皆を裏切らぬよう私を見ていてください」と「主よ、私はあなたのものです」の二本柱があります。前者が〈内発性〉に、後者が〈理由ある利他〉の否定に関連します。後者は、自分が救われたくて利他を為すのでない。為したことの意図せぬ帰結次第では地獄も覚悟するとの意味です。昨今こうした話が理解されるようになりました。

【宮台】プラグマティズムに戻ると、存在したはずの「内なる光」が失われがちです。ルドルフ・シュタイナーに遡れば「内なる光」は誰にでも潜在的にあります。でもこの潜在性がどれくらい発露するかは、ある期間までの育ち方で決まる。読み書き算盤は臨界年齢が高くて取り返しがつくが、感情の深さの育ちは臨界年齢が低くて取り返しがつかないとします。
 神秘主義者として片付けられるシュタイナーもプラグマティズムです。また、取り返しがつくものより、取り返しがつかないものから学ばせよとの構えは、パーソンズの「プライマリーな社会化/プライマリーでない社会化」にも繋がるパターナリズムで、「内なる光を“効果的に”埋め込め」というパターナリズムは、デューイを含め、20世紀前半のシステム複雑化と並行して上昇します。

【宮台】プラグマティックな実践を通じて〈内発性〉(徳)を埋め込む社会化の実践も、サンデルの共同体的徳論のいう共同体を前提します。共同体は事実性で、前提を理想的発話状況という仮想始源に遡って正当化する初期ハーバーマスの企図はルーマンとの論争後に撤回されます。どんな実践にも前提が必要で、前提として何を持ち出すのが有効かだけが問題です。
 エマソンにからローティに到るプラグマティストの流れは、実践の前提としてアメリカの社会習慣を持ち出します。前提を正当化できるか否かでなく、信頼できるか否かが問題だからこれでいい。苅部さんのおっしゃるように、日本で徳を埋め込む社会化実践を支えるどんな前提が信頼できるかが問題です。三島由紀夫の問題設定でもあるので天皇が出て来ます。

【宮台】それが竹内好の「一木一草の天皇制」です。

【宮台】過剰流動性に抗って、昨今は、内容不関与な形式的理論、内なる光を埋め込むプラグマティズム、利他の形式を論じる宗教が持ち出される。これは戦間期前期の一九二〇年代に似ます。それで一九三〇年にマグヌス・ヒルシュフェルトが書いた『戦争と性』を読み直してみると、何が何ゆえに反復するのかがよく分かります
 未曾有の最終戦争と、経験を超えた事態の数々。それでも戦場には勇猛果敢さを示す兵士がいて、銃後には博愛精神を示す看護婦がいた。これらを美談とするのは、社会に都合がいいものを似非道徳で正当化しただけ。実際は、性的抑圧が生み出した攻撃性と、性的抑圧が生み出した代償行為があるだけ。これをヒルシュフェルトはデータで立証します。同時代はワイマールのエログロです。
 経験を越えた事態を理解する際、従来の経験枠を前提にした道徳では無理だとの意識が高まり、一方で〈常識外れのエログロ〉が隆盛となり、他方で〈常識外のデータを分析する科学〉が隆盛になります。フランス革命後の混沌期も、第二次大戦後の1950年代もそう。得体の知れないものが立ち上がった後によく見られる〈反啓蒙的志向〉です。
 人倫についての人文科学的考察は、従来の経験枠を前提にした抽象化です。グローバル化と高度IT化を背景に噴き出す得体の知れない現象の数々に、これでは太刀打ちできないという直感が働く。それで、一方で、自然科学的な形式的理論に注目が集まり、他方で〈内発性〉の埋め込みという実践形式自体や利他形式自体に注目が集まるのでしょう。

【宮台】苅部さんがスメントを出されました。彼が言う崇高なる精神共同体や崇高なる全体性は存在するのか、存在しないなら作らねばならないのか。これは重大な問題です。シュミットは当初、カトリシズムに基づいて「存在する」としましたが、ナチ勃興と同時に「存在しないので、政治が作り出せ」と反転します。「存在する」のか「作り出す」のか。
 今日の僕らは後期シュミットのように考えるしかない。どんなに小さなユニットにも個人のスコープやスパンを超えた全体性が必要で、それをコミットするに値するものとして志向します。それが共同性です。そのこと自体は範域の大きさに関係なく、しかも今や保全というより作り出すしかなくなっています。大きさによる違いは「作り出す」との意識に基づく制御可能性です。
 そこに注目するのがキャス・サンスティーンの「二階の卓越主義」です。昨年も紹介したように、今日の状況では不安と鬱屈につけ込むポピュリストによる悪い全体主義的動員が、熟議を壊します。だから、これを完全情報化と分断克服によって排除した上、妥当な民主的決定をもたらし、結果として我々意識を醸成強化しようと。これもマイルドな全体主義です。
 無論「崇高なる全体性」は持ち出されません。分断ならぬ包摂を企図した穏やかな熟議を通じて「我々意識」を作り出す。でもそこにはスモールサイズであれ全体性への願望があります。全体主義アレルギーの時代なら怪しい企図だと考えられたはず。実際こうしたスモールユニットを活性化した上で束ねることでファシズムとナチズムが展開した。でもそこは譲るしかありません。

【宮台】実は賛成です。僕も制御可能性からスモールさが大切だと言いました。でも、どんな敵が現われるかは想定した方がいい。古市氏は恵まれた若者です。恵まれない若者はどんな種類であれ全体性に吸引されます。ならば「崇高なる精神共同体」と「熟議が作り出す我々」という全体性内部の区別を保持したほうが得策だし、関心=コミットメントを引き出せます。
 後期シュミットは評判が悪いが、実は高橋和巳『邪宗門』の発想です。左翼活動家で無神論者だった主人公・千葉潔が、無知な貧しき者たちを導くべく、ひのもと救霊会という教団の教祖に収まり、教団内部に全体主義的動員を仕掛ける。これはいけないのか。高橋自身は結論が出ない問題だとしますが、僕らもそう考えるべきではないか。
 僕はひのもと救霊会のモデルになった京都山科の一燈園というコミューンに子供時代に馴染んでいました。井上達夫氏がおっしゃったように、お前の責任で救わねばならぬ人々がここにもそこにもいるだろうと突きつけられたとき、千葉潔のロジックを否定するのはとても難しい。渡辺さんの懸念に賛成しつつ、それだけで本当に先に進めるのかと思うんです。

【首都大学東京での、来年度学部ゼミのシラバス】

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2014年度(来年度) 学部ゼミ シラバス

★授業方針・テーマ
【現代社会論】
(1)近代西欧政治思想史、(2)近代日本政治思想史、(3)戦後日本政治思想史、を年度をまたいで一巡する形でゼミを運営する。昨年度(2013年度)は⑴を学んだので、本年度(2014年度)は、前期で⑵を、後期で⑶を学ぶことにする。

★習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標
 社会学理論を修得するには歴史と思想史の知識が不可欠である。あらゆる理論には時代や社会の文脈が刻印されているからだ。理論の意義を評価するにも時代的文脈や社会的文脈の参照が欠かせない。ところが最近は歴史的・思想史的常識を欠く学生が目立つ。以前は一年でリカバーできたが、最近では無理になったので、複数年度にまたがるプログラムにならざるを得ない。ただし参加資格も成績も単年度完結。諸理論と歴史的背景をカップリングして理解できるようになること—理論を学ぶ資格を獲得すること—が目標である。

★授業計画・内容
【前期】大川周明を理解する
 A級戦犯として起訴後、精神疾患を理由に免訴された大川。単なる大東亜戦争への煽動者と見做せない。戦後日本の保守や右翼とは何かを考える際、大川を避けて 通れない。
 日本的保守とは何か。シンクレティズム的寛容か。二元論的天皇原理主義か。原理主義を却ける大川の議論は、都市型保守へのシフトで原理主義化しやすい昨今、一瞥に値する。
 「イスラム的」の概念で亜細亜的寛容さを代表させようとする大川の枠組は、米国の喧伝でイスラムを原理主義だと錯覚しやすい昨今、イスラム性の本質を理解する際に役立つ。
 
【後期】吉本隆明を理解する
 高度成長期、古いものが消えゆき新しいものがせり上がる中、光(近代)と闇(前近代)は互いに隣りにあると感じられた。江戸川乱歩や川端康成を生んだ戦間期1920年代に似る。
 学園闘争の中で多くの者が、近代の建前の裏に厳然と存在する日本固有の風土について、マルクス主義や近代政治学など19世紀にルーツを持つ近代思想では覆えないものを感じた。
 思想的乾きの中、柳田民俗学と精神分析学の関係、キリスト教論と仏教論の関係を踏まえた吉本を読むことは解放だった。戦間期20年間と戦後20年間を比較すべく、吉本を読む。
 
★テキスト・参考書
【前期】大塚健洋『近代日本政治思想史入門』『大川周明』、大川周明『米英東亜侵略史』
【後期】小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』、吉本隆明『転向論』『共同幻想論』ほか諸著作

★成績評価方法
ゼミ報告をした者にのみ成績評価をおこなう。ゼミ報告のクオリティとゼミでの発言頻度やその内容を評価して成績をつける。

★特記事項
なし
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首都大学東京での、来年度大学院ゼミのシラバス

