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「『サブカルチャー神話解体』から20年、オタク研究の停滞」(仮題)の前半だけアップ

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「『サブカルチャー神話解体』から20年、オタク研究の停滞」(仮題)の前半部分だけアップロードします。

まもなく『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』の日本語版が出ます。この日本語版には、英語版には収録されていない僕の論文が含まれています。

元々この英語本に収録する予定だったのですが、東浩紀君との米国講演旅行を契機に学術的(査読あり)定期刊行物『Mechademia』に掲載されることになったので、英語本への収録を辞退したのです。

この日本語版には、もう一つ、英語版にはない終章がついていて、僕に対するインタビューとして構成されています。原稿用紙100枚に及ぶ長大なインタビューですが、ちょうど前半部分だけを抜粋してアップします。

アップロードした前半部分は、歴史をレビューしています。その一部はミヤダイ・ドットコムにかつてアップロードした文章とかぶります。後半は日本におけるオタク的なものの衰退に抗う戦略を提案しています。

後半いわく〈「ダメな自分」から「クソな社会」へ〉あるいは〈「ダメ意識」から「クソ意識」へ〉。膨大な頁を使って歴史的事例を参照しつつ伝えているので、楽しみにして下されば幸いです。特に中高生への「生き方の提言」になっています。



~~~~~
宮台真司氏インタヴュー

【『サブカルチャー神話解体』から20年でオタク理解は進んだか?】
――オタクについて、今日における現象としての広まりとは裏腹に、それに対する理解が本当に深まったのかという点には大きな疑問があります。例を挙げれば、クールジャパンは陥穽にはまっているのではないか。つまり、そこには単純な表層的支援策しかなく、オタクの本質が理解できていないのではないか。
 そこで、まずお伺いします。オタクに対するオリエンタリズムな眼差しは、果たして超えられるのでしょうか。この点について、日本国内でのオタクに対するオリエンタリズムなまなざしと、アメリカから日本に対するオリエンタリズムなまなざしとに分けて、お尋ねしたいのですが。

宮台■結論から言えば、オタクの理解が進んでいるとは思えません。他方、オタクに対するオリエンタリズムな眼差しは、少なくとも国内については越えられています。国外についても時間の問題でしょう。まず、読者の便宜のために、言葉の確認から始めてみます。
■マニアとオタクとどこが違うか。これは「キリスト教やイスラム教のような既成宗教とオウム真理教のようなカルトはどこが違うか」という宗教社会学的問題の応用です。答えは同じです。市民社会との両立可能性が疑われるものが、オタクであり、カルトなのです。
■次に、オタク誕生の社会的文脈を確認します。オタクの誕生は、日本のサブカルで繰り返されてきた、いわゆる〈埋め合わせ〉として理解できます。ここでの〈埋め合わせ〉とは、ヨアヒム・リッターの〈埋め合わせ〉でなく、ジークムント・フロイトのそれです。
■リッターの〈埋め合わせ〉とは、直前の時代に日常だったものが自明でなくなり、新たな日常に全てが覆われた段階で、その日常の破れ目として---非日常として---前時代に日常だったものが、肯定的に表象されることです。「風景」や「自然」がそれに当たります。
■フロイトの〈埋め合わせ〉は「補償」とも訳される神経症のメカニズムで、抑圧された欲動が別の意外な形をとって表れることです。ここではフロイトの心理学的な〈埋め合わせ〉概念が重要ですが、リッターの文化的〈埋め合わせ〉概念とも無関係ではありません。
■戦間期にもフロイト的〈埋め合わせ〉を見い出せますが、敗戦後に限れば、まず1960年代末が注目されます。それに先立つ1955年に「大人から理解できない存在」としての〈若者〉概念が登場します。当初は無軌道・暴走・反抗等で表象される〈否定的若者〉でした。
■それが、1964年の東京五輪や1965年のビートルズ来日を境に〈肯定的若者〉に変じます。[音楽やアートの好み=ポップカルチャー][良き社会の理念=反戦平和][良き性愛の理念=フリーセックス]等、大人とは異なるオルタナティブな価値を体現するのです。
■ところが、問題は性愛でした。加納典明ら写真家が「奔放な性」を主題にし、若松孝二らが従来のドカタならざる予備校生や大学生を対象とした「ピンク映画」を撮り、「フリーセックス」「同棲」などの言葉が流行ったのが、1968年から69年にかけてのことです。
■実態とは別に、メディアが性に席巻された格好です。1970年代に入ると女性メディアに波及し、性を前面に掲げた『微笑』が1970年に創刊、ティーン向けGS&ファッション誌『セブンティーン』(1968年創刊)が1971年から「高校生妊娠モノ」の連載を始めます。
■そこで、マートンの言う「機会のアノミー」に陥ったのが、小学校高学年から高校生までの女の子たち。彼女たちが飛びついたのが1973年から始まった「おとめちっくマンガ」でした。陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子等が、『りぼん』誌上で作り出した流れです。
■友達たちは男の子たちとデート。でも私はドジだし可愛くない。だから大好きな男の子もきっと振り向いてくれない。そんな私が好きなのは、“白いお城と花咲く野原”。「今日はいい天気だから、バスケットにサンドイッチをいれて、お花畑にピクニック」みたいな。
■実際にはピクニックに出かけない。〈性的にダメな私〉が、ヨーロピアンでロマンチックな〈繭〉に籠もるだけです。抽象的に言えば〈虚構の充実による、現実の不全の埋め合わせ〉。実はこれが十年後に顕在化することになるオタク的な〈世界解釈〉の萌芽でした。
