福島第一原発の汚染水問題と、4号機燃料棒取り出し問題について、元国会事故調査委員で、科学ジャーナリストの田中三彦さんとお話ししました。
例によって宮台発言の一部を抜粋。田中さんの発言を含めた全体は18日発売の『サイゾー』を御覧下さい。
宮台◇ (倒壊すれば「日本が終る」(どころか「北半球が終る」by ファイアウィンズ・アソシエーツのアーニー・ガンダーセン)かもしれない4号機からの燃料棒取り出しを東電に任せていいのかという疑問について)福島第一原発4号機燃料棒取り出しに東電以外の主体が関わると、責任の所在が変わります。国が主体でやることになれば、失敗した場合の損害賠償責任先も、東電から国へと変わります。東電が損害賠償を払えないから国が肩代わりするという場合と違い、国が損害賠償請求先となった場合は直ちに担当行政官のキャリアに響きます。政治家が強力に音頭取りをしない限り、行政官としては関わりたくないという道理です。
宮台◇ (1~3号機に一日400トンの水を注水すると循環後に倍の800トンになって戻ってくるので余分の400トンをタンクに入れているが、最大1000トンのタンクが2日余で一杯になるためタンクを作り続けている状況について、外国特派員協会で田中俊一原子力規制委員長が「(いずれは)流していいレベルまで浄化して海に流さざるを得ない⋯これまでも基準値以下であれば海に流してきたのだからそのレベルまで下げれば何ら変わりはない」と発言した件に関して)田中規制委委員長の言う「浄化して流す」が「希釈して流す」とどう違うかです。問題は「浄化して流す」と定義できるようなやり方が出来るのかどうか。ジャブジャブ地下水が流入し、それが何処にどう流出しているのかも判らない状況だと、浄化と称して結局は希釈に過ぎなくなります。その場合「浄化した」は汚染水放出のインチキ免罪符です。
似た話ですが、地下水を制御しきった上で浄化が出来たと仮定しても、次に水の量が問題になります。田中委員長は「基準値以下の放出はよくあること」と言いますが、どのくらいの規模の放水が「よくあること」なのか。畢竟、今後どのくらい放水が続くのかがが問題です。放水量が膨大なら「よくあること」は単なる詭弁です。
宮台◇ 汚染水放出問題がどの程度話題になるかが、「原発が規定不能なリスクをどの程度抱えるのか」に関する合意形成の貴重な指標です。今後は再稼働や瓦礫中間処分場建設が問題になるので、それら全てを住民投票にかける可能性を念頭に置くなら、汚染水放出問題がさして話題になっていない事実が懸念されます。
社会学者ベックによれば、規定不能なリスクとは予測不能・計測不能・収集不能なリスク。つまり保険会社が保険を作ってくれないリスクです。かかるリスクは、欧州のECRR(欧州放射線リスク委員会)のような、市民と科学者のネットワークを基にした「〈科学の民主化〉を背景とした市民政治」を展開し、共同体的自己決定に繋げる必要があります。
なぜなら規定不能なリスクは、科学者も行政官も政治家も確たる評価ができず、評価の責任を負えないからです。ところが日本では、首相の「汚染水は完全な制御下にある」発言に見る通り「オリンピック招致に影響するかどうか」が政治家の発言やマスコミ報道を方向づけています。これは社会的優先順位の適切性という観点から見て悲惨な状況です。
汚染水流出について根本策がないのなら、有効策を今後も追求するにせよ、いずれかの段階で「海に流す」という最終手段を覚悟せざるを得ません。その場合「表現の仕方」が問題になります。真実を隱さないのは当然ですが、近隣漁民に不利益をもたらすような意味のない副作用の、最小化を心がける必要があります。
宮台◇ 「燃料棒取り出し中の大事故に東電はどう責任を取るんだ?」は従来にない問題です。「燃料棒取出しは東電が責任を負うべきだから、東電が失敗したら東電の責任だ」というのは、市民社会的通常性の枠内なら問題ないでしょう。でも予測不能・計測不能・収拾不能なリスクが現実化したら、市民社会的通常性が破壊されるので、今さら責任を帰属させたり引き受けたりしても「後の祭り」です。