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2014年度(来年度) 大学院ゼミ シラバス

★授業方針・テーマ
【危険思想としての社会学】
 社会システム理論は、ウェーバーやデュルケームやジンメルの時代から、右翼思想や保守思想や全体主義思想と極めて近縁である。そのことは社会学の欠点よりもむしろ長所と密接に結びついている。そのことを徹底的に理解した上で危険回避の方法を探求する。

★習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標
 社会システム理論の最先端、ならびに政治哲学の最先端の議論を、習得する。それを通じて、全ての社会学ないし社会理論の政治性をチェックできるようになることを目指す。同時に、目下の政治状況を適切に記述し、マッピングするための能力を習得することをも目指す。キーワードは、全体主義、右翼、保守主義、社会化、ニューディール政策、パターナリズム、事実性、恣意性、非任意性、歴史性。

★授業計画・内容
キーコンセプトは「危険思想としての社会学」とし、一定の角度から社会学史と、社会の歴史との関係を、徹底的に掘り下げる。

【前期】
1 理性・啓蒙・専制ー(社会学の揺鹿)
(中心となる歴史的事件:フランス革命、普仏戦争)
2 情念・生・イデオロギ一一(社会学の興隆)
(中心となる歴史的事件:第1次世界大戦とワイマール体制)
3 普遍・正義・覇権一(社会学の全盛)
(中心となる歴史的事件:大恐慌とニューディール政策、第2次世界大戦)

【後期】
4 自由・差異・闘争ー(社会学の衰勢)
(中心となる歴史的事件:社会福祉国家の破綻とネオリベラリズム)
5 正統化・設計・正戦ー(社会学の転換)
(中心となる歴史的事件:冷戦終結とグローパリゼーション、9.11)

テキスト・参考書
院生諸君の希望ならびに学力を参照しながら、ゼミナールの冒頭段階で詳細を決める。

成績評価方法
ゼミ報告をした者にのみ成績評価をおこなう。ゼミ報告のクオリティとゼミでの発言頻度やその内容を評価して成績をつける。

特記事項
なし
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首都大学東京での、来年度基礎教育科目「社会意識と社会構造」シラバス

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2014年度(来年度) 基礎教育科目「社会意識と社会構造」シラバス

★授業方針・テーマ
自らを自由であると意識する者の表現が、意図せずして時代や社会を刻印されてしまうのは、なぜか。本講義では戦後日本のサブカルチャーを素材としつつ、この問いに答える。そこではマルクス主義的な上部/下部構造論や、グラムシ的な文化的ヘゲモニー論は否定され、社会システム理論的な立場から意味論の遷移の基本メカニズムが見出される。

★習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標
文化的表現を時代や社会に関係づける思考は、マルクス主義の影響下「思想の科学」グループが70年代までは豊かな業績をもたらしたが、以降失速した。いま流行の「文化研究」も欧州マルクス主義(グラムシのヘゲモニー論)の影響を受けており、エスニシティやクラスやジェンダーやナショナリティといった社会的文脈に関する〈社会的文脈の無関連化機能〉を特色とする70年代半ば以降の日本的コンテンツ史を分析できない。文化的表現から時代や社会を見通す適切な学問的方法を修得することを目的とする。

★授業計画・内容
(1)本講義では、まず思想史を振り返ることで、ヒューム=スミス=ミル的な解答のパターンバリエーションを整理し、リベラリズムないし保守主義的な解答のパターンと、マルクス主義的な解答のパターンがあることを、徹底的に頭に叩き込んでもらう。
(2)次に、戦後少女文化史・戦後歌謡文化史・戦後青少年漫画史・戦後性愛表現史・戦後映画史・戦後テレビ番組史などについて、すべてを通底し一貫する時代区分を提供する。具体的には55年、64年、72年、77年、83年、92年、97年、02年に画期が見出される。
(3)それを踏まえ、各時代区分に相当する各ジャンルの作品群を一瞥する。実際に音楽作品を聴いてもらい、あるいは漫画や写真を見てもらい、あるいはビデオやDVDを見てもらう。そうすることで、各時代区分のコミュニケーションのモードを手触りや雰囲気に至るまで、徹底的に理解する。
(4)続いて、各時代区分ごとに、次の時代区分に移行するモメント(動因)が含まれていることを理解する。ならびに、複数の潜在的モメントのうちの一部が、偶発的に、あるいは環境条件によって因果的に選択されて、次の時代区分に移行する有り様を、よく観察してもらう。
(5)「自らを自由であると意識する者の表現が、意図せずして時代や社会を刻印されてしまうのは、なぜか」の問いに再帰し、私たちが同時代を観察する際に有効な理論的図式を整理した上で、自らのものとしてもらう。その際に、対抗的理論との対照をも理解してもらう。

★テキスト・参考書等
参考書は、宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補版サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫)。そのほか、CD、ビデオ、DVD、コミックスなど、随時。なお、宮台公式ホームページ「ミヤダイ・ドットコム」に関連する文章が随時アップされるのでチェックすること。ミヤダイ・ドットコムのURLはhttp://www.miyadai.com/

★成績評価方法
記述式の筆記試験で評価する。筆記試験は原則「自問自答」方式。自分で適切な問題を作成して回答する。試験時間は90分。問題難易度・一般性・論理性が適切であれば基準点80点を与える。加点要因として忠実性と独創性をカウントする。なお筆記試験を受験した者に限って自主的に提出されるレポートも成績評価の参考にする。その場合、レポート提出を以て筆記試験の代用とすることはできない。

★特記事項
サブカルチャーを素材にしているので、とっつきやすい講義に見えるが、中身はきわめてハードであり、気軽に聴講することは不可能である。また、サブカルチャー(マンガ・音楽・映画・小説など)に関心が薄い学生でも聴講できるように配慮するが、授業で言及した素材を自分で探し出して検分する熱心さが不可欠となる。
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首都大学東京での、来年度専門科目「社会学原論」シラバス

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2014年度(来年度)専門科目「社会学原論」シラバス

★授業方針・テーマ
 社会システム理論の基礎概念を学ぶことを通じて、近代社会の全体性を把握することを目的とする。近代社会はそれ以前と違って機能的に分化したシステムである。分出したサブシステムの主要なものの働き(機能)を理解し、最終的には近代社会の全体像を把握する。その上で、現在の社会の、近代社会の理念型からの偏差を、計測する。

★習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標
 新聞や雑誌の様々な記事を、背景や社会的文脈を見通しつつ読み抜くための、基本的な道具立てを習得する。マスコミや公務員など(準)公的な仕事を志望する学生に必要な素養を身につけることはもちろん、社会に対する単なる「認識」を超えた「関心(コミットメント)」を我が物とするために必要な装置の総体を閲覧する。
 
★授業計画・内容
 まず、社会とは何かを概念的に理解した後、近代社会とは何かを講ずる。しかるのちに、宗教とは何か、法とは何か、政治とは何か、経済とは何か、教育とは何か、家族とは何か、芸術とは何か、科学とは何かについて、1テーマ原則2回ずつ使いながら、最終的に近代社会の全体像をカバーするに到る。
 
(1)社会とは何か・社会学とは何か・一般理論とは何か
(2)システムとは何か・秩序とは何か・社会システムとは何か
(3)構造とは何か・選択前提とは何か
(4)信頼モデルとは何か・予期とは何か・二重の偶発性とは何か
(5)制度とは何か・社会統合とは何か
(6)行為とは何か・役割とは何か
(7)人格システムとは何か・自由とは何か
(8)下位システムとは何か
(9)宗教システムとは何か
(10)法システムとは何か
(11)政治システムとは何か
(12)学的システムとは何か & 全体の復習&質疑応答

★テキスト・参考書
「連載・社会学入門」(全23回)を用いる。宮台公式ホームページ「ミヤダイ・ドットコム」http://www.miyadai.com/ フェイスページの右サイドに同名のリンクがある

★成績評価方法
記述式の筆記試験で評価する。筆記試験は原則「自問自答」方式。自分で適切な問題を作成して回答する。試験時間は90分。問題難易度・一般性・論理性が適切であれば基準点80点を与える。加点要因として忠実性と独創性をカウントする。なお筆記試験を受験した者に限って自主的に提出されるレポートも成績評価の参考にする。その場合、レポート提出を以て筆記試験の代用とすることはできない。

★特記事項
なし
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昨年9月、晴佐久昌英神父(多摩教会主任司祭)と対談させていただきました

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 昨年9月に早稲田奉仕園で開催された「いのり☆フェスティバル」(略称=いのフェス)で、晴佐久昌英神父(多摩教会主任司祭)と対談させていただきました。そのごく一部を抜粋します。