■ちなみにオタク系の〈世界解釈〉の特徴は、〈虚構の現実化(異世界化)〉という形式です。これは、ナンパ系の特徴が〈現実の虚構化(演出化)〉の形式であるのと対照的です。性的現実から自分を切り離して〈繭〉に籠る「おとめちっく」は、実はオタク的です。
■でも「おとめちっく」は直接オタク系コンテンツのルーツにならず、別方向に進化します。ヨーロピアンでロマンチックな〈繭〉から、アメリカンでキュートな〈プロトコル〉へ。1977年に丸文字が〈交換日記からラブホテル落書帳へ〉と変化したのが象徴的でした。

【オタク誕生前史としての〈性と舞台装置の時代〉】
■実際「おとめちっく」は4年しか続かず、77年からは「〈私としての私〉が剥き出しにならないよう〈可愛いツール=プロトコル〉で武装しつつ性愛に乗り出すモード」が拡大します。それに男子側も対応して、77年秋に『ポパイ』がデートマニュアル化しました。
■77年は〈性と舞台装置の時代〉の始まりです。女子の〈ロマンチックからキュートへ〉。男子の〈カタログからマニュアルへ〉。カタログというのは植草甚一編集『宝島』のように「これを手に街を歩けばワンダーランドに早変わり」という拡張現実(AR)ツールのこと。
■これも後から振り返ると〈現実の虚構化(演出化)〉ツールで、後のナンパ系的な作法の萌芽だったと言えます。でも、こうしたカタログ誌(70年半ばには『宝島』や初期『ポパイ』はこう呼ばれていた)も、直接ナンパ系的作法のルーツになった訳ではありません。
■ルーツになったのは「おとめちっく」です。元々は現実を忘れる〈虚構の現実化〉ツールだったのが、〈ロマンチックからキュートへ〉の流れで、現実に乗り出す〈現実の虚構化〉ツールに変じた。〈虚構の現実化〉と〈現実の虚構化〉が似た道具を使えたのです。
■さて、ナンパ系関連アイテムを列挙すると、湘南サーファーブーム、ディスコブーム、テニスブーム、カーステレオブーム、渋谷公園通りブーム、原宿ホコ天ブーム、ペンションブーム。なお81年からは女子専門学生や女子大生が働くニュー風俗もブームになります。
■77年から現実とメディアを席巻した〈性と舞台装置の時代〉。いつの時代も性愛ブームの席巻による〈排除〉が問題化します。〈性と舞台装置の時代〉モードから〈排除〉された人々が集ったのが、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』ブームと、それに伴う一連の雑誌でした。
■奇しくも『ヤマト』ブームが77年。以降『OUT』『アニメージュ』『ファンロード』が立て続けに創刊。79年からは、その二年前に始まったコミックマーケットが高橋留美子人気を支えにブームになります。そして83年に中森明夫の雑誌連載での「おたく」の命名…。
■つまり、80年代初頭には既に、〈性と舞台装置の時代〉に乗れるナンパ系と、乗れないオタク系という対立が顕在化していました。ただし『サブカルチャー神話解体』に述べた通り、僕の世代が高校生だった76年まで、原オタク系と原ナンパ系が実は同一集団でした。
■『サブカル神話』ではこの〈原オタク系=原ナンパ系〉がナンパ系とオタク系に分化するプロセスを〈SF同好会からアニメ同好会へ〉というエピソードに書き留めました。74年高校進学世代の僕ら世代と、75年高校入学世代との間に、大きな分水嶺があったのです。
■ナンパ系は〈現実の虚構化(演出化)〉に勤しみデートスポットに集う。オタク系は〈虚構の現実化(異世界化)〉に勤しみ漫画書店に集う。中森明夫の差別的記述が示すように、オタク系の〈虚構の充実による、現実の不全の埋め合わせ〉は明確に意識されていました。

【オタク的コミュニケーションと〈埋め合わせ〉】
■ところで、83年に中森が記事に描いた「高田馬場フリーススペース(書店)での銀縁眼鏡のツルがこめかみに食い込んだ汗臭いデブ」の会話が、「おたく~って知ってる?」だったことが象徴するように、オタク的コミュニケーションは当初〈ウンチク競争〉でした。
■これが示すのは、オタク的コミュニケーションが、ナンパ系ゲームでの地位上昇を代替する〈もう一つの地位上昇〉を目指したこと。宗教社会学では、宗教の重要な機能を〈地位代替機能〉に求めます。俗世の地位上昇不全を、教団の地位上昇で埋め合わせる訳です。
■オタク系は、ナンパ系になれない連中のフロイト的〈埋め合わせ〉でしたが、良く見るとリッター的〈埋め合わせ〉---旧日常ゲームから新日常ゲームにシフトした後に旧日常ゲームのアイテムが不可能性ゆえに非日常的な崇高さとして表象されること---も見出せます。
■『サブカル神話』に記した通り、60年代後半の対抗文化の中でピンク映画やヤクザ映画が反復した〈孤独な(疎外された)男〉〈母なる(子宮回帰的な)女〉の意味論を、70年代後半に松本零士アニメが、大宇宙を舞台にしたサブライム(崇高性)として反復します。
■そこで述べた通り、60年代までは〈孤独な男〉を癒やす〈母なる女〉の意味論が、古典的な〈聖なる娼婦〉の表象を通して「あり得ること」として描かれましたが、70年代後半にはもはや「あり得ない」がゆえに、SF的舞台設定を背景に描かれる他なかったのです。
■かつてSF作家のJ・G・バラードが語ったように、今日では「あり得ない」17~18世紀的西部劇の心象風景が、エドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』がそうであるように、SF的な大宇宙を背景に「あり得る」かの如く描かれるのは、よくあること。
■その後は、(1)『ヤマト』的〈サブライム系〉が、(2)「あり得ない」妄想への反発から高橋留美子らの〈小世界系〉を産み、(3)それが更に〈小世界インフレ系〉(男子はロリコン、女子はヤオイ)に短絡し、(4)これら総体の動きが〈大世界の中の小世界系〉を産みました。