社会の破滅後に、破滅責任を問うても、社会が消滅している以上「後の祭り」。かかる特殊な営みを、何かあったら責任を負いたくないからと私企業に任せるのは、規定不能なリスクの意味を理解していないと言わざるを得ません。政治決断で特命部隊を組織、全リソースを投入して事に当たる他ない。
それには、マックス・ウェーバー的な意味で責任倫理を有した政治家の登場が必要です。東電に任せるより少しでも成功の可能性が上がるのなら、マイケル・ウォルツァー的に言えば「失敗したら血祭りにあげられる覚悟で」通常ならあり得ない資源投入を行うことを決断する政治家です。カール・シュミットの「非常大権論」に通じる発想が必要です。
宮台◇ 再稼働について、開示された情報を元に当事者住民が討議的に意思決定に関わるチャンスが、与えられないのが問題です。僕は「原発都民投票」住民直接請求の請求代表人として法定署名数を確保、新潟「原発県民投票」の実現にも協力しました。目的は、公開討論会とワークショップを通じた〈参加〉=「〈フィクションの繭〉破り」と、〈包摂〉=「〈地域住民の分断〉克服」です。
今後は、再稼働や新規稼働、瓦礫中間処分場、使用済核燃料中間貯蔵施設や最終処分施設の、立地をめぐる政治決定が、〈フィクションの繭〉と〈地域住民の分断〉を前提に、地方議会の議決など形だけの民主的過程を経てなされて行きます。抗うには、完全なシングルイシューで、公開討論会とワークショップを伴う住民投票を実施する必要があります。
日本は他国よりも「喉元過ぎれば熱さ忘れ」がちです。宗教社会学的な文脈が背景です。実際、原発事故が起こった当初は各地で議決がなされたものの、結局は行政優位=従来的自明性優位に戻りました。他の先進国ではあり得ません。その意味で、丸山眞男的に言えば、民主制があっても健全に作動しません。この状況を変えるには、〈参加〉と〈包摂〉の実質を調達する活動が必要です。地方議会での審議といった「形」を頼ることは出来ません。
例によって宮台発言の一部を抜粋。田中さんの発言を含めた全体は18日発売の『サイゾー』を御覧下さい。
宮台◇ (倒壊すれば「日本が終る」(どころか「北半球が終る」by ファイアウィンズ・アソシエーツのアーニー・ガンダーセン)かもしれない4号機からの燃料棒取り出しを東電に任せていいのかという疑問について)福島第一原発4号機燃料棒取り出しに東電以外の主体が関わると、責任の所在が変わります。国が主体でやることになれば、失敗した場合の損害賠償責任先も、東電から国へと変わります。東電が損害賠償を払えないから国が肩代わりするという場合と違い、国が損害賠償請求先となった場合は直ちに担当行政官のキャリアに響きます。政治家が強力に音頭取りをしない限り、行政官としては関わりたくないという道理です。
宮台◇ (1~3号機に一日400トンの水を注水すると循環後に倍の800トンになって戻ってくるので余分の400トンをタンクに入れているが、最大1000トンのタンクが2日余で一杯になるためタンクを作り続けている状況について、外国特派員協会で田中俊一原子力規制委員長が「(いずれは)流していいレベルまで浄化して海に流さざるを得ない⋯これまでも基準値以下であれば海に流してきたのだからそのレベルまで下げれば何ら変わりはない」と発言した件に関して)田中規制委委員長の言う「浄化して流す」が「希釈して流す」とどう違うかです。問題は「浄化して流す」と定義できるようなやり方が出来るのかどうか。ジャブジャブ地下水が流入し、それが何処にどう流出しているのかも判らない状況だと、浄化と称して結局は希釈に過ぎなくなります。その場合「浄化した」は汚染水放出のインチキ免罪符です。
似た話ですが、地下水を制御しきった上で浄化が出来たと仮定しても、次に水の量が問題になります。田中委員長は「基準値以下の放出はよくあること」と言いますが、どのくらいの規模の放水が「よくあること」なのか。畢竟、今後どのくらい放水が続くのかがが問題です。放水量が膨大なら「よくあること」は単なる詭弁です。