――(会場からの質問で)「救われたいと思っていない私はどうしたらいいでしょうか?」

晴佐久 (略)
宮台 僕はかなり若いころから聖書を読み込むのが好きだったのですが、いわゆるユダヤ教のファリサイ派と言われる人々は、「なぜこんなに真面目に生きているのに救われないのでしょう」「なぜ神は働かれないのでしょう」と嘆いてきました。そこにイエスが出てきて、私を見れば神が働いていることがわかるというメッセージを伝えたわけです。奇跡という概念もイエスをとおして神の働きを知るためのものであって、「なぜ神が働かないのか」という問いは、イエスからするとナンセンスの極みなのです。むしろ神が見ていてくれるので、普通ならできないはずの利他的な自己犠牲的振る舞いができる。そこにすでに神が働いているというのが、イエスの大切なメッセージです。救いというのは、今ここで実現していると理解すべきものだと思います。
晴佐久 (略)
宮台 日本はヤンセニズムの影響で、プロテスタントが好きな学者さんが多いんですが、僕はあまり好きじゃない。プロテスタントはどうしても、カトリックにおける「私が〝皆を裏切らないように〟見ていてください」というところが見えにくいんです。だから救いの意味が天国入りのように御利益と解されがち。ところが第二バチカン公会議以降のカトリックは、見る神が、不可能なはずの自己犠牲を可能にすることに、救いを見ます。ただ、その自己犠牲が最終的に何をもたらすのか、原罪ゆえに人には見通せないので、「私はあなたのものです」と裁きを神に委ねる。宮沢賢治的な法華経理解と同じです。僕がカトリックを好む理由です。



――「自分の性に自信が持てません。モテない私に価値はありますか? 性的なことをどう思いますか?」

宮台 僕はずっと売買春やクスリのフィールドワークをしてきました。この間、基本的に状況は変わりません。現在でも、東大生や医学部生で売春をしている女性が相当数います。彼女たちに理由を聞くと、「好奇心」が「親への恨み」と結びついているのです。「この親さえいなければ、私は別の人生を営めたのに」「この親さえいなければ、別の世界を知れたのに」というタイプの恨みです。
 僕はいわゆる「ナンパ地獄」に明け暮れた11年間という実体験を持っています。ここで初めて明かしますが、「親への恨み」が背景にありました。小四の頃、早生まれでいろんなことができなかった僕が、できるようになると、母親が突然教育ママに変じました。成績も上ってリレーの選手になり、親の目から見ると自慢の息子になっていきますが、僕は逆に、化けの皮が積み重る思いに苦しみました。思えば、性的なものへの傾倒も、親に奪われたものを回復するためのものだった。
 昨今は〈恨みベース〉のコミュニケーションが蔓延します。ヘイトスピーカーたちが新大久保を歩いていますが、イデオロギー問題より、彼らのたたずまいに〈恨みベース〉の実存を感じます。ひきこもりの子らの多くに、親を困らせるためという動機があります。「ナンパクラスタ」と言われるインターネットのナンパ系の連中にも恨みを強く感じます。社会学で「ミソジニー(女性憎悪)」と言いますが、女性を〈物格化〉してコントロールしたがる男たちです。彼らは母親にコントロールされてきた恨みを、母親のかわりに女性をコントロールして晴らします。
 こうした人々を量産されるがまま放置しておいて、制度を変えればいい社会になるとか、いい指導者がいればいい社会になるとか、無理です。それこそ初期ギリシャの人々が聞いてあきれる〈依存〉です。初期ギリシャは神頼みの〈依存〉を嫌い、〈自立〉を欲しました。そして共同体の存続には、損得勘定の〈自発性〉を超えた、内から湧き上がる善なる力(ヴァーチュ)である〈内発性〉が必要だと考えました。〈依存から自立へ〉〈自発性から内発性へ〉、〈恨みベースから希望ベースへ〉。大切な志向です。
 イエスも、犠牲を捧げれば救われるとか、罪を犯さなければ救われるという類の、救いのための取り引きを、瀆神行為として却け、善きサマリア人のごとき端的な〈内発性〉を激しく愛でます。初期ギリシャの思考によれば損得勘定を超えた〈内発性〉は周囲を感染させますが、現にイエスの〈内発性〉は周囲を感染させます。人々はそこに奇跡つまり神の働きを見出します。
 グローバル化は貧困と格差と共同体空洞化を今後も押し広げ、貧すれば鈍すの言葉通り〈感情の劣化〉を推し進めます。〈感情の劣化〉は民主制をデタラメに機能させます。たとえば〈感情の劣化〉〈恨みベース〉ゆえの排除として現れます。僕たちは浅ましさを克服し、包摂を取り戻さないと、社会は存続できません。
 たとえば、自国にも愛国者がいるように、他国にも愛国者がいます。自分に人格が宿るように、他者にも人格が宿ります。それを弁えられない者は、愛国者を自称して国を滅ぼし、あるいは、ナンパ名人を自称して女を傷つけます。こうした〈感情の劣化〉を放置すれば、従来当てにできた制度は大半が回らず、社会は目も当てられなくなります。
 僕はこれまで制度やシステムの問題について発言してきました。昨今の僕は〈感情の劣化〉〈教養の劣化〉を問題にします。インターネット化を背景に、従来なら資格がないと思われ、意欲がないと思われてきた人々が、摩擦係数の低いネットのコミュニケーションゆえに、周囲の人々から浅ましさを叱られることもなく、また無教養を指摘されることもないまま、政治生活や家族生活を送るようになり、ポピュリズムやネグレクト(育児放棄)が蔓延するようになりました。
 そこで、政治生活に関わる劣化を手当てするために、住民投票関連のワークショップをやり、家族生活に関わる劣化を手当てするために、ナンパ講座関連のワークショップをしています。いずれのワークショップも、損得勘定と自己防衛に右往左往する浅ましき構えを克服し、内から湧き上がる力を涵養するためのもの。つまり〈自発性から内発性へ〉あるいは〈損得勘定からヴァーチューへ〉のシフトをもたらすためのものです。。
晴佐久 (略)
宮台 風俗で働く女性たちを見て思うのですが、〈感情の劣化〉を被った親によるネグレクトの被害に遭うと、子どもにも〈感情の劣化〉が継承され、社会的に壊れがちです。キム・ギドク監督の映画『嘆きのピエタ』で描かれたように、僕らは誰にも見られていないからこそ下卑た存在になります。
 世の中には親のいる人もいない人も、師に恵まれた人も恵まれない人もいますが、「見る存在」がどれだけ大事かということ。長らく風俗や売春のフィールドワークをしてきた者にとって自明ですが、人は見られなければダメな存在です。自分の子どもだけじゃなく、近所の子どもなどいろんな子どもを見ることが大切です。
 日本では「みる」という言葉がケア(診る・看る)を含みます。日本人は言葉自体の中に普遍的な摂理を織り込んでいます。互いを見ない存在が、社会をダメにします。そして前教皇ベネディクト16世が言うように、全能の神は「見る神」です。



――「『自分の十字架を背負う』という言葉がよく出てきますが、それぞれにとってどういう意味を持っていますか?」
晴佐久 (略)
宮台 社会学者として話をすると、イエスの死と復活、あるいは十字架を負った者たちの振る舞いという発想は、バプテスマ(洗礼)自体に含まれます。マタイ伝第3章3節以降に記されたヨハネによる受洗の話などから伺えますが、元来は深く水に沈んでから浮かぶという危険を伴う儀式だったのです。
 それが死と復活のメタファー(喩)を構成しています。一度死にかけた人の振る舞いが変わるのも同じこと。これはもはや摂理というべきですが、自分の弱さや愚かさゆえに生じた酷いことは出来事として取り消せませんが、しかし深く沈むことによってしか見えないものが多くあるのも事実です。それが見える者だけが人を許すことができるし、利他的であることもできます。
 順風満帆で希望に満ちたご利益満杯の人生を願う者や、不幸を単なる不幸だと理解する者は、残念ながらこうした摂理を弁えません。十字架を負う者にしか奇跡の振る舞いはできません。そのことが摂理として、どれだけ腑に落ちるかということが重要だと思います。

2014年第一回目のマル激で、東浩紀さんとお話ししました。宮台発言を抜粋します。

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2014年第一回目のマル激で、東浩紀さんとお話ししました。東さんは3.11の福島第一原発事故以降、チェルノブイリも視察され、福島の「観光地化計画」についてさまざまな案を出されています。宮台発言抜粋。全体は『サイゾー』発売中の号で御覧下さい。

〜〜
宮台◇ 東さんがこういう方向[福島観光地化計画のこと]で議論をされるというのは、意外な展開でした。現状批判的であると同時に、未来思考的です。

宮台◇ 東さんの議論が興味深いのは、「政府は何をやっているんだ」という巷によくある批判とは違って、復興に向けて、市場のメカニズム、つまり市場インセンティブを、効果的に使おうと提起していること。つまり、損得勘定をうまく利用しようと言うのです。
 人は福島を忘れたら損をするのであれば、忘れられないし、逆に覚えていることが得だったら、覚えています。日本では嫌われやすいタイプの議論ですが、この計画・デザインは本当に素晴らしいと思います。

宮台◇ 僕の戦略も似ています。年末に上梓した『「絶望の時代」の希望の恋愛学』を含めた「男女素敵化計画」のテーマは、「〈自発性〉=損得勘定から、〈内発性〉=損得勘定を超えて内から湧き上がる力(徳virtue)へ」です。
 昨今は〈内発性〉を持つ者が少ないので、〈自発性から内発性を生み出す〉ワークショップを行うのですが、出発点では「〈内発性〉を持つほうが得、なぜなら、システムを頼れない災害時には、絆を持つ者だけが生き延びるが、絆は〈内発性〉なくして生まれないから」といった具合に、ワザと損得勘定の〈自発性〉を用いて、人々を動機づけるのです。