■『サブカル神話』で示したように、(1)から(2)への動きが〈反発化〉、(2)から⑶への動きが〈短絡化〉、これら総体を観察した上での(1)から(4)べき動きが〈再帰化〉です。この三種類の遷移は、19世紀のフランス恋愛文学の展開にも見られる一般的パターンなのです。

【ナンパ系とオタク系の〈等価化〉=〈総オタク化〉】
■話を戻すと、フロイト的〈埋め合わせ〉の別の例が、僕が火をつけた90年代半ばの援助交際ブームに並行して、盛り上がった「不思議ちゃんブーム」です。「街で遊びたいけど、性は苦手」という女の子たちのオルタナティヴ・チョイス=代替的地位獲得ツールでした。
■類似事例が歴史的に反復していますが、少なくとも1996年までのオタク的なものは、代替的地位獲得ツールという〈埋め合わせ〉でした。それが目に見えたので差別されました。この可視性が、コミケや漫画書店の風景だけでなくコンテンツそのものに刻印されました。
■例えば1982年の『超時空要塞マクロス』。「大好きな女の子と、偶然密室に閉じ込められた結果、愛が⋯」の如き、反吐が出そうな妄想が溢れていました。しかもそれが大人気ときている。これに続いたオタク的コンテンツの大半はクソだらけだったと断言できます。
■ところが1996年、ナンパ系では、援助交際の失速を機に、性愛ゲームが〈イケてるゲームから、痛いゲームへ〉と失墜。他方オタク系が、〈蘊蓄競争から、コミュニカティヴな戯れへ〉と転じます。かくて、ナンパ系とオタク系の価値的な優劣がフラット化しました。
■こうした〈等価化〉を背景に、一見ナンパ系に見えて、相手に話が通じそうだと見るやオタク系モードにシフトする〈隠れオタク系〉や、その逆の〈隠れナンパ系〉のような〈掛け持ち系〉が---オタク系とナンパ系の間のみならず各系内部でも---目立つようになります。
■僕はこうしたフラット化を、価値優劣のない横並び化という意味で〈総オタク化〉と呼びましたが、これを背景に、ナンパ系とオタク系の差異だった[現実の虚構化/虚構の現実化]が、ナンパ系と無関連なオタク系内部の差異へと、コピーされるようになりました。
■ナンパ系と無関連なオタク系内部の差異へとコピーされた「現実の虚構化/虚構の現実化]が、宇野常寛氏が言う[バトルロワイヤル系/セカイ系]という差異です。宇野氏はコンテンツにだけ注目しているので、バトルロワイヤル系の登場を21世紀だとしています。
■でも、コンテンツに限らずコミュニケーション一般に注目するなら、両者の分岐は97年です。96年はエヴァ・ブームですが、97年は「新しい歴史教科書をつくる会」結成年。それが、2000年初頭の「嫌韓ブーム」と、2005年以降の「電凸ブーム」へと繋がりました。
■エヴァはセカイ系=〈虚構の現実化(異世界化)〉で、電凸はバトルロワイヤル系=〈現実の虚構化(ゲーム化)〉です。実は、僕のゼミに電凸カリスマがいました。彼によれば、電凸は、仕掛人が「点火」や「燃料投下」の実績を競う、非イデオロギー的なゲームです。
■全国で10人前後いた仕掛人たちは、数ヶ月に一度のオフ会で、実績の競い合いをしていたそうです。釣られる側にはむろん思考停止の馬鹿が目立ちますが、「分かってやってるんだよ」的な「アイロニカルな没入」系(大澤真幸)も含まれていたことが、重要です。

【オタク・コンテンツの機能――社会的文脈の無関連化】
■〈総オタク化〉と〈掛け持ち化〉という世紀末からのオタクの国内的位置づけの変化と並行して、特にフランスとアメリカ西海岸で、国内的変化に大きく寄与したインターネット化を背景にして、日本のオタク的コンテンツを享受する人々が、大規模に出現しました。
■少なくとも表面上は、代替的地位獲得の如き〈埋め合わせ〉のネガティブ・イメージはなく、逆にスノッブ的なハイブロウ自慢でした。その点、かつての日本のオタクと同じ〈薀蓄競争〉がありはしたものの、「性愛から見放されたデブ」ゲームと方向性が違いました。
■例えばこのスノッブ的〈薀蓄競争〉は、人種や国籍や階級や性別の壁を問わないという意味で開かれたものでした。因みにこれは最近のきゃりーぱみゅぱみゅのブームでも顕著です。それを僕は日本のオタク的コンテンツの〈社会的文脈の無関連化機能〉と呼びます。
■この機能は、四年前に米国のアジア研究学会や各大学の講演で繰返し語ったように、カルチュラル・スタディーズの想定を超えます。カルスタとは、コンテンツを、人種や国籍や階級や性別を背景とした覇権闘争として分析しようとする旧帝国の自己反省ツールです。
■日本のオタク的コンテンツを米国で紹介する「窓口」になっている日本人研究者の大半がカルスタに属します。だから「彼らは事実上フィッシングサイト(間違った場所に連れていくウェブ頁)と同じだから、騙されるな」と米国で申し上げたら、大変にウケました。
■印象的だったのが、日本人のカルチュラル・スタディーズ研究者と違い、米国人のジャパノロジストや文学研究者の大半が、日本のオタク的コンテンツに特徴的な〈社会的文脈の無関連化機能〉について、「宮台の指摘に完全に同意する」と語ってくれたことでした。
■繰り返すと、日本のオタク的コンテンツが、国外で大きな力を持つようになった理由を、カルスタの概念ツールでは扱いきれません。大英帝国的な反省ツールを、「横のものを縦にする」かの如く日本のオタク的コンテンツに当てはめても、所詮は何も見えないのです。
■日本のオタク的コンテンツが国外で広く受容されたのは、専ら〈社会的文脈の無関連化機能〉の御蔭です。フランスで『ドラえもん』が享受されるのも、畳や障子の如き日本の文物が出て来るからこそ、フランスの社会的文脈とは相対的に無関連になれるからです。
■ただし当然ながら、社会的文脈と完全に無関連ではありません。90年代半ばの高円寺にジョン・ゾーンが住んでいました。フリージャズのミュージシャンで、ピンク映画のポスターとドーナツ盤レコードの収集家としても有名です。彼が語っていたことが印象的です。