宮台◇ 汚染水放出問題がどの程度話題になるかが、「原発が規定不能なリスクをどの程度抱えるのか」に関する合意形成の貴重な指標です。今後は再稼働や瓦礫中間処分場建設が問題になるので、それら全てを住民投票にかける可能性を念頭に置くなら、汚染水放出問題がさして話題になっていない事実が懸念されます。
社会学者ベックによれば、規定不能なリスクとは予測不能・計測不能・収集不能なリスク。つまり保険会社が保険を作ってくれないリスクです。かかるリスクは、欧州のECRR(欧州放射線リスク委員会)のような、市民と科学者のネットワークを基にした「〈科学の民主化〉を背景とした市民政治」を展開し、共同体的自己決定に繋げる必要があります。
なぜなら規定不能なリスクは、科学者も行政官も政治家も確たる評価ができず、評価の責任を負えないからです。ところが日本では、首相の「汚染水は完全な制御下にある」発言に見る通り「オリンピック招致に影響するかどうか」が政治家の発言やマスコミ報道を方向づけています。これは社会的優先順位の適切性という観点から見て悲惨な状況です。
汚染水流出について根本策がないのなら、有効策を今後も追求するにせよ、いずれかの段階で「海に流す」という最終手段を覚悟せざるを得ません。その場合「表現の仕方」が問題になります。真実を隱さないのは当然ですが、近隣漁民に不利益をもたらすような意味のない副作用の、最小化を心がける必要があります。
宮台◇ 「燃料棒取り出し中の大事故に東電はどう責任を取るんだ?」は従来にない問題です。「燃料棒取出しは東電が責任を負うべきだから、東電が失敗したら東電の責任だ」というのは、市民社会的通常性の枠内なら問題ないでしょう。でも予測不能・計測不能・収拾不能なリスクが現実化したら、市民社会的通常性が破壊されるので、今さら責任を帰属させたり引き受けたりしても「後の祭り」です。
社会の破滅後に、破滅責任を問うても、社会が消滅している以上「後の祭り」。かかる特殊な営みを、何かあったら責任を負いたくないからと私企業に任せるのは、規定不能なリスクの意味を理解していないと言わざるを得ません。政治決断で特命部隊を組織、全リソースを投入して事に当たる他ない。
それには、マックス・ウェーバー的な意味で責任倫理を有した政治家の登場が必要です。東電に任せるより少しでも成功の可能性が上がるのなら、マイケル・ウォルツァー的に言えば「失敗したら血祭りにあげられる覚悟で」通常ならあり得ない資源投入を行うことを決断する政治家です。カール・シュミットの「非常大権論」に通じる発想が必要です。
宮台◇ 再稼働について、開示された情報を元に当事者住民が討議的に意思決定に関わるチャンスが、与えられないのが問題です。僕は「原発都民投票」住民直接請求の請求代表人として法定署名数を確保、新潟「原発県民投票」の実現にも協力しました。目的は、公開討論会とワークショップを通じた〈参加〉=「〈フィクションの繭〉破り」と、〈包摂〉=「〈地域住民の分断〉克服」です。
今後は、再稼働や新規稼働、瓦礫中間処分場、使用済核燃料中間貯蔵施設や最終処分施設の、立地をめぐる政治決定が、〈フィクションの繭〉と〈地域住民の分断〉を前提に、地方議会の議決など形だけの民主的過程を経てなされて行きます。抗うには、完全なシングルイシューで、公開討論会とワークショップを伴う住民投票を実施する必要があります。
日本は他国よりも「喉元過ぎれば熱さ忘れ」がちです。宗教社会学的な文脈が背景です。実際、原発事故が起こった当初は各地で議決がなされたものの、結局は行政優位=従来的自明性優位に戻りました。他の先進国ではあり得ません。その意味で、丸山眞男的に言えば、民主制があっても健全に作動しません。この状況を変えるには、〈参加〉と〈包摂〉の実質を調達する活動が必要です。地方議会での審議といった「形」を頼ることは出来ません。