宮台◇ [昨今の状況を]一言でいえば、「貧すれば鈍する」でしょう。冷戦体制終焉後のグローバル化が何をもたらすのかが、世界規模で自明化しました。賃上げ要求や増税要求があれば本社や工場を移転すれば良いので、格差化&貧困化を放置、〈社会がどうあれ経済は回る〉状態になります。
 すると人々は不安化&鬱屈化しますが、それを利用した〈感情の釣り〉によってポピュリズムを駆動すれば、再配分などの手当をスルーでき、〈社会はどうあれ政治は回る〉状態になります。
 面白いのは、実はそのことが大衆規模で自覚されていることです。にもかかわらず〈感情の釣り〉に釣られまくる。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」です。保守回帰とは、保守への回帰でも何でもなく、実際にはこうした〈感情の劣化〉です。
 新聞的に穏当に言えば「この社会は希望がないから、今ある権益にぶらさがって行ける所まで行こう」というニヒリズムですが、実際は「自らの劣情への屈服」です。民主党政権への失望が引き金を引き、「いっとき夢を抱いたこともあったが幻だった」という具合になりました。

宮台◇ 特定秘密保護法も日本版NSCも「アベちゃん問題」に過ぎません。安倍総理の命令で行政官僚が法案化したもので、その際に「その他」の文言に代表される霞が関文学による権益拡張への企図が盛り込まれたというだけです。
 これは、ハンナ・アーレントが、アイヒマン(600万人のユダヤ人をガス室送りにしたとしてイスラエルに捉えられ裁判にかけられた)に見出した「悪の凡庸さ」問題そのものです。批判している連中の大半でさえ、仮に自分が内閣調査室や警察庁の官僚だったら同じように振る舞うはずだぜ、というのがアーレントの卓見です。
 そして安倍総理はといえば、驚くべき教養のなさや独りよがりが有名なものの、アベノミクスで支持率が高いうちに分裂した印象を与えたくないから周囲も黙っている、というだけの〈巨大な空洞〉です。だから“アベちゃん問題”をパラフレーズすれば、〈ヒトラーなきアイヒマン問題〉なのです。アーレントに倣って言えば、ヒトラー批判と同じく、安倍批判ではどうにもなりません。

宮台◇ 日本で経済的将来予測を一番真剣に行なうのは投資家あるいは金融機関です。そういう方々が「もう無理だな」と判断したら国債と通貨を売り浴びせにかかります。ジョージ・ソロスも日本が長期的には「売り」しかなく、いつ「売る」かの問題だとしています。そうなれば国債と通貨が暴落して、日本人の多くが市場&行政という巨大システムに依存できなくなります。
 僕が『希望の恋愛学』に絡む一連のプロジェクトをやるのは、それが見通せるからです。巨大システムに依存できない時代が来たときのために、どう備えるか。お金を貯める、つまり外国預金の選択肢もありえますが、預金の余裕がない人は「持つべきものは友達」しかありません(笑)。この場合「友達」とは損得勘定抜きで助けてくれる者の謂いです。

宮台◇ ネットは参加を容易にします。だからこそ米国で話題になった「ブッシュJrを当選させた南部・高卒・白人」問題が象徴するように、〈感情の劣化〉問題が民主政治を直撃します。だからギデンズが「感情の民主化」を語り、ローティが「感情の教育」を語り、サイバー・カスケイド問題で有名になったサンスティーンが「二階の卓越主義」を語ります。
 東さんが心得るように、ネットの集合知も、それをアグリゲートし、参照する「二階の卓越者」抜きには機能しないのです。ことほどさように、昨今は全てが〈感情の劣化〉問題につながります。
 “アベちゃん問題”にも、〈感情の劣化〉問題としての側面があります。性愛に例えると、安倍総理は愛情を履き違えた〈粘着厨〉の類です。僕が繰り返し持ち出す頭山満のごとき真の右翼であれば、〈自国に愛国者がいるなら、相手国にも愛国者がいる〉事実を弁えます。自分が憤る事柄と等価な事柄で相手も憤り、自分が宥和する事柄と等価な事柄で相手も宥和する。そのことを弁えるから、諸般、手打ちが可能になります。
 ところが、安倍総理の類は、相手国を鬼畜呼ばわりするだけの出来の悪い水戸学派。自分の感情を表出するだけなので、関係を壊した上に、手打ちによる落とし所を失います。落とし所を失えば、戦争でアベノミクスの成果が灰燼に帰するかもしれません。
 自分の感情を表出するだけの〈粘着厨〉が、ストーカー行為を通じて恋愛を実らせる可能性は0%なのに、ストーカーを続けますが、よく似ています。ちなみに、〈自分に人格が宿るなら、相手にも人格が宿る〉事実を弁えない頓馬がストーカーです。
 〈自分に人格が宿るなら、相手にも人格が宿る〉事実を弁えないストーカーと、〈自国に愛国者がいるなら、相手国にも愛国者がいる〉事実を弁えない馬鹿ウヨは、同型です。そして、双方共通して墓穴を掘って終わります。
 問題は、こういう指摘が、エリート主義のパターナリズムとして聞こえることです。指摘が尤もらしいほど「エリートでない俺はそっちの船に俺は乗れねえよ」となって、「〈粘着厨〉の気持ちをわかってくれるのは〈粘着厨〉の“アベちゃん”だけ!」となる(笑)。だからこそ、〈感情の劣化〉につけこむポピュリズムが横行、非合理な政治的決定がもたらされる。全体構図です。

宮台◇ [東さんのゲンロンをめぐるマイクロな試行と同じように]僕も遅まきながら、政治領域では、住民投票や熟議に関するワークショップ活動を行ない、家族領域では、性愛に関するワークショップ活動を行なっています。こうして、〈巨大システムがどうあれ自分たちは回る〉ような自分たちを周囲に作り出す、という小さい話にシフトしています。
 ウェーバーによれば、近代化の本質は、予測可能性をもたらす計算可能化を支える手続主義的合理化にあります。でも、その意味で合理人になると、「悪の凡庸さ」に見るように、主体は入替可能になって尊厳を失います。それを回避するには非合理人になるしかない。それが晩期ウェーバーの結論でした。
 非合理人には、計算合理性つまり損得勘定を超えた「内から湧き上がる力virtue」があります。でもvirtueは---エマソン的に言えば「内なる光」は---国のようなマクロレベルではどうしようもなく、マイクロな取り組みでしか獲得できません。その意味で、「手遅れだから小さい話になる」というより、「原理的に小さい話から始める他ない」のです。それが先進各国に共通の傾きなのです。

宮台◇ ハンナ・アーレントが主張した「悪の凡庸さ」の日本版が、今と同じように(!)戦前戦中にありました。つまり、信念を持って何かを行うのではない。「ビンタをしなければ自分にビンタを喰らう」という〈コミットメントなき同調主義〉だけがある。他方、帝国議会の遣り取りから分かるように、一部ではあるけど、マイクロな圏域では「立派な人」に感染して前に進む時代でもありました。
 ここで大切なのは、日本は血縁主義が存在しない稀な社会であること。生活や仕事の場を共有しして共通前提を構築することでようやく、血縁主義的な絆の機能的等価物を実現できます。でも、このメカニズムは近接性つまりトゥギャザネスに依存するので、グローバル化やIT化がもたらす社会的流動性に極めて弱い。
 その点、ディアスポラのユダヤ人や、ジェノサイドの中国人は、場所性や風土に依存せず、アセットとしての人間関係をひたすらに維持するので、社会的流動性に強く、現にどこの国でも絆を頼って働けます。日本人には無理です。つまり日本人は、社会的流動性の増大で、ひたすら浅ましい存在になりがちなのです。

宮台◇ 〈感情の劣化〉が進めば、それ[あいつは弱者じゃない、本当の弱者は俺だ、といった浅ましき噴き上がり]以外に、鬱屈を調停する原理がありません。

宮台 [浅ましさを克服して]「立派になれ」と言ったって、簡単にはなれません。二つの困難があります。第一に、ハーバーマスの言葉を使えば、損得勘定つまり〈自発性〉を駆動させる「認識(知識)」を超えて、損得勘定を超えた〈内発性〉である「関心」を獲得せねばならないこと。第二に、「関心」つまりコミットメントだけでは適切な現実を作れないので、コミットメントを適切な行動にいざなう「知恵」を獲得する必要があること。
 まず「立派になりたい」という内発的動機を涵養し、次に「立派になる仕方」を弁えるという段取りが必要です。僕らのワークショップもこの二段階を意識しています。入口に当たる「ナンパ講座」で言えば、ベテランと素人の振舞いの違いを映像で見せれば「立派」と「浅ましい」の差異が一目瞭然です。
 すると、多くの人は「立派」になりたいと思います。そう思う人にだけ、「浅ましさ」を克服する知恵を実践的・経験的に伝授します。「浅ましさ」が「相手の承認が欲しくて右往左往するヘタレぶり」に起因する事実を認識させ、ヘタレ克服のための知恵を与えるのです。
 繰り返すと、「浅ましさ」とは、相手への〈理解〉を欠いたまま〈承認〉を追求するがゆえの右往左往です。その典型がストーカー的な〈粘着厨〉です。昨今アメリカのアカデミズムで話題になるように、こうした〈感情の劣化〉が進めば、民主政治は終了します。
 東くんのように自らコストを払い、リスクを賭して、従来のやり方じゃダメだと重大な呼びかけをする人がいる一方で、ピア(同輩)の中で自分のポジションを守るべく右往左往するだけの〈公共的発言をするエゴイスト〉が膨大に存在することが知られています。
 ワークショップをファシリテイトしてきた経験から言えば、その違いは、実は「佇まい」を見れば、残念と言うしかないほど瞭然なんですね。現在の僕自身の実践から言えば、幼児に「この人とこの人、どっちが立派?」と問いかけていくのが有効だという確信があります。