■70~80年代に日本の映画や漫画に興味を持つといえば、専らイジメられっ子だったそうです。その意味で「社会的文脈を忘れたい子が享受する」という社会的文脈がありました。思考停止的なカルスタ援用とは別に、ここまで入り込めば、社会的文脈が重要になります。

【オタク・コンテンツは模倣できるか】
■先日中国の研究者らと討議して思ったことがあります。中国人は日本のコンテンツを今はまだ真似できません。彼らは器用で青銅器時代以来日本を凌ぐ精巧な細工を誇ってたにもかかわらず、彼らの作るコンテンツからは誰もが知る「あの匂い」が全くしないのです。
■斎藤環が「東浩紀にはオタク魂があるが村上隆にはない」と述べたことに擬えると、「韓国人にはオタク魂があるが、中国人にはない」。日本人や韓国人が追求できるのに、あの中国人が追求できない洗練の方向性が、あるのです。研究すべき問題が、ここにあります。
■ただし僕が見るところ、オタク魂が日本や韓国の外に拡がるのは、時間の問題でしょう。というのは、先に述べた通り、オタク的コンテンツの本質---オタク魂---は〈社会的文脈の無関連化機能〉であって、飽くまで機能的な問題だからです。であれば、摸倣は可能です。
■〈社会的文脈の無関連化〉機能をもたらすか否かについて様々なアピアランス(意匠)やモード(様式)を試行錯誤すれば、育種学的な〈変異・選択・安定化〉メカニズムを通じ、いずれ日本のオタク的コンテンツと機能的等価なものが生み出されるようになります。
■米国連続講演でも話したことですが、〈社会的文脈の無関連化機能〉において等価なコンテンツが生み出されれば、文字通りには「日本の」コンテンツでなくても、機能的な意味で「日本的な Japanese way of」コンテンツであると、言い切ることができるはずです。
■クール・ジャパンの「クール」の本質は、〈社会的文脈の無関連化機能〉によるバリアフリーな浸透性です。この特質は当初は日本発コンテンツのユニークさでしたが、韓国のコンテンツに見るように、今や特許切れとなり「ライセンス公開」された状態にあります。
■「オタク的コンテンツによって社会的文脈を忘れられる」と云う命題は、「スパイク・リーの映画を白人が黒人のようには見られないし、スピルバーグの映画を黒人が白人のようには見られないが、こうしたバリアがないことを意味する」と言えば米国人に通じます。
■『サブカル神話』上梓の前に1989年『中央公論』で書いた通り、「ブルーカラーだ」「地方出身者だ」といった自己像と無関連なコミュニケーションの一般化--その意味での総中流化---が、70年代末から拡がる[ナンパ系/オタク系]という〈人格分類〉の出発点です。
■この〈人格分類〉に沿う形で、日本のコンテンツは[性愛系/異世界系]に分岐しました。むろん一部ストリート音楽などを除けば、漫画やアニメや映画のコンテンツが、圧倒的に〈異世界系〉に引き寄せられた歴史があり、そのことが更に重要な意味を持ちました。
■〈異世界系〉は[ナンパ系/オタク系]という〈人格分類〉を背景とした劣等感を社会的文脈とし、その劣等感をもたらす社会的文脈を忘れさせる機能ゆえに隆盛になったのです。だからオタク的コンテンツが〈社会的文脈の無関連化機能〉を持つのは当然なのです。

【オタクを巡る社会的文脈の変化――脱差別化・脱神話化】
■日本で「オタク」の存在が目立ち始めるのは70年代末からで、名前が付いたのは1983年。ロリコン誌『漫画ブリッコ』で「東京おとなクラブジュニア」を連載していた中森明夫の命名です。この命名事件が示す通り、オタクの認知は差別的な意識と結びついていました。
■「相手の目が見られず」「キーキーと高い声で」「おたくさあと呼びかける」「銀縁の眼鏡の蔓が米噛に食い込んだ」「汗臭いデブ」といった表現が示すのは、先に述べたコミュニケーション不全を埋め合わせる〈代替的地位獲得機能〉に注目した、蔑視の意識です。
■平たく言えば、“〈世直しの営み〉に代わって〈性愛の営み〉が輝く世の現実の中、しかし現実と渡り合えず現実の重さにも耐えきれないヘタレが、漫画やアニメの薀蓄競争如きで辛うじて肯定的自己像を維持してるぜ、何てこった”というのが中森の言いたかったこと。
■92年連載の『サブカル神話』で77年からの「SF同好会からアニメ同好会へ」の変化を揶揄したのと同じで、中森も僕も、〈秩序〉や〈未来〉の是非に端的な関心を寄せずに〈自己〉のホメオスタシス(自己防衛)の観点から〈世界〉を見る作法を、軽蔑していました。
■僕や中森が前提としていたのが「現実の方が虚構よりも重い」「現実の方が虚構よりも価値がある」という命題です。それゆえ「現実から虚構へと逃げるヘタレ」という蔑視が成り立ちました。ところが「現実の方が虚構よりも重い」の自明性が90年代に崩れました。
■第◯章(『Mechademia』英語論文)で示した通り、最初のエポックは92年の〈アウラの喪失〉です。カラオケBOX化、エロの絵モノ化、AVの企画化&セル化、売春の援交化が一挙に同時期に生じました。共通性は「目に見えるモノの背後に不可視の物語がある」という深さ(アウラ)の消失です。
■音楽享受であれ、音楽表現であれ、AV出演であれ、売春であれ、「やむにやまれぬ思い」や「どうしようもない事情」が消えて、〈表層の戯れ〉になります。ただしポイントは「事情や思い」が真に消えたか否かでなく、「意味論から削除された」という事実です。
■加えて「意味論の変化」を超えた「リテラシーの変化」も極めて重大です。エロの字モノから絵モノへの変化は、グラビアやイラストの背後に実在や物語の存在を想定して興奮する作法から、グラビアやイラスト自体に興奮する作法(萠え)への変化を示しています。
■〈アウラの喪失〉は、「事情や思い」の無関連化や、「実在の想定」の無関連化という意味で、〈表層の戯れ〉です。それゆえに、ますます〈社会的文脈の無関連化機能〉をブーストする事態に繋がりました。かくてオタク的コンテンツが今日的形式に近づきました。
■こうした〈アウラの喪失=表層の戯れ〉があれば、「現実が虚構より重い」「現実が虚構より価値がある」が自明でなくなって当たり前。以降、〈自己のホメオスタシス〉に資するなら、現実であれ、虚構であれ、「等価に」利用するスタンスが、専らになりました。
■僕はこの〈現実と虚構の等価化〉を〈総オタク化〉と呼んだ訳ですが、〈等価化〉を背景に、生身の現実や特定の虚構への過剰な執着がイタイと評価されるようになり、それゆえ前述の〈隠れオタク系〉〈隠れナンパ系〉〈掛け持ち系〉という在り方が拡がりました。
■また、本来[オタク系/ナンパ系]の差異だった[虚構の現実化(異世界化)/現実の虚構化(演劇化)]の区別が、もはやナンパ系など存在せぬかの如く〈総オタク化〉した塊の内部にコピーされ、[セカイ系/バトルロワイヤル系]の差異になったと述べました。
■ただし、15年前の酒鬼薔薇事件の際に繰り返したように、現実と虚構の区別がつかないのではありません。馬鹿ではないので、当然区別はつくのですが、「虚構よりも現実の方が取り立てて重要だと感じるべき謂われはない」とする意味論が、拡がるということです。
■こうした感受性は、漫画家ねこぢるが96年の自殺直前に上梓した『ぢるぢるインド旅行記ネパール編』で死ぬことと生きることの大差なさとして描かれ、2000年頃から話題になった練炭集団自殺---オンラインで仲間を募ってオフラインで集い自殺---にも見出されます。
■練炭自殺では皆が集っても大抵は自殺しません。決行場所を探してドライブし、皆で食事をするうちに死ぬ気が失せます。重要なのはその事実が広く知られていること。その意味で練炭集団自殺はロシアン・ルーレットなのです。凶悪犯罪の杜撰化の背景も同じです。
■この十年間、とりわけ女の子たちの間に〈隠れオタク系〉〈隠れナンパ系〉〈掛け持ち系〉─総じて〈人を見て法を説く系〉─が増えました。昔の基準では性愛系でもありオタク系でもある存在ですが、日常生活ではオタク的コミュニケーションに幸せを見出します。

【なぜ日本と韓国が総本山なのか?】
――そう遠くないうちに、社会の変化によってオタク・オリエンタリズムは乗り越えられ、オタク文化の根幹、いわば「オタク魂」のようなものと言ってもいいかもしれませんが、現実の社会の文脈を無関連化するコンテンツを受容して、それを楽しむというコミュニケーションが広まっていくのは、もはや必然の流れだろうという見立てですね。

宮台■そうです。専ら日本や韓国の作家によるコンテンツだけが〈社会的文脈の無関連化機能〉を果たすのであるなら、日本や韓国だけが、オタク的コンテンツに宿るオタク魂の「総本山」としての権威を担うことになり、特権化された場所であり続けることでしょう。
■でも僕は、そういうことはなく、時間の問題だろうと思います。各国が〈社会的文脈の無関連化〉において等価な機能を果たすコンテンツを生み出せるようになる程度に応じて、「総本山」神話は薄れます。むろん、今のところは、まだ偏差があるというのが事実です。

――日本と韓国にしか作れないというのは大事なポイントだと思います。これは負け組の社会だから、と言えるのかどうか。例えば日本であれば、敗戦のルサンチマンがあるとか、そうした歴史的背景や記憶がまだまだ使えるということがいえるのでしょうか。

宮台■そこは研究ネタの宝庫です。僕の考えでは歴史的背景はずっと古く遡ります。例えば日本と韓国のどちらが演歌のオリジンかという論争を長くやってきました。在日も帰化人も多数います。むろん同じウラル・アルタイ語族で、言葉の分岐もそう古くありません。
■百済や新羅の国の頃まで─高句麗が覇権を握るまで─は通訳を介さずに大和朝廷の役人が半島の役人と会話ができました。そういう具合に相当古い「秘密」に遡れます。19~20世紀的近代化における後発国という話より、ずっと古い「秘密」に遡れるでしょう。
■僕は祭りが好きなので、日本各地のお祭りや、韓国や中国のお祭りを見てきたのですが、郷土的な祭儀や祝祭の分析がヒントになる気がします。今でこそ日本は非血縁主義で、琉球や韓国は血縁主義という違いがありますが、後者の血縁主義は漢民族の影響によります。
■ユダヤ系が強力な母系血縁制、中国系は強力な父系的血縁制ですが、エマニュエル・トッド的に言えば、ユダヤはバビロン捕囚以来ディアスポラであり続け、中国は殷王朝以来ジェノサイドの歴史を経験し続けたからこそ、場所性に関係ない絆による相互扶助という社会的装置を発明した。
■琉球にも半島にもこれ程の歴史はない。だから、郷土の祝祭や祭儀は専ら、土地にへばりついて生きてきた農耕民のもので、それゆえアニミズム的要素に満ちています。例えば、自然物のみならず人工物にも魂が宿り、人格神はパンテオン(神々集団)を作るのです。
■フルアニメーションならざるリミテッドアニメに前提を提供している、漫画絵自体の洗練を見るにつけて、〈アニミズムとパンテオンの共通感覚〉に遡る必要があると感じます。日本的アニメのルーツを絵巻物に遡る人や、掛け軸に遡る人がいるけど、溯及が不十分です。

【オタク・コンテンツが育まれる条件】
――以前、宮台さんがおっしゃっていたのは、宮崎駿にせよ押井守にせよ、近代化少年であって、生来のメカマニアみたいなところがあって、それがオタクの原点だということでしたが。

宮台■〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚がポイントです。どの先進国にも多数いるメカマニアとは違います。例えば押井守アニメに特徴的な「人よりも物(メカ)が輝く」という感覚です。押井も僕も人形コレクターですが、「人よりも人形が輝く」のも同じです。
■押井は映画版『パトレイバー』で昭和30年代的風景を描き、同じく映画版『パトレイバー』で中国返還前の香港的風景を描きました。とてもノスタルジックです。でもそのノスタルジーは「昔は人が温かかった」といった類の脳天気な「思い出の捏造」から自由です。