宮台◇ 例えば、東くんがやっているようなマイクロな活動は、小さく見えても、ITメディア社会では意外な波及効果があります。そういう連鎖可能性が唯一の救いかなと思います。将来的にはそれぞれが連携し、効率的な役割分担をし、社会全体に働きかける「戦線」を作る必要があります。でも今はそれを望める段階ではない。まずは個々のプレイヤーがプレイヤー足りうるのかを考えねばなりません。

宮台◇ 同じくワークショップ経験から言うと、多くの人々は、自分たちが〈感情の劣化〉を被っている事実にちゃんと気づいています。でも「分かっていてもやめられない」。そんな彼らを「敵」として〈排除〉してもダメで、〈包摂〉していく必要があります。「オマエは馬鹿だと名指しした後に、馬鹿をやめたいならこっちに来いといざなう」のです。その意味での〈新しい前衛〉が必要だと思います。



先ほど都知事選について連投ツイートしました。連投内容をアップします。

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【迷える脱原発派へ①】脱原発候補が、共産党と社民党の推薦を受けた段階で、脱原発がイデオロギー問題にシフトしてしまう。それでも支持増大が期待できるなら良いが、実際には前回知事選で「宇都宮票は共産党基礎票60万票台にも拘わらず90万票台に留まった」。この事実は何を意味するだろうか。

【迷える脱原発派へ②】電事連と各巨大電力会社は、反原発派=左翼プロ市民、というイメージを定着させるために、従来あらゆる方法を用いてきた。だから彼らは「宇都宮候補を、共産・社民の推薦を受けたからこそ徹底的に人畜無害と見做し、脱原発候補として宇都宮を支持する人々を鼻で笑う」。

【迷える脱原発派へ③】宇都宮候補が前回・今回の知事選を通じて住民投票問題に言及しないことが象徴的するように、「共産と社民に推薦された脱原発候補」なる存在を支持することは「〈原発をやめられない社会〉を構造的に離脱しようとする意欲を持たずに情緒的表出に終始するという民度」を意味しよう。

【迷える脱原発派へ④】原発都民投票条例の制定を求める住民直接請求代表人だった僕は「署名活動に参加した方々の中から、脱原発問題をイデオロギー問題化する機能を持つ共産・社民推薦候補の支援に回る方が少なくない事実」を見るにつけ、住民投票運動の目的についての周知の不徹底を痛感せざるを得ない。

【迷える脱原発派へ⑤】もちろん僕は全力で「〈原発をやめること〉もさりながら〈原発をやめられない社会をやめること〉こそが大切だ!そのための住民投票運動なのだ!」と受任者の会議や街頭で繰り返し、それもあって法定署名数の獲得に成功したと思っているが、その先に更に大きなハードルがあるのだ。

【もう少し解りやすくとの要求に応えて】(1)党派的運動だと見做された時点でイデオロギー問題化し、直ちに集票できなくなること。(2)党派の機関決定に従属する活動では〈任せてブー埀れる〉だけで〈引き受けて考える〉作法にシフトできず、〈原発をやめられない社会〉を離脱できないこと。

【住民投票だけじゃ無理という批判に対し】連投の主題はそこにはありません。問題がイデオロギー色を帯びた時点で、脱原発候補は意味を持たないということです。重武装化的な憲法改正が保守派ではなく市民派から提起されたときに実現しやすくなるのと同じで、むしろ自民党勢力が脱原発を唱う方向に持ち込むのが賢明です。


『「絶望の時代」の希望の恋愛学』に収録されなかった電子書籍版あとがき(抄)です!!

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昨年末に上梓した『「絶望の時代」の希望の恋愛学』が大変な売れ行きです。Amazonでは2週間以上にわたり欠品が続くという異常事態になりました。イベントを現場やネット配信で見た方々から、多数の苦情をいただきました。我々の側に目算の誤りがあったためで、改めて心からお詫びを申し上げます。三日ほど前にAmazonでもようやく当日配達も可能な在庫がととのいました。

さて、お詫びとして、『希望の恋愛学』に収録されなかった文章を掲げます。『希望の恋愛学』は電子書籍『宮台真司 愛のキャラバン』を底本にします。(ただし、まえがき、第Ⅰ部、あとがき、と合計80枚以上加筆があります)。この『希望の恋愛学』には『愛のキャラバン』のあとがきを収録予定でした。ところが最終ゲラの段階で出版コストの事情で収録をやめることにしました。

収録されなかった「電子書籍版あとがき(抄)」を以下にアップロードします。何とか収録して貰おうと、オリジナルのあとがきを、半分に縮めたものです。読み直してみると、冗長さが削られ、ストレートになって、なかなか良い⋯。そこで、迷いましたが、あえて、オリジナルならぬ「抄」をアップ致します。『希望の恋愛学』を含む僕らのプロジェクトの初期段階のノリがわかります。

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電子書籍版あとがき(抄)

【ちまたの「ナンパ塾」への違和感】
 昨今は「ナンパ塾」がブームだ。ナンパブロガーたちにも注目が集まる。僕には違和感がある。第一に「自己啓発」に意識が集中しがちな点。第二に、女性を〈物格化〉しがちな点。第三に「ナンパ塾」の指南は全てが「番ゲ」から「セックス」までに集中する点。
 巷には「相手が見つからない悩み」とは別に「相手に深く関われない悩み」が増加中だ。「深く関われない悩み」は自己啓発化や〈物格化〉と関わる。これら関連し合った問題に切り込んで処方箋を書く若者に出てきてほしい。そこで見本になるイベントがしたかった。
 だから本書で「ナンパ」という言葉を使うものの、巷にありがちな「セックスまで」の前半プロセス=〈踏み込み〉だけでなく、「セックス以降」の後半プロセス=〈深入り〉を含む。それどころか僕らの関心は専らそこだ。読者の関心もそこにあるべきだと信じる。
 少子化をもたらす晩婚化や非婚化を手当てすべく、市町村がマッチングサービスに腐心する。だがどんな関係を構築すべきか触れない。生き方から世界観にまで及ぶ価値観が関わるからだ。行政が下手に踏み込めば、市民や議員に追及される。ならば民間しかない。
 
【プライバシー開陳というハードル】
 でもそんな民間はない。民間の講座は価値観に踏み込めない。イベントをして理由が分かった。経験を語らねばならないからだ。ファシリテイターは、語る価値のある経験を持ち、プライバシーを開陳しなければならない。だが、それが不可能ではないことを示せた。
 登壇者はプライバシーを開陳した。リスクを冐した登壇者の皆さんに敬服する。それでも僕たちは多くを語り残した。なぜか。僕たちは観客を〈変性意識状態〉に導くことを決めていた。さもないと登壇者がプライバシーを深く明かしたところで空振りに終わる。
 〈変性意識状態〉には流れがある。流れに沿わないと〈変性意識状態〉に水をさす。だからジャズ・インプロビゼーションのように、他のミュージシャンたちとオーディエンスの呼吸を見ながら、適切なプレイだけ選択する。いきおい、事前計画の多くを語り落とす。
 僕も語れなかったことがあった。ナンパを始めざるを得なかった動機を語ったが、何にミメーシス=〈感染〉したのか語らなかった。だがこの種の振舞いを起爆するのはロールモデルへの〈感染〉だ。モデルがないと〈踏み込み〉の困難も〈深入り〉の困難も想像を絶する。
 
【混乱の日々が導いた奇蹟的な邂逅】
 僕が「声掛け」に乗り出すようになったのは1982年つまり23歳の大失恋後。それから83年にアウェアネス・トレーニングに接触するまでの間に、重大な出遭いがあった。その出遭いは僕は感染をもたらし、やがて「声掛け」へと向かわせた。それが本書に繋がる。
 早稲田大学教育学部教授の丹下龍一先生(故人)との出遭い。初めて訪れた研究室の壁一面にジェーン・フォンダのポートレイトが飾られていた。先生はフィリピン人と見紛う濃い目の風貌で、日に焼けた小柄な体躯をラフな開襟シャツとジーパンで包んでおられた。
 エスノメソドロジーの社会実験をする社会学者だと伺っていた。研究室を訪れると先生はカセットテープを再生した。丹下先生と若い女性の二人の会話が収録されていた。テープが進むと、別の若い女性との会話になった。「何だと思う?」と先生が尋ねられた。
 皆「よろしくお願いします」から始まり、故郷のこと、親のこと、高校時代のことなどを喋った。先生が明かした。「ホテトル嬢をラブホに呼んで会話している。客に身分を偽るホテトル嬢に、どれだけ短時間で本当の身分を語らせられるかを、実験してるんだ」。
 先生は「免許証などを見せてもらって裏を取っている」と語られた。何のための実験か。先生が仰言った。「知らない人と一瞬で親しくなるのは難しいと誰もが思う。その前提が都会に生きるのを難しくする。でもそれはコミュニケーションの仕方を知らないからだ」。
 そのとき窓から下を見た丹下先生は脱兎の如く研究室を飛び出して行かれた。先生は樹の下で小さな女児の隣にしゃがみ何か話しておられた。戻られた先生は「俺が言う知らない人は年齢を問わない」と仰言った。呆気にとられていると「晩飯でも食いに行こうか」。
 一緒に歩いていると、先生は歩道ですれ違った若い女の子にぱっと振り返って追いつくと、たどたどしく「日本に来たばかりでよくわからないんですが、道を教えてもらえませんか?」と仰言った。やがて先生は僕を残して女の子と二人でどこかに姿を消された。

【関係した方々への御礼、そして…】
 残された僕には先生の〈黒光りした戦闘状態〉とでもいうべき感触が残った。数日後、僕は街頭で「丹下先生を反復」していた。「不案内なおのぼりさん」として女の子に道を尋ねていたのだ。親切な子もいて、案内してもらったお礼に「お茶でも」と切り出した。
 知らなかった世界が開けた。なぜ自分は丹下先生を反復したのか。失恋の痛みを忘れるためか。劣等感を埋め合わせるためか。分からないことだらけ。程なくアウェアネス・トレーニングに出遭い、更に二年してテレクラに出遭った。全出発点は先生との邂逅だった。
 邂逅の前には失恋があって混乱が続いた。それが邂逅を導いた。思えば高石宏輔氏にも公家シンジ氏にも最初に激しい混乱の日々があり、それが邂逅を--人であれ出来事であれ--もたらした。「ワンランクアップ」の自己啓発から程遠かった。互いを通底する共通項だ。
 イベントに登壇されたお二人と、鈴木陽司氏に、心から感謝申し上げる。イベントを企画した院ゼミの立石浩史君、書籍化実務を担当した中野慧君にも御礼を申し上げたい。わざわざ予約して深夜に来場され、質問をお寄せ下さったお客さん方にも御礼申し上げたい。
 妻の由美子と、娘「はびる」と「まうに」、じきに生まれる男児「うりく」。過去の出鱈目地獄に辛うじて意味があったと思えるようになったのは妻や子供らの御蔭だ。あの混乱の日々なくして妻との出会いも子供らとの毎日もない。その思いが動機づけを与えた。

『「絶望の時代」の希望の恋愛学』刊行記念イベント第2弾 preduced by 仏日友好協会

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【概要】
講師:宮台真司(「首都大学東京」教授、社会学者)
   :二村ヒトシ(『すべてはモテるためである』著者・AV監督&男優)
主題:『希望の恋愛学』を語る
副題:男女共同参画・男女素敵化プロジェクト
日程:2014年2月14日
時間:19:00~21:35(受付開始18:30)
場所:世田区立男女共同参画センターらぷらす研修室3-4
http://www.laplace-setagaya.net/access 
資料代:¥1000 (『希望の恋愛学』持参の場合¥800)
定員数:80名
主催:仏日友好協会(Association Amicale Franco-Nipponne)
協賛:日仏共同テレビ局 FRANCE10
※Dresse Code:tenue de cocktail
※資料代は当日の受付にてお支払いください。

【参加申込方法】
こちらの問合せ、もしくはメールアドレスより、下記情報をご連絡下さい。

http://www.france10.tv/%E3%81%8A%E5%95%8F%E3%81%84%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B/

infoあっとfrance10.tv

講演会申込み
本文
① お名前
② メールアドレス(連絡用)
③ お電話番号(メール連絡が取れない場合がある為)
④ 講演会・申し込みの旨
※不明点や質問などありましたら、上記参加申込のメールアドレスへお願いします。

宮台真司✕二村ヒトシ 男女素敵化講演会、実況ツイートをまとめます

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昨日の男女素敵化講演会、実況ツイートを、宮台の発言を中心にまとめます。最小限の文言修正しました。括弧内は実際の発言を補ったものです。実況者は『恋とセックスで幸せになる秘密』 ‏@love_sex_bot さんです。


【ニコ生タイムシフト案内】宮台真司✕二村ヒトシ 男女素敵化講演会 チケット購入者向けタイムシフトで2014/02/21(金) 23:59までご覧いただけます。http://goo.gl/fW104v


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【はじまり】宮台さん二村さん会場入りしました。 RT@miyadai『「絶望の時代」の希望の恋愛学』刊行記念 『希望の恋愛学』を語る--男女共同参画・男女素敵化プロジェクト --講師:宮台真司・二村ヒトシ http://goo.gl/txbRkK  #宮台二村

【不変の構え】宮台さんと及川さんの出会いは、及川さんが95年にした人生相談から。異世界と思える女性(援交女子高生)に恋してしまってパニクった及川さん。たいていの人からは「やめとけ」と言われたが、宮台さんは「(他の馬鹿男とは違った反応を君が示せれば)チャンスじゃん」と言ってくれて開けた(宮台さんのスタンスは少しも変わっていない)。

【心の穴】二村「自分でもどうしようもない言動は、親との関係に根っこがある。それを本人が肯定しているとたいして苦しくないが、肯定していないと、苦しくなる。自分を肯定したくてもできない社会状況。それは女性も男性も同じ」

【孤独な死】宮台「どんなに金があって社会的地位があったとしても、多くの場合モテない。それが著しく本人を傷つける。モテないという不全感。モテなかったなぁ…と思いながら死んでいくということ(の苦しさを本当は誰もが身にしみて知っている⋯それが二村ヒトシさん『すべてはモテるためである』の基本モチーフ))」

【女性性】宮台「二村さんには女性性がある。僕は幼い頃から女装の趣味があった。そこに共通点がある(女が感じていることを自分の中で引き起こすこと)。女性がかわいそうだと思う。なぜなら[自分の中に入ってもらえないので]女性の望む恋愛ができていない。男は[射精すりゃOKなので]できてしまう」

【女の不全感】宮台「自分が思うような恋愛ができないという女性の思いは、どれだけつらいのだろう(と胸が痛む)。かわいそう。(一人一人に対処しても)救える人はごくわずか。もう少し規模を広げていきたい、なんとかしたいと思った。そこが二村さんと響き合うところではないか」

【女性性】二村「[宮台にとってサイボーグ003がそうだったように]永井豪の『キューティハニー』が僕の最初のおかずだった。僕がキューティハニーになって男性の主人公を犯していくのを妄想していた。自分がやられている男だけじゃく犯している強く美しい女性もやられる弱い男も僕。気づけばAV撮影も同じものをやっている」

【受動性】二村「『ラブレース』という映画を観た。ポルノでしっかりしたフェラチオを最初にした映画。僕は初めて男の乳首をなめるAVを初めて作った。女性がなんで私が彼の乳首をなめなきゃいけないんだろうと思っていたとしたら、僕のせいです」

【受動性】宮台「僕が10代の頃に付き合っていた子は、日本人じゃないんだけど(←正しくは米国からの帰国子女)、乳首やアナルをなめられてくれた。受動的快感、女性的快感を早い段階で知ることができた(ことが、元々の僕の女性性を非常に強めてくれた)」

【作法】宮台「(京都の花街に)作法の世界が残っている。(作法を踏まえないのは)関西ではイケズ。日本人男性は(作法の)ゲタを履いてこられたから。(作法がないと)自分で選択したことは説明できないといけない。それは男にとってつらいことだから(性愛の敷居が高くなる)」

【物格化】宮台「(昨今の男子は)マニュアルを遂行できていることに対して自分が達成感を感じている。コントロールできないものがあるという不安があるから、コントロールできるもので自分を満たしたいという欲求(が生じて女を物格化する)。それは親からのコントロールが元」

【物格化】宮台「無防備にコントロールされたりする(という受動性に対する)怯えから、コントロールしたくなる」

【変性意識】宮台「変成意識状態を意識したのは、海に潜っていた時。時間の感覚が変わった。10分だと思ったら1時間経っていた。ありえないことがありうる状態」

【変性意識】宮台「こんなことを話したらへんだと思われる」というようなことを(男を相手に)話しても驚かれないと、カプセルに入ったような(変性意識的な)状態になって、女性は(ふだん話せないことを)話しやすくなる」

【変性意識】宮台「「自分探し」ではなく、「自分なくし」。変成意識状態に入るということ(の醍醐味)はそういうこと。それは自分と他人の境界線をなくす(ことで二人ともLCL液体になって混ざり合うこと)」

【埋め合わせ厨】宮台「男女のフェアな関係性を追い求める時に、(そのことを気にして)変成意識状態にセックスで(男女共に)入れないというのは、悲しいこと(また逆に、変性意識状態に入れないがゆえの劣等感が、頭でっかちなフェアネス厨を生む)」

【埋め合わせ厨】宮台「最近の僕の中のキーワードは、さもしい、あさましい(そのココロは「劣等感の埋め合わせで強いものにすがる」「変性意識からの見放されをフェミで埋める」といった〈埋め合わせ〉のみすぼらしさ)」

【埋め合わせ厨】宮台「性愛をうまく生きられないということは、他の部分もうまく生きられないということ。逆にいうと性愛がうまくいっているということは、他の部分もうまくいっているということ(それが二村ヒトシさん『すべてはモテるためである』の基本モチーフ)」