■昭和30年代は人が温かかった時代ではない。凶悪犯罪は現在の5~7倍発生していたし、尊属殺に至っては現在の30倍も起こっていた。人が温かかったのではなく、愛憎ともに激烈だった時代。その意味では、身体距離が近かった時代、共通身体性が存在した時代です。
■昭和ノスタルジーの本質は〈人が温かかった時代〉ならざる〈物が輝いた時代〉。昭和30年代の3S(炊飯器・掃除機・洗濯機)から昭和40年代の3C(カー・クーラー・カラーテレビ)への流れもそう。僕の家にも車購入記念日やクーラー購入記念日がありました。
■「物が輝いた時代」の小中学生男子は例外なく乗り物好きでした。汽車や電車、車、飛行機、ロケット。国電に乗れば運転席の後ろには子供たちが鈴なりで、窓を背にした一列ベンチシートには子供が窓側を向いて膝立ち状態で、母親に靴を脱げと叱られていました。
■〈人工物に魂が宿る〉という感覚は戦間期前期(1920年代)に遡ります。フリッツ・ラング『メトロポリス』(ドイツ・1927年)が典型ですが、とりわけ後発近代の旧枢軸国では人工物に魂が宿るという共通感覚が、小説や映画などの多くの表現に刻印されています。
■日本なら江戸川乱歩の「怪人20面相」的世界。乱歩が活躍した1920年代と言えば関東大震災を挟んだ大正ロマンと昭和モダンの「モダニズムの時代」です。この時代、日露戦争後の重工業化がもたらした都市化を背景に、クレシェンドとデクレシェンドが交差します。
■モダンな十二階の下に盛り場。盛り場の周囲に芝居街。芝居街の周囲に色街が拡がった浅草の風景。都市化によって消え行くものと都市化によって浮かび上がるものが交差して綾を為すのがモダニズム。乱歩も川端康成も1930年代的な銀座のモダンを嫌悪しました。
■1955年(昭和30年)から十五年間の昭和全盛期も同じです。ただしモチーフは都市化から郊外化(団地化)に変じました。つまり、郊外化によって消え行くものと郊外化によって浮かび上がるものが交差して綾を為し、いっとき1920年代的なものが反復したのです。
■この反復を象徴する映画が鈴木清順『殺しの烙印』(1967年)です。ビルヂング、アドバルーン、エレベータ、トヨペット、炊飯器、ネオン、キャバレーといった「物の輝き」が---「物の輝き」に比べて「人の輝き」が劣ることが---圧倒的な説得力で描かれていました。
■そう。「物が輝く」ということと、都市や郊外に「仄暗いもの」「得体の知れないもの」が存在するということが、完全に同義でした。僕は、沢木耕太郎『深夜特急』(1986年)の時代にバックパッカーとして東南アジア旅行をし、そのことを完全に確信しました。
■〈仄暗い〉と言いました。消えゆくものが「闇」。浮かび上がるものが「光」。そして「闇」と「光」が眩暈を彩なす時空が〈仄暗い〉のであり、そこにはエログロナンセンスが溢れます。そのことの集合的記憶がオタク魂の種を育んだのではないかと睨んでいます。
■1920年代の〈仄暗い〉時空は浅草でした。60年代の反復における〈仄暗い〉時空は「街全体」としてより、非常階段・屋上・松葉杖・包袋ぐるぐる巻きの人といった「徴候」として現れるようになります。ちなみに僕はそれらを〈片輪的オブジェ〉と呼んできました。
■映画批評を長くしていて分かるのですが、日本の60年代(正確には50年代後半から70年まで)と、韓国の90年代(正確には80年代後半から2000年にかけて)は〈片輪的オブジェ〉を含む映画的シンボリズムが日韓で酷似します。これがオタク魂の共通の土壌です。
■そして2000年からは中国が日本と韓国を追いかけていると見えます。実際どうなのか。賈樟柯(ジャ・ジャンクー)という監督と話したことがあります。彼が三峡ダムを取材したドキュメンタリーをベースに『長江哀歌』という劇映画を撮ったのが、2007年でした。
■そこでの風景が昭和30~40年代の日本と実に似ています。賈樟柯にそのことを尋ねたら、彼は「似ている面と全く違う面が貼り合わさっている」と答えました。いわく、中国では急速な都市化と郊外化が同時に襲い、貧困化と格差化が激烈に展開している真っ最中だ。
■ところが貧困化した失業層ほど携帯電話にすがる。携帯を通じて職を探し移動するからだ。そしてその携帯を通じてグローバル化した世界の同時性に繋がる。その意味でかつての日本と似て非なるものが混じる。今の中国を過去のどこかの国に擬えるのは無理だ、と。
■ちなみに中国は文化大革命によって地縁的な共同性が壊滅させられた結果、日本や韓国と違って地域共同体の祝祭がほとんど残っていません。家族親族ネットワークの中で旧正月を祝うといった形が専らです。僕のゼミの多数の中国人留学生らもそう証言しています。
■僕たちは自明なので意識しませんが、八百万のカミ的なアニミズムと結びついた本当に古くからの地域の祭りを行い続けているという点で、日本と韓国は本当に珍しい先進社会だと思います。それが〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚と結びついていると感じます。
■でも、〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚はオタク魂の必要条件の一つに過ぎません。そう思うからドイツなどの後発近代化国の戦間期を事例に挙げました。この共通感覚を洗練された表現に練り上げるセンスは、アニミズムとパンテオンをさらに要求するでしょう。


【物の輝き・人形の輝き・アニメの輝き】
――英語版(『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』)を出す時に、アメリカで面白い反応がありました。本の中で、アニメを扱った章は人気があるのですが、鉄道を扱った章は全く反応がないんです。モノの輝きが全然伝わらないんです。私は衝撃を受けました。そう考えると、オタク・オリエンタリズムを超える時に、アメリカの人に対して、モノが中心性を持つというのが伝わらないのかと思うのですが、これはどう思われますか?