【共同身体性】宮台「(二人が液体化して溶け合うような共同身体性を、性愛が実現できるのと同じように)お祭りは共同身体性を共有している。変成意識状態も同じ(ようにそこに存在している)」

【感情の劣化】宮台「(河野太郎と河野洋平の区別もつかぬネトウヨが跋扈する事がネット社会を象徴するが)間違ったことを言ってもやっても、誰からも言ってもらえない、叱られないでも生きていけてしまうのが今の日本(それが〈感情の劣化〉を放置させ、性愛を困難にする)」

【感情の劣化】宮台「ヒトラーが政権を取った時(CIA前身組織が)彼に吸引される意識を研究した。ヒトラーは今でいうとキモい人。(だからこそキモいという自意識を持つ人が)だったらオレはヒトラーの味方だ!となる。それは安倍ちゃん問題と一緒。感情の劣化現象」

【感情の劣化】宮台「感情が劣化すると共同体はすりへっていく(そして性は感情の劣化を図る物差しになる)。そう考えると性の問題は小さくない。感情の劣化を克服する物差しは(性愛以外に)そんなにはない。ネットで承認されたって(性愛の承認に近づけるかと言えば全然)ダメ。」

【感情の劣化】宮台「(性愛が、感情の劣化を計測できる物差しになるだけでなく)性愛をうまく生きるということが(訓練の場になって)、感情の劣化を克服できるのではないか」

【鍵の掛った箱の中の鍵】二村「(性愛を訓練の場にするとして)じゃあ具体的にはどうしたらいいか? 経験した人にしか(性愛に関わる各概念が)分からないのではないか」 宮台「同じことを二村さんに聞こうと思っていた」

【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(鍵を開けるヒントは)二村さんの『すべてはモテるためである』の最終章に書かれていたこと。モテるのに寂しいというところ。僕も自分の失敗記録が本になっている。最初からうまくできる人はいない(失敗しないための訓練でなく、失敗自体が訓練になる)」

【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(鍵開けの方向は単純で)ある程度、苦労、失敗を重ねた時間がないと得られない境地(こそが訓練の目標になる)。(だから)失敗を重ねるということが大事。(失敗を過剰に恐れる若い人が多いので)それがハードル」

【鍵の掛った箱の中の鍵】立石「宮台さんと二村さんの本は、失敗してくださいと言うわりに、丁寧に書きすぎている。先取りしすぎ。そのまま(失敗をしないための)マニュアルとして生きるやつもいるはず。実際に何人か知っている」

【鍵の掛った箱の中の鍵】立石「本当の失敗は、本人の覚悟がないと失敗できない。覚悟をいかに決めるか。性愛や人生に真剣になるか」

【鍵の掛った箱の中の鍵】二村「失敗するぞって覚悟して経験したことは、痛みではない。(失敗の覚悟という)その言葉自体が罠」

【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(立石発言は)失敗の意味かちがうのだと思う。とても苦しい状態になると幽体離脱状態になって自分を見るという視点がある。それをもてるようになってほしい。マニュアル(による失敗の覚悟)というよりも本当に苦しい状態になった時に起こる現象。」

【鍵の掛った箱の中の鍵】宮台「(そして苦しみゆえの幽体離脱状態の真っ最中に)この苦しい状態は絶対にステージアップに役立つはずだと思いながらそこに臨む」

【目標設定】宮台「(ステージアップという場合)ではどこにゴールを置くか。(80年代前半に)代々木忠さんのAV(←新東宝時代のピンク)を見て(初めて女性の性的ポテンシャリティを)知った。自分にはできていないことがそこでは起きていた。そこ(=ポテンシャリティの現実化)に目標設定をした」

【目標設定】宮台「女性にはポテンシャルがある(にもかかわらず、それと無関係に)男のニーズに応じる作品ばかりになっているのが今のAV界のダメなところ。ニーズに応じたら必ず劣化する。制作者側からのこれはすごいだろう、というのが大事」

【受動能動反転】二村「僕のAVは、女性にもよく見てもらえている自負がある。フェミニストだと言われるが、僕はそうではない。女性の欲望を描いているようで僕の欲望を描いている。自分の欲望を女優さんに演じてもらっている。一体感を得られるが僕にとって都合のいい女」

【受動能動反転】二村「実際の女性との関係では、自分が支配されているようなモードをとることで、実は自分が支配しているんじゃないかとも思う」

【受動能動反転】二村「撮影で、男優も監督としての僕もコントロールを手放した状態ができることが最近、ある。自分が否定していた母との邂逅が起きたりする。コントロールを手放すの大事」

【男ニーズのしょぼさ】宮台「(最初期以来の)AVが好きすぎて昔、アダルトビデオファン大賞というのを高橋がなりさんからいただいたことがある。がなりさんは、ニーズに答えるとこうなるんだということを示して農場に移っていった(それを見ると高橋がなり氏がニーズに応えつつ心理的距離を保っていたのが分かる)」

【性愛の未規定性】宮台「(深い理解を支えにした性愛で快感を得るだけでなく)モノのように扱われることで快感を感じるということが男も女もある。だがそれは(←性愛の在り方はどんなものであれ)仮の姿。なにかだけになってしまうのはまずい」

【性愛の未規定性】宮台「(高橋がなり氏が始めた)SODのAVのようにあそこまで(男の)欲望(のニーズ)がパッケージ化されているのはすごいこと。しかし二村さんのようにパッケージ化されない(未規定さ)というのも大事」

【性愛の未規定性】宮台「(SOD的なニーズに応じた)パッケージ化(による性愛の規定化)にみなさん巻き込まれているんじゃないか?」

【独りよがり】二村「痴女女優さんと本物の童貞を合わせると、「僕はクンニがうまいにちがいありません」と言って空中でベロをすごい早さで動かし始めた。若い男の子はそれで豊かなセックスができると思っているという状況、宮台さんどう思われます?」

【独りよがり】宮台「(クンニ男の愚昧な独りよがりは、広告代理店やテレビ局の男にしばしば見られる)潮を噴かせるのが好きな男にも通じる。潮を噴くということについて、みんな勘違いしている」

【独りよがり】二村(←正しくは宮台)「潮を噴く女性に本当に気持ちいいの?と聞くとわかる。潮を噴くよりもハグの方がよほど女性の満足度は高い。どうして女性にそれをモニターせずに、やったぜオレできた、となっているのか?を考えることが大事」

【独りよがり】宮台「(クンニ男や潮吹かせ男は)勘違いを修正してくれることがないということに関係している(それは河野太郎と洋平の区別がつかない馬鹿と同じ)」

【独りよがり】僕や二村さんの若い頃は寂しいということが切実だった。彼女がいない・セックスできないということが。(だから現実に乗り出さざるを得ず、勘違いを修正できた)。今は寂しさを埋め合わせられるものがたくさんある。(勘違いを修正できない)悪い状況」

【独りよがり】宮台「スケボーのうまい子たちは、スポンサーも女性もたくさんつく。でも女性とセックスはしないし付き合わない。滑っているほうが気持ちがいいという。それは変成意識状態(として機能的等価)。女性とめんどくさいことをしなくても気持ちよくなれる」

【独りよがり】宮台「女性にどういうセックスが好きか、どういうシチュエーションが好きかということをモニタリングする時にAVは使える。(AVの体験仕方で)男女で非対称性が出てくる。男はAVの中の女性に興奮するが、女性はAV男優に興奮するのではなく女優に同一化する」

【独りよがり】宮台「みなさんAVをそういうふうに使ってほしい。男性は、女性の卑猥な妄想や卑猥な体験をぜひ聞いてほしい」 二村「僕も同じことを本に書いたが、立石くんは?」

【独りよがり】立石「AVやマニュアルというものが、そのまま正解だと思って演算、反復している。正解があらかじめ多すぎる。簡単にいうと洗脳。経験なくやることができてしまう」

【変性意識不全】宮台「ステディな人が相手だと試行錯誤しにくい。旅をして試行錯誤して気づきを得て、ステディに持ち帰ってするのがよい。ステディだとお互いのフレーム(による解釈への予期)がある(ので試行錯誤が頓挫する)」 質問者「旅をしてもダメだったんです」 二村「愛にいきたいのだね」

【変性意識不全】質問者「(二人そろって変性意識に入るためのあらゆる努力をすべきだとの答えに対して)深い信頼関係がないとトランスには入れないと思うので、チャレンジはしてみたい」

【変性意識不全】二村「僕は挿入にこだわらなくてもいいのでは、と思う。男がペニスじゃないところで受け入れる。勃起していないことにとらわれているので、自分の体の中での旅をしてもらいたいと思う」

【変性意識不全】会場質問「女性というものはどうしたら分かることができるのか。セックスすればするほどさっぱり分からない。した後にとても女性がつまらなくなることもあれば、魅力的にも見えることも。女性に対して男は何を求めているのか、わからない」

【変性意識不全】宮台「(質問者は性愛にエモーション系ならぬアッパー系の濃密さを求めているのではないか。)アッパー系の刺激は強くしても慣れてしまう。エモーション系は感情が身体に影響する(ことを用いる)。エモーション系に慣れはない。現象としてはセックスはスローなものになっていく」

【変性意識不全】宮台「男とは女とはと問題設定しないほうがいい。そこにとらわれることはない。変成意識状態(に入ったSEX)だと男女の差異の意識がなくなっていく。相手に生じたことが自分に生じるようになっていく。エモーションの次元で繋がることをしていく」