宮台■浄瑠璃を中心とする古い表現を辿ると〈人工物に魂が宿る〉という共通感覚とは別に〈周辺的な存在に、真実と力が宿る〉という共通感覚を見出せます。それもまた日本のオタク的コンテンツの精髄だとして、米国の講演では〈オフビート感覚〉と名づけました。
■『サブカル神話』で述べ、最近でも円谷プロ『怪奇大作戦』シリーズDVD-BOX下巻の解説でも詳述した通り、「怪獣は悪くない、悪いのは人間だ」「罪人は悪くない、悪いのは社会だ」という発想が、手塚治虫SF三部作以降、日本の漫画とアニメに浮上しました。
■これは一口で言えば〈周辺的存在にこそ、真実が宿る〉というモチーフです。これとは別に『サイボーグ009』の石森章太郎作品に見られるように〈周辺的存在にこそ、力が宿る〉というモチーフもあります。この〈オフビート感覚〉は米国には基本的にありません。
■似たモチーフはありまくす。「ポカホンタス伝説」です。「原住民を痛めつける悪い白人の中に一人の英雄がいて、原住民の酋長の娘を娶った上、原住民のために白人と戦って命を落とす」という内容です。テレンス・マリック『シン・レッド・ライン』が典型です。
■しかしこれは、「悪いと批判される我々の中にも、正しい者がいる」という、「オフ」ならざる「オン」ビート感覚であって、「我々が戦う敵(怪獣や罪人)こそが正しく、我々(人類や市民)が間違っている」という〈オフビート感覚〉では、まったくありません。
■『ジャングル大帝』が典型ですが、60年代の子供向けコンテンツの多くが「人類は間違っている、人間社会は間違っている、以上」で終わります。小学生の僕らは「え?」と呆気にとられました。日本のコンテンツを激しく好む米国人の多くがそこに反応するのです。
■「番組を左翼が作っていたから」とか「自虐史観のなせるワザ」と頓珍漢なことをほざく輩もいるけど、米国にも左翼はいるし、敗戦国は日本だけではない。頭が悪すぎます。仮に自虐史観なるものがあるとすれば、それこそが伝統的〈オフビート感覚〉の帰結です。
■という具合に僕は米国講演でも主張し、「罪人こそ正しい」的な表現をグラムシの階級的覇権闘争の観点から解釈しがちなカルスタを「日本の戦後にありがちな輸入業者に過ぎない」と断じたところ、反論の集中砲火を予想したのに、何と拍手喝采の渦になりました。
■今の質問は、欧米では〈人工物に魂が宿る〉的な共通感覚は理解されにくく、〈周辺的存在に力が降りる〉的な共通感覚は理解され易いのではないか、と言い換えられます。答えはイエス。後者は現に摸倣されています。でもオタク魂の核は、摸倣しにくい前者です。

【周辺に置かれたものの輝き】
――鉄オタみたいなモノの中心性はなかなか理解できないけれども、社会的文脈を無関連化する振る舞いは理解できるということでしょうか。

宮台■〈人工物に魂が宿る〉という感覚よりも〈周辺的存在に力が降りる〉という感覚の方が米国人に理解されやすいのは経験的事実です。米国人の場合には、〈周辺的存在に力が宿る〉に似た「ポカホンタス伝説」が、〈周辺的存在に力が宿る〉への通路になります。
■ヒューマニティ(人らしさ)を称揚する人はどの国にもいます。ヒューマニティを表現する際「ヒューマニズム(人間中心主義)の肯定を通じてヒューマニティを肯定する形」と「ヒューマニズムの批判を通じて真のヒューマニティを表現する形」の二つがあります。
■「ポカホンタス伝説--排除される側に立って戦う我らが英雄の話--」は、「ヒューマニズムの批判を通じて真のヒューマニティを表現する形」のバリエーションです。このように抽象化すると、〈周辺的存在に力が降りる〉もまたバリエーションの一つだと分かります。
■浄瑠璃の世話物(心中物)、例えば近松門左衛門「新版歌祭文野崎村乃段(しんばんうたざいもんのざきむらのだん)を振り返りましょう。「障害を乗り越える愛」に挫折した二人が最後に心中を決意するのですが、その瞬間に二人に光が降り注ぐ、という形式です。
■無論スポットライトがあたる訳でなく--元々自然光や篝火の舞台ですから--そう感じられるということです。「排除される側に立って戦う我ら世間側の英雄」は登場しません。我ら世間が二人を闇へと追いやると、二人に光が降りる。それを我ら世間が目撃するのです。
■先に述べた通り「光」と「闇」が綾を為す時空は「仄暗い」。つまり「得体の知れぬもの」です。そこでは自明な世間が、非自明性の広大な海に浮かぶ小島の如きものとして観念されています。米国人は、そうした観念こそがヒューマン(人間らしい)と読む訳です。
■「ポカホンタス伝説」は一般にハッピーエンドですが、テレンス・マリック的「ポカホンタス伝説」では「排除される側に立って戦う我らが英雄」はそれゆえ滅ぶバッドエンドです。この「バッドエンド版ポカホンタス」は〈周辺的存在に力が降りる〉に近接します。

――アメリカは通常は逆ですね。最後はハッピーエンドになります。

宮台■そう。例えばリドリー・スコット監督『ブレードランナー』。劇場(プロデューサーズカット)版は米国人好みの「ハッピーエンド版ポカホンタス」ですが、ディレクターズカット版は「バッドエンド版ポカホンタス」。興行サイドは一般に前者推しになります。
■日本は相対的にこうした興行事情がありません。小学生のとき僕は白土三平原作アニメ『忍者サスケ』『カムイ外伝』を見ました。アニメ版『サスケ』は漫画全14巻の8巻分だけで、話が暗くなる直前で最終回になりました。ところが『カムイ外伝』は全く違いました。
■迫害に次ぐ迫害を受けた被差別民カムイが、最後に美しい村娘とその家族と知り合って安住の地を見つけたと思ったところが、最終回、娘と家族も全員毒殺されてカムイが一人寂しく荒野に消えるシーンで終わる。小学生の僕は腰を抜かします。米国ではあり得ない。
■同時期アニメ版『サイボーグ009』が放映されます。アニメ版脚本はSF作家辻真先が最終回を書きましたが、この最終回の絶望のカオスとも近い。原作『サイボーグ009』も暗い話。後の「仮面ライダー」と同様、あの九人は最終破壊兵器で、周辺的存在そのものです。
■アニメ版を含めたテレビ版には微妙な所がありますが、石森章太郎の原作漫画には〈周辺的存在に力が降りる〉(闇に光が煌く)というモチーフと、そうした逆説に満ちた世界の〈仄暗さ〉とが、見事に描き込まれています。古典劇の概念で言えば〈翻身〉譚ですね。
■世話物の話をしたけど、心中を決意した瞬間に光が降りるのが〈翻身(オルタレーション)〉。スーパーマンの如く「変身」は元に戻れますが、〈翻身〉は戻れません。仮面ライダーでもサイボーグ009でも、「変身」は〈翻身〉した主人公らの処世術に過ぎません。
■1968年『ウルトラセブン』シリーズ終了後に放映された『怪奇大作戦』では、「社会から虐げられた者が犯罪を以て復讐する」形式が反復されます。実相寺昭雄監督の回の全てがそうですが、復讐の瞬間、復讐者には心中者と同じ「光」=「闇の力」が降りています。
■これは相当古い形式です。例えば、能でワキ(旅の僧)を訪れるシテ(あやかし、亡霊、精霊、カミ)は、土地にゆかりの者として現れた後、消える寸前にその正体を現しますが、〈周辺的存在に力が降りる〉の典型です。この形式を完成させた世阿弥は14世紀の人です。
■折口信夫の『死霊の書』も〈周辺的存在に力が降りる〉を反復しますが、その主人公でもある天皇は、失われたほかひゞとの痕跡です。ほかひゞとのルーツは、安藤礼二氏によれば、内部に於ける「絶対平等」と外部に対する「絶対戦争」を原理とする移動集団です。
■「戦争常態化を前提として〈変性意識状態〉を常態化した存在」で、二十年前に飯田譲治が脚本を書いた深夜ドラマ『NIGHT HEAD』のオープニングに描かれた如きイメージです。社会の始源たる集合的沸騰状態(デュケーム)を生きる存在が折口の云うほかひゞとです。
■原初的社会というと、一般にハレとケの交代がある部族社会段階を考えます。この場合[ケ(日常)⇒ケガレ(日常の頽落)⇒ハレ(非日常の呼込)⇒ケ(日常)]というサイクルが想定されています。そこでのほかひゞとは、ハレの日の祝ひゞとに変性しています。
■つまり、社会的始源と違い、原初的社会では既に、始源的な湧き上がる力や得体の知れない力---謂わば〈黒光りした戦闘状態〉---は、常態化してはならない〈カオス〉ないし〈変性意識状態〉として、〈秩序〉ないし〈通常意識状態〉から区別され囲い込まれています。
■折口によれば、天皇は、我々が平時から疎外したそうした力を新嘗祭と大嘗祭を通じて定期的に取戻す役割を帯びます。それを帯びうるのは天皇が〈周辺的存在〉だからで、各地の祭に登場する、ほかひゞとの力を降臨させる翁(まれびと)が、天皇の元型なのです。
■先に〈周辺的存在に降りる力〉と言いましたが、折口によると、最古層においては〈周辺的存在〉がまれびと、〈降りる力〉がほかひゞとの時空です。安藤氏によれば、折口は台湾先住民(高砂族)に関する『蕃族調査報告書』の精読からこの図式を編み出しました。
■実はこの図式は、三千年以上前からのギリシア史に詳しい者にとって馴染みのものです。カスピ沿岸から最初に移住したアカイア人と後続ドーリア人との血みどろの闘争(暗黒の四百年)の末、漸く平時(ケ)と戦時(ハレ)を交代する都市国家の集合になったのです。
■その意味で「社会的始源から原初的社会へのシフト」や原初的社会における「社会的始源における湧き上がる力の囲い込み」は日本独自というより普遍的な古層です。相当近代化したのにこうした古層を各地の祝祭や天皇概念として保存していることが珍しいのです。

[以上前半部分です。後半部分を含んだ全体は『Fandom Unbound: Otaku Culture in a Connected World』日本語版(タイトル未定)をお求め下さい]



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