【変性意識不全】宮台「(性別を意識する場合にも)男とは女とは、ではなく、この男・この女、と個別のもの(にだけ意識を徹底的に集中することでエモーション系の変性意識状態を呼び込める)」

【脱マニュアル】宮台「認識することとコミットすることはちがう。分かったからといってやろうとするかどうか⋯。(また)強くやろうと思っても適切にできるかどうかも分からない。僕らの本を読んで、頭で理解してもあまり意味はない(実際にやってみないと真の動機づけは得られない)」

【脱マニュアル】宮台「たとえば、今日、この大雪の中にこの会場に来る(実際に予約の8割以上の方が来られた)ということはコミットがあるということ(。これはとても良い兆候で、コミットがある方にはどうコミットすべきかを語れる)」

【自発性から内発性へ】宮台「トラブルが起こるとコミットしやすい。たとえばケンカ。トラブル回避するには、腹を割って話すことが必要(になる)。(必要から始めたのに)理解するということの喜びが生じる。そこにはトラブル回避できたという以上の喜びを感じることができる。そうやってステップを踏む」

【自発性から内発性へ】二村「男と女がなぜ付き合うのかと…。セックスや付き合うことになるとケンカは必ず起きる。それはわざとトラブル起こしているんじゃなくて、自分の心の穴を刺激する相手だから。そのトラブルには意味がある。それを体験し学ぶこと」

【自発性から内発性へ】二村「挿入して目を見て、15〜30分ぺろぺろキスしていると変成意識状態になる。それは勃起とか相手をイカせるとかいうこととは関係なくなる。イカせるというのも失礼な話。自分がイカないと不安だから女をイカせてアリバイがほしいだけ」

【自発性から内発性へ】宮台「一緒に散歩、(買い物から始めて)料理を一緒にする。するとシンクロ率があがっていく。こんなにちがうんだということでも、こんなに合うんだということでもいい。セックスの外側にあることについての輪郭をつかまないと、いいセックスは難しい」

【自発性から内発性へ】会場質問「相手の女性に対するリスペクとが強ければ強いほど勃起しなくなるという傾向がある。その原因を知りたい」

【自発性から内発性へ】宮台「(質問者の問題を)僕は克服した。リスペクトした相手と早い段階からセックスだけに集中せず、その外側の輪郭をつかみながらセックスするというクセへをつけておけばいい。それは感情(と結びついたSEX)を生じさせること」

【4回セオリー】宮台「(ステディにする前に)相手の人とは4回セックスしろというのがセオリーなんだけど。3回目以降盛り下がることが起こりやすい。でもそれは事前にはわからない。実際にやってみて兆候をつかむしかない(そして盛り下がる場合は考え直す)」

【美しい女の困難】宮台「美しい女性にはたくさんの男性がよってくる。そのことをその女性も知っている。それはその子にとっていいことではない。キレイじゃない人は関係性ができあがらないとセックスする段階に行きにくい」

【美しい女の困難】宮台「女性がかわいそうだなと思うのはキレイな時。男が浅い関心で「僕にとって君がすべてだ」と言う。美しい女はそういう男の速度についていけず、(セックスしながら)ギャップを感じている。そのギャップが男に跳ね返ってくるので、セックスがよくないと思ってしまう」

【性別ギャップ】会場質問「チャットレディをやったことがある。男のファンタジーを満たして世界を悪くした、みたいな気持ちになった。こちらが会話をしようとすると瞬時に落ちたりする。葛藤をしていた」

【性別ギャップ】二村「途中で切ってしまう男は、本当は寂しくて仕方ないが、そうすることしかできない。僕もAVや本に何かを織り交ぜることでしか生きていけない。あなたも日比葛藤しながらやっていくしかない。気が済めばちがう方にいく」

【性別ギャップ】宮台「性別のセクシャリティの非対称性。多くの人が気づかないが、チャットレディの人は気づいてしまう。男は(射精しに来ているのであって)コミュニケーションしにきているわけではない。男(の多く)はこういうセクシャリティなんだ(=コミュニケーションあっての射精じゃないこと)と理解していくと何か開けるのでは」

【物格化】宮台「数年前に母をガンで亡くした。闘病生活の中で(母と関わることで)母への恨みを手放せた。同時に女性への支配(への欲望)も手放せるようになって、(女性との)関わり方が変わってきた」

【物格化】宮台「子育てでは(親の)心の内側が伝染する。そういった次元でも親への恨みが生じる。(心の内側の話だから)親がどんなに頑張っても難しい(そのことを今の僕は真剣に考えている最中だ)。今日はこみなさん来てくださって、ありがとうございました」




宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎の校正ミスの正誤表

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 2月20日に幻冬舎から発売された宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』は発売二日後に重版になりました。重版には間に合わなかったのですが、幾つか校正ミスの訂正をさせていただきます.宜しく御願い致します。三刷には直しを反映させます。


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p.83   ℓ7  案出したのが外務省でした。(改行)ソ連崩壊後
        ⇒案出したのが外務省。(改行)そして、ソ連崩壊後


p.86   ℓ1  でしょう。
        ⇒はずです。


p.262  ℓ12  (社会はどうあれ経済は…)
        ⇒(社会はどうあれ政治は…)


p.301  ℓ12  (現在の氷上信属麻布高校校長)
        ⇒(2012年まで麻布高校校長だった氷上信属先生)


p.304  ℓ2   断念する代わりに
        ⇒断念し、代わりに


p.308  ℓ12  (中経出版)
        ⇒(KADOKAWA/中経、2013年)


p.323  ℓ17  聞き込み調査
        ⇒聞き取り調査


p.339  ℓ9   事実に昇順する
        ⇒事実に照準する


p.343  ℓ1   無い袖は振れぬで無理な話
        ⇒無い袖は振れぬ話


p.344  ℓ11  説明します。でも、繋がりを
        ⇒説明します。繋がりを


p.351  ℓ17  協力なバターナリズム
        ⇒強力なバテーナリズム


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4回の愛キャライベントを振り返って、取り敢えずの短い総括を記します

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ルソー君のエントリ http://goo.gl/55tQRj
立石くんのエントリ http://goo.gl/oryMjV

愛のキャラバン・大阪死闘編の男性出席者のエントリです。
これらを読ませてもらい、感じたことを以下に記述します。
これまでの4回の愛キャライベントの中間総括に当ります。

僕は特定の方向性を持つ内発性を提示するタイプの著者です。
すると、僕をロールモデルとする読者がつくことになります。
僕が小室直樹や廣松涉をロールモデルにしたのと、同じです。

その場合、感染後の進行に成功する人と失敗する人がいます。
僕は幸い小室や廣松に感染し、その後の前進に成功しました。
それは偶然のことで、本当は失敗する可能性があったのです。

同じことに読者の多くが直面しているだろうと感じています。
僕をロールモデルとして失敗した読者は、どうなるでしょう。
僕が小室らのロールテイクに失敗していたら、どうでしょう。

それを踏まえるから「感染し、卒業しろ」と言ってきました。
むろん「感染し、成功し、卒業する」場合が含まれています。
加えて「感染し、失敗し、卒業する」場合も含まれています。

「失敗」は確率論的なことだから、良くも悪くもありません。
だから「感染し、成功/失敗し、卒業する」を数回反復する。
これを経由することで若者は真っ直ぐ立てる存在になる──。

それは「自分は自分」を言葉でなく実存として引き受けること。
すると今度は自分自身が他者を感染させられる存在になる──。
それこそが『14歳からの社会学』で書いたストーリーでした。

「感染し、成功」しても、失敗同様「自分は自分」に到ります。
僕は師匠らに感染し、成功しても、解決不能な事がありました。
だから僕には「暗黒の11年間」が訪れることになったのです。

読者に感染をもたらす著者は使い捨てられなければなりません。
それはフロイトが言う意味での「父親の機能」と似るでしょう。
父親に同一化し、反発し、やがて離れ、自分と親を承認します。

その意味で、立石君やルソー君は、うまく僕を使い捨てました。
「大阪編で一区切りが着いた」と述べたのは、それが理由です。
こうしたセッティングを提案された高石さんに、感謝致します。

裁判形式を提案した高石氏の意図はそこだと推定していました。
故に僕自身は従前のフォームからブレないことを心がけました。
むしろ宮台が宮台でしかないフォームの固有性を強調しました。

一連のプロセスで父親機能の不全という背景が確認できました。
まっすぐ立つことを妨げる諸要因は、極めて多様に存在します。
としても父親機能の再導入が処方箋になる可能性があるのです。

昨晩2014年5月29日、池袋リブロで、小林武史さんとトークイベントをしました

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昨晩2014年5月29日、池袋リブロで、小林武史さんとトークイベントをしました。話題は多岐に渡りましたが、ほどなく文字起こしが媒体に載ります。お楽しみに。

なお2012年7月の代官山でのイベントでの小林武史さんとのトーク「maskz presents 『U-NITE』 @ UNIT」を動画で見ることができます。
http://www.ustream.tv/recorded/24394204

また2011年3月11日の震災・原発災害の後6月2日になされた小林武史さんとのロング・トークを、以下のウェブサイトで読むことができます。
http://archive.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110714_5096.php